第3話 夜道
京弥さんと別れてから、私はよろよろとした足取りで家に戻った。
靴を脱ぎ捨て、そのままベッドに突っ伏す。
——近かった…。
目を閉じると、触れそうになった彼の唇が目の前にあるように感じてしまう。心臓は引きちぎれそうなくらいに拍動し、鼓動は
全く、私は何がしたいのだろうか。
あの変な頭痛のせいで脳味噌までやられてしまったのではないか、と自問する。
しかし疲労し切った脳が答えを出すはすはなく、結局問いだけが宙を浮遊するだけになってしまった。
パチンと軽く自分の頬を叩き、身体を起こす。財布の入った鞄を手に、私はもう一度外へ出た。
これといった用事はない。ただ、夜風に当りたかったのだ。
ぶらぶらと歩いていると、いつの間にか裏通りに入っていたらしい。バーやひっそりとした隠れ家的なお店が立ち並ぶ道を、私は歩いて行った。
✽
「あれ、華さん!」
突然声をかけられ驚いて辺りを見渡すと、スナックの看板が出ている辺りに停められた見覚えのある白いキッチンカーが目に入った。
キッチンカーから出てきた金髪のイケメンは、にかっと笑って私に手招きした。太陽のような笑顔に、こちらまで思わず微笑んでしまう。
同じアパートに住む樹君だ。彼はフリーランスで、夜は愛車のバンに乗って移動式のバーを営業しているそうだ。
営業しているところを見るのは初めてだけれど。
「今営業中だし、どう?」
「じゃあ、ちょっとだけ」
樹君がカウンターの前に椅子を置いてくれ、私はそこに腰をかけた。
「ここで営業するの、初めてなんだ。だから、華さんが今日一番のお客さん」
樹君はグラスに入れた水を渡してくれた。グラスがオレンジ色の電球の光を反射して七色の影をカウンターに落としている。
「今日はどうする?弱め?」
「ううん、強め。でも、飲みやすいものがいいな…」
「疲れてる?」
大丈夫だよ、と言うと私は一口水を飲んだ。
そうだなぁ、と棚に並ぶボトルを見ながら、樹君は顎に手を当ててしばらく考え込んだ後、私に聞いた。
「ホワイト・レディなんてどうかな。レモンジュース入りカクテルなんだけど。華さん、柑橘系好きって言ってたからどうかなと思って」
柑橘系、と言う言葉に心が惹かれる。
「すごく気になる…」
「じゃ、それで決まりね」
樹君は慣れた手つきでカクテルを作り始めた。ふわり、と柑橘系の香りが漂う。ドライジンの独特なハーブの香りが漂う。
「お待たせしました、ホワイト・レディです」
「ありがとう」
白色のカクテルの中で丸い形をした
ふんわりとレモンの香りが鼻腔を
「…美味しい」
思わず漏れた溜め息と共に、言葉が溢れ落ちた。
「よかった、結構飲みやすいでしょ、それ。」
「うん、びっくりだよ。正直、私リキュールは強すぎてちょっと苦手だったの」
「僕がちょっとアレンジ加えてるからかもね、度数は確かに高いけど」
私は電球の光にホワイト・レディーを透かした。
「ホワイト・レディ直訳すると、〝白い貴婦人〟って意味なんだ。
「そういえばそんな気もする…。紅茶みたいな甘い香りがするのよね」
いつか見た、白い薔薇。もう何年も屋上には行っていない。もう植えられていないのだろうか。
「あ、そうそう。この氷ね、レモンの果汁を使ってるんだ。見た目がいいものあるし、氷が溶けることによって味が薄まることもないから重宝してるんだ」
ほら、と樹君が冷凍庫から色とりどりの球形の氷を出してきた。
「こっちがピーチ、これがオレンジ、グレープフルーツもあるよ」
楽しそうに話している樹君を見ながら、私はカクテルを一口呑んだ。
「いいなぁ、樹君は。ザ・自由!って感じ。何か羨ましいなぁ…」
「自営業だし、まぁ気ままにやっていけるけどね。それはそれで大変だよ」
でもさ、と樹君は続けた。
「どんな仕事でもさ、やっぱしお客さんとか、取引先の人とか、仕事仲間とか、自分と関わる人に幸せになってもらうためにしてることだと思うんだよね。人を不幸にする仕事が全くないって訳じゃないけど」
樹君はまだ何か言いたそうだったけれど、それきり口を
お酒が
「ん、どうしたの?」
知らぬ間に樹君を見つめてしまっていたらしい。
