第2話 意味の無い気持ち

 あれは———あの感情は、なんと言えばいいのだろうか。

 心に残る不思議な感覚と、実際には残っていない、しかし微かに肌に感じる彼の温もり。

 何処か懐かしい、あの香り。あれは、ラベンダーだったか。


 前日の夜、どのようにして自分が眠りについたのかわからない。冷蔵庫にコンビニで買ったチーズケーキを入れたところまでは確実に覚えているのに。

 気が付くとベッドの上で眠っていた状態だったのだ。きちんとお風呂にも浸かっていたようではあるのだが。


 その時、ベッドの近くに置いてあるスマホが着信音を鳴らした。


 小鳥のさえずりのような可愛らしい音楽が朝日と共に流れれば、普段なら心が癒されるところだろうが…。


 スマホの画面に表示されているベルマークを押す。


「もしもし、お母さん?」


「ちょっと、華。何なのよその寝ぼけた声は」


「今起きたんでしょ?」と問われ、少し面倒くさくて適当な返事をする。


「ま、いいんだけど。休日なんでしょう。それでね」


 母が〝それでね〟を使うと二言目には必ず「お見合いの話なんだけど」という決まり文句が来る。


「お見合いの話なら切るけど」


 母が話を切り出す前に電話を切ろうとすると、母は慌てた様子でそれを止めた。


「今回は藤井さんのお勧めなのよ。華ちゃんもいい年なんだからそろそろ結婚しなさいなんて周りから言われてるだろうからなんて、気を使ってくださってね」


 まただ。


 私は電話の向こうの母に聞こえないように溜め息をついた。

 藤井さんは確かに良い人だ。元々は父の学生時代からの友人で、幼い時に父が亡くなってからは、奥さん共々私のことを実の娘のように可愛がってくれた。


「でもね、お母さん。私まだ三十一だし…働き盛りなのに、結婚相手を決めるのをそんなに急がな——」


「私だってそうは思うわよ。でもね、私は持病持ちだし、いつ死んだっておかしくないしわくちゃのお婆ちゃんなのよ?」


 私の言葉を途中で遮ってまくし立てるように、母は早口で続けた。


「私が今にも死にそう、なんて時に貴女が独り身じゃ心配なのよ。それにね——」


「お母さん」


 なだめるようにゆっくりとした口調で言うと、母はようやく口を噤んだ。


「私だって、今までに何人かの男性とお見合いしてきたけど、どの人ともしっくりこなかったからお付き合いしていないのよ…。それに紹介してくるのはお母さんや藤井さんの価値観で選んだ人たちだもの」