「何でもないの、…ふふっ、もう酔っちゃったかな」
「潰れたら送ってあげるよ」
さらっとそう言って、樹君は爽やかな笑顔をこちらへ向けた。綺麗な笑顔だな、と思いながら私はまたストローに口をつけた。
*
私は上機嫌で家へと向かう。まだ頬が蒸気していて、夜風が心地いい。
はぁっと息を吐くと、あのオレンジの香りが、私を幸せな気分にしてくれる。
✽
「華さ〜ん!」
元気のいい、女の子の声に振り向くと、アパートの持ち主の娘の桃葉ちゃんがこちらへ駆けてきた。
「華さん、今からお買い物?」
「うん、そうそう。二日分くらい買い込まないといけなくて」
だからそんなに大きな袋を持っていたのね、と桃葉ちゃんは私の持っているエコバッグを指した。
「お仕事、忙しいの?」
「うん、ちょっとね。この時期は毎年忙しいみたいなの」
私は桃葉ちゃんが新しいワンピースを着ているのに気が付いた。
「そのワンピース素敵ね。リボンもついてて可愛のに、大人っぽさも出てて、桃葉ちゃんに良く似合ってる」
「やっぱり?」
華さんわかってる〜、とテンションを上げて嬉しそうに笑うところは、まだまだ小学生らしい。年相応な彼女に私は顔をほころばせた。
「ね、ね、華さん、私も一緒に行きたい!」
「亮君がいいって言うならいいよ」
じゃあ、聞いてくるからと言い残して、桃葉ちゃんは走って行った。
桃葉ちゃんの父親、亮君は私の学生時代の知人の一人だ。そこまで親しくはなかったが。
私が亮君のことを聞いたのは、大学を卒業してすぐのことだった。彼の奥さんが交通事故で亡くなったと聞いた時はかなりの衝撃だった。他の住人がそっとしている中、近所の叔母様方は男手一つできちんと育てられるのかなどと口を揃えて言っていた。
全く、人はどうして突っ込まれたくないところに首を突っ込んでしまうのだろう。勿論、そんな心配事はよそに、亮君は桃葉ちゃんをしっかりした子に育てた。私はそんな彼を本当に尊敬している。
彼は真っ直ぐだ。私は彼の真っ直ぐさが、羨ましかった。
「——…さん、華さん!」
はっとして我に返り、私は握りしめていた手の力を抜いた。
「大丈夫?」
相当酷い顔をしていたのだろう。桃葉ちゃんが心配そうにこちらを見つめている。
「うん、大丈夫。心配しないで」
笑顔を向けると、桃葉ちゃんは満面の笑みを浮かべた。
ふと前が陰り、作業衣姿の亮君が立っていた。どさっと無造作に私の隣に腰を下ろした彼は素朴な笑顔で私に微笑みかけた。
「こんにちは、華さん。桃葉、いいかな」
「うん、大丈夫よ。ついでにそっちの買い物も済ませておこうか?」
車で行くし、荷物さえ取りに来てくれれば、と付け加える。
「そうしてくれるなら助かる。お金は荷物と引き換えでもいいかな、今持ってきてないから」
「うん、いいよ。あ、これ…」
「おう」
亮君はいつもの調子で素っ気なく返すと、私が渡した紙に食べ物やら日用品やらを書き込むと、仕事があるから、と言って桃葉ちゃんに声をかけて戻っていった。
「さ、桃葉ちゃん、行こうか」
桃葉ちゃんと車に乗り込み、私は近くのデパートへと車を走らせた。
信号に引っかかった時、桃葉ちゃんがぽつりと何か言った。私には何を言ったのか聞き取れず、結局そのまま、私は運転に戻った。
バックミラーでちらりと後部座席を見て、私は小さく息を吸い込んだ。握られたカートに、皺が寄っているのを、桃葉ちゃんは黙って見つめていた。
私の心に、小さな塊が沈んだ気がした。
次に信号に引っかかった時、桃葉ちゃんは妙な作り笑顔のまま、顔を上げた。
「華さん、帰りに新しくできたスイーツカフェに行きたい」
「あ〜、ラ・ルーン?いいよ」
「やった〜!」
桃葉ちゃんの声を聞きながら、私の心に黒い靄がかかるのを感じた。
*
買い物を終えてカフェに入ると、桃葉ちゃんは嬉しそうにメニューボードの前に行った。
「私ここの夏みかんパフェ気になってたんだよね〜」
夏みかんパフェのトッピングのオプションを選ぶ桃葉ちゃんを横目に、私はレモンパイを頼んだ。
パフェを頬張りながら、桃葉ちゃんは独り言のようにぽつぽつと話し出した。
「お父さんさ、最近、女の人とよく会っててるの」