 一度言葉を切ると、私は静かに続けた。


「それにね、お母さん。生涯を共にする人は自分で決めたいの。その人と結婚するからには、その人を愛したいし、愛されたいの」


 電話の向こうで、母は静かに息を吐いた。


「わかったわ。私の持病のことで、これ以上貴女を巻き込む訳にはいかないものね」


 チクリ、と小さな針が胸に刺さった気がした。


「でも、とにかく今回は藤井さんのご紹介だし、会うだけ会ってみてちょうだい」


 ぷつり、と通話の切れる音がして私はスマホを持ったままベッドの上に身を投げた。

 折角の休日が、一気にどろどろとしたものに変わってしまった。


 スマホに送られてきたお見合い相手の釣り書きに目を通していると、自然と溜め息が漏れた。


「36歳…バツイチか」


 今回の相手も訳ありそうだな、と小さく溜息をつく。まぁ、重要なのは性格(と経済力)だ。

 画面をスクロールする指をピタリと止める。


「約束の日が⁉︎」


 私はベッドから飛び起きた。とにかく急いで準備をしなければ。

 お見合いの時に着て行く服のセットは既に決めてある。過去にも急にお見合いをセッティングされたことがあるのだ。

 夏でも暑くない薄手のトップスと、パープルのロングスカートをクローゼットから引っ張り出す。


 鏡の前に立つと、言うことを聞かない髪の毛を無理矢理纏まとめてしまう。思っていたよりもいい出来だと自画自賛して、朝食の準備を始めた。


 お湯を沸かしながらインスタントのコーヒーを淹れる。遅めの朝食にはなってしまうが、まぁいいだろうといつものようにトーストとスクランブルエッグを焼いた。


  朝食とある程度の家事を済ませてしまうと、私は再び鏡の前に立った。


 自分の顔を見ると、いつもを感じる。何か大事なものを忘れているような…。


 ————思い出せない。


 私は頭を抱えた。


 苦しくて、叫び出したいくらいに頭が痛む。


「ぐっ…ぅ」


 うめき声が漏れ、脂汗が滴り落ちる。私は身体を折り曲げて痛みに耐えた。


 何なのだろう、どうしてなのだろう。

 何故、こんなにも心が痛むのだろう。

 何故、思い出させてくれないのだろう、この身体は——…。


 まだ痛みの残る頭を押さえながら、私は起き上がった。


 そろそろ行かなければ。

 まだ時間に余裕はあるが、私には寄りたい所があるのだ。


 アパートの階段を降りる。コンコンとリズム良く、パンプスが音を奏でる。


 そのまま私はあの場所へ向かった。



 また、会えないだろうか…。

 僅かな期待を胸に、そっと敷地に足を踏み入れた。


「そう簡単に、会えないよね」


 自分に言い聞かせるように放ったは、何処かに飛んでいくこともせず、ただ空気の中に停滞して、ぽとりと地面に落ちてしまった。

 いつもと同じ静寂に包まれた縁結び神社は、更に私の寂しさを掻き立てる。

 私は石段に座って暫く神社の空気の中に漂った。


 ふぅ、と溜息をつく。


行かなければならない。お見合いを受けると言ったからには——私が承諾したわけではないけれど——相手を待たせるのは良くない。

 仕方なく、私は重い腰を上げた。


 気分?良いわけがない。

 何が嬉しくて、親が用意したお見合いに足を運ばなくてならないのだろうか…いや、愚痴を言うのはよそう。



 結局、不安的な気持ちのまま、お見合いは終わった。相手の人は確かに良い人だった。話しやすいし、雰囲気もいい。ただ問題なのは、前の奥さんと死別していたことだった。その人はどちらかと言うと、私よりも、奥さんに似ている私に惹かれたようだった。