どくん、と心臓が大きく拍動した。
「お仕事だって言ってるんだけどね」
ぷすり、とレモンパイにフォークを刺して、ナイフで切る。
口の中に入れると、甘酸っぱいレモンの香りが広がった。レモンの酸っぱさに、少しだけ気持ちが軽くなる。
「お父さん、その人のこと好きなんじゃないかなぁ…」
純粋な瞳が陰る。しかしそれは束の間で、また無邪気にクリームを頬張っては幸せそうに目を輝かせている。
複雑な気持ちが渦巻いているのだろう。そして吐き出すこともできず、心を
サクリ、と音を立てるレモンパイを口の中へ運ぶ。レモンの甘酢っぱさとは裏腹に、どろっとした何かが私の中に溜まっていくようだった。
*
帰りの車の中、ずっと浮かない顔をしている桃葉ちゃんを見て、私は彼女に声をかけた。
「ちょっとだけ、寄り道してもいいかな」
何処にいくの?と不思議そうに問う彼女に「桃葉ちゃんも知ってるところ」と返して車を走らせた。
〝縁結びさん〟の前で車を止めると、桃葉ちゃんと一緒に車を降りた。
「静かでしょう?」
「うん、静か」
よいしょ、と石段に腰をかけると、桃葉ちゃんも真似をして私の隣へ座った。
「落ち着くでしょう?」
うん…、と桃葉ちゃんは静かに頷いた。
「ここに来るとね、つい愚痴を言っちゃうの」
「愚痴?華さんが?」
意外、と桃葉ちゃんは大きく目を見開いた。
「もっと強い人かと思ってた」
それを聞いて、私は思わず吹き出した。
「じゃ、今はどうなの?」
そう聞くと、桃葉ちゃんは急に神妙な顔付きになって小さな声で言った。
「簡単に言ったら、本当の自分を閉じ込めちゃう人…なのかな。他の人の前では愚痴なんて言わなそうだもん」
的確だな、と感心しながら、私は桃葉ちゃんの小さな手にそっと自分の手を重ねた。
「私さ…」
言葉がぽろぽろと紡がれていく。
「自分で思ってたより、ゼイジャクな子なの」
小さく息を吸い、暫く止めた後、息を吐いた少女——いや、彼女は、全く別人であるかのように感じられた。
大丈夫?と、声をかける余裕はなかった。私の身体は凍り付いてしまったかのように、動かなかった。
「お父さん、お母さんのことも、私のことも、捨てちゃうのかな…」
ぽろりと零れ落ちた言葉に、私はただ愕然とすることしか、できなかった。
「私、邪魔なのかな。私は、コブだから」
そう言って溜め息をついた。小学生の少女には似合わない、疲れた溜め息だった。
「…亮君は、そんなじゃないよ」
泣きそうな目でこちらを見た桃葉ちゃんに、私は力強く繰り返した。
「亮君はそんな人じゃなよ。桃葉ちゃんのことも、
「じゃあ何でお父さんは新しい恋人を作っちゃったの?」
まだ決まった訳じゃないけど、と付け加える。
「不安なんだと思うよ」
えっ?と短く発せられた音に続きはなく、桃葉ちゃんはじっとこちらを見つめている。
「一人で子供を育てるのは、大変なんだと思う。それに桃葉ちゃんは一人っ子でしょう?だから、余計に不安なんだと思う」
「それで、他の人を必要としてる、ってこと?」
「だと思う」
上手く伝えられたか心配だったが、桃葉ちゃんは少し頬を緩めた。
「何となく、わかった気がする」
小さくそう言って、目を伏せ、また笑顔を作ろうとする。悲と喜がごちゃ混ぜになった顔で、桃葉ちゃんは息をついた。
*
「なんか、すっきりしたなぁ…」
帰りの車の中、桃葉ちゃんは窓の外側を眺めながら呟いた。
あんまり考えていないようで、子供は色々考えていると思う。大人がちゃんと隠せていると思っていることも、子供は案外見抜いてしまっているのだろう。
単純な言葉しか知らなければ、苦しみなんて、少なくなるだろうに。
私たちは嫌でも新しい言葉に出会う。読んでいる本、好奇心、興味、大人の話。
そうやって目に入り耳に入り、私たちの感情というものを複雑にしていく。
次第に言葉にできなくなっていって、何処かに投げ捨てることもできなくなり、吐き出すこともできないまま、独りで抱え込むようになる———そうたった独りで。
私が、そうだったように——…。
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