 結果、お断りと相成った訳だ。



「何か、残念だなぁ」


 いい感じの人だったのにさ、と愚痴を漏らすと、向かい側に座った友人が慰めるように言った。


「まぁさ、死別ってもんはどうしても心がそっちに行きがちだよね。仕方ないよ」


 高校時代からの友人、佑ちゃんこと朝葉ともは裕子ゆうこが同情するようにバシバシと肩を叩く。


「ま、そうなんだけどさぁ…。そんなことで、なんて言っちゃ悪いけど、私の貴重な休日を奪わないでほしいよ…」


「ちょっとちょっと〜、ここに貴女の愚痴を聞くために呼び出された女がいるんですけど?」


「ごめんって。ほら、抹茶ラテ奢るから」


 人の好物で釣るな〜、なんて言いながら、裕ちゃんは楽しげに笑っている。


「私は華のこと羨ましいけどね」


 抹茶ラテを手に、佑ちゃんは笑うのをやめて言った。


「美人だしちょっとミステリアスっていうか。そういうとこ、結構好かれてたんだよ?」


「学生時代でしょ?それに、美人は余計よ。今はおばさんなんだから」


 それはお互い様、と彼女は苦笑した。


「あたしはさ、これでも結構苦労した方だから」


 耳元のイヤリングがシャランと悲しげな音を立てる。彼女の方を見ると、誤魔化すように不自然な微笑みを見せた。


「さてっと、今日はお開きでいいかな?」


「うん。なんか、ありがと。佑ちゃんと話したらすっきりした」


「いえいえ〜、お安い御用だよ。またいつでも呼んでよ」



 裕ちゃんと別れてから、私は飲んでいたフラペチーノのせいで冷たくなった手を首に当てた。ひんやりとした感覚が気持ちいい。


 帰路を歩いていると、鞄の中でマナーモードにしていたスマホがバイブ音を立てた。


 お母さんからだ。

 今出たら、きっとお見合いのことを聞かれるだろう。私はスマホを鞄の奥に仕舞い込んだ。


 ふらふらと、赤く染まった街を歩く。


 いつの間にか、縁結び神社まで戻ってきていた。神社の空気が不思議な安心感と静けさが心に染み込ませていく。


 涙腺が熱くあった。


 違う、違うのだ。ショックを受けているわけではない——いや、確かに、ショックを受けてはいるけれど、それとは少し違う気がする。


 何か大きなものに支配されているような、不思議な感覚だった。


 不意に力が抜けて、私は石段に座り込んだ。


 何をしているんだ、私は。


 ぎゅ、と爪痕が残りそうなくらい手を握りしめる。うずくまるようにして足を抱え込み、腕の上に顎を乗せる。


「呑みに行きたい…」


 心の中で呟いたつもりが、声に出てしまった。まぁ、誰も聞いていんだし、いいか、とそう思っていたのだが…。


「何してるの」


 クスッと笑う声がして、あの声が降ってきた。


「あ…」


 零れ落ちそうになった涙を奥へを無理矢理引っ込めていたからか、上手く声が出ない。慌てて立ち上がろうとすると、彼は手でそれを制して自分も石段に腰かけた。


「大丈夫さ、誰も見てない」


 彼はそう囁くと、私の顔を隠すようにしてそっと抱き寄せた。我慢いていた涙が、暖かな声と体温に溶かされて止めどなく頬を滑り落ちた。自分の情けない声だけが、耳へと伝わってくる。彼は何も聞かず、ただ黙って私の背を撫で続けてくれた。

 涙が止まり、漸く落ち着いた私は、ぐしゃぐしゃになった顔を隠すようにして身体を起こした。


「ん…落ち着いたかい?」


「はい…あの、ありがとうございます」


 彼は自分から離れるわけでもなく、そっと私の頭に左手を乗せて撫でた。驚きと恥ずかしさとで私の頬はたちまち赤くなった。


「ふふっ、そんなに可愛い顔をしていると、連れていってしまいたくなるよ」


 冗談で言ったのだろう。彼はクスクスと笑って私から離れた。


「あ…あの」


「ん、何だい?」


「お名前を…教えていただけますか?」


 彼は一瞬驚いた表情を見せたが、君のも教えてくれるならね、と言って白い名刺を取り出した。私も慌てて名刺ケースから名刺を一枚取り出した。私が渡し方に迷っていると、それを見取ったのか彼は楽しげに笑った。


「そんなに緊張しなくていいよ。会社の取引先とかじゃ、ないんだから」


 そう言うと彼は私に名刺を渡し、私の名刺を受け取った。


「華さん、っていうのか」


 彼の声は少し震えていた。


 何故だろう。胸が痛い、呼吸がしづらい。


「…あ、はいっ」


 急に名前を呼ばれてどきりと心臓が跳ねる。

 赤くなってしまった頬を見られないように俯くと、彼は慌てたように謝った。


「ごめんごめん、この前知ったばかりの男に馴れ馴れしく名前を呼ばれるなんて、いい気はしないだろう」


「いえ、そんなこと…ないです」


 思わず声が出てしまった。


「嫌じゃないので…もっと呼んでほしい…です…京弥さん」


 驚き見開かれた相手の表情が哀愁を含んだ。


「私でいいのかい、そう言うことを頼むのは」


 私はそれ以上、何も言えなかった。


 名前を知ってしまった。あんな風に抱きしめられて、全く何も知らなかった彼の名前を知ってしまって…

 もう少しこのまま———…貴方の声に触れていたい。貴方の温もりに触れていたい。

 名前を知ることはできたけれど、もう、会えないかもしれない。声をかけることもできず、私はただじっと、彼を見つめた。


「華…さん?」


 少し心配そうに声をかける彼に、私はもう一度手を重ねて——私の唇は小さく動いた。

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