海に散る

平川彩香

第1話 彼との出会い

 金曜日の仕事帰り、コンビニの袋をだらしなくぶらぶらとぶら下げて、私は軽々とした足取りで帰路を歩いていた。


 何故なら———…


 明日から待ちに待った2連休だからだ!

 2だ!


 入社二年目、仕事にはまだ慣れきれていないが、今やっている企画のプレゼンも順調に進んでいる。不器用な自分にしてはいいペースだと、心の中でガッツポーズする。


 不意に、潮の香りを乗せた風が頬を撫でて通り過ぎた。立ち止まって、人気のない道の真ん中で少しの間目を閉じる。風に揺られて木の葉が擦り合う音が絶え間なく聞こえてくる。


 目を開けて歩き出した私の足は、家とは真逆の方向へと向かっていた。海辺にある、小さな神社に立ち寄るためだ。


 〝縁結びさん〟の愛称で知られているこの神社は、私の学生時代の思い出が詰まった場所でもある。成人して一人暮らしを始めてからも、気付いたら週に一回は立ち寄るようになっていた。


 すぅ、と息を吸い込むと、古い樫の木の香りが肺を満たす。安心すると急に脱力して、私は石段の上に座り込んだ。


「帰りたくない…」


ポツリと放った言葉は、すぐに地面に溢れ落ちた。


 独りの方が気楽だけれど、時々、一人が怖い。気付かないうちに矛盾を抱えている。そんなことなんて当たり前のことなのに、それにさえ疲れてしまう。矛盾を抱えて生きていくことに疲れたなんて愚痴を言うのは、何回目だろうか。嗚呼、これも矛盾か。


 私はおもむろに自分の髪を引っ張った。こうしてしまうのは小学生の時からの癖だ。父が亡くなり、まだ人の死というものを十分に理解できていなかったあの頃の私は、父のお墓の前で泣く母を、そうして見ていることしかできなかったのだ。知らないことで悲しみは少なくなるが、知らないのは罪だ。あの時の私を、今の私は罪人のように見下ろしてあの日を振り返る。


「あれ、お姉さん一人?」


 唐突に声をかけられ驚いて顔を上げると、見知らぬ男が二人立っていた。


「何かご用ですか?」


「いや、特にそれという用事はないんだけどね?」


 なら声をかけないでほしいと内心思いながら、重い腰を上げ立ち去ろうとすると腕を掴まれた。


「何なんですか、離してください」


 掴まれた手を反射的に振り払うと、腕を掴んできた男は呆気なく地面に倒れた。酔っているのだろうか。男の顔は赤らんでいる。


 ———面倒なことになりそうだ。


 私の予感は見事に的中した。


「ってぇな…」


 地面に倒れ込んだ男は、立ち上がるなり私に向かって拳を振り上げた。


 ———…ぶたれる…!


 思わず目を閉じたが、衝撃は来ない。恐る恐る目を開けると、振り上げられた男の手は何者かによって掴まれていた。


「人の連れに何してくれてるの?」


 冷静で、しかし怒ったような声音で誰かが男に詰め寄る。その声に聞き覚えはなく、私の脳は更に混乱する羽目になってしまった。


「お兄さん、ちょっとその手離してもらっていいスか?」


 男が怒ったように言うとその人はあっさりとその手を離した。そして、私にゆっくりと近づいてくる。


「大丈夫だったかい?一人にしてしまってすまなかった。一緒に行けばよかったね」


 状況の整理がつかないまま、私はその人に抱き寄せられた。ふわり、ラベンダーの香りに包まれる。何故だろう、どこか懐かしい気がする。


「悪いけど、私の連れを奪わないでほしいな。自分の彼女に他の奴の手が触れるなんて、虫唾が走る」


 その人は二人組の男に向かって何か囁いた。私には何と言ったのかまでは聞こえなかったが、二人は途端に顔を真っ青にしてその場から走り去っていった。正確に言えば、彼に囁かれた方の男が立ちすくみ動けなくなっているのを、隣にいた男が引きずるようにして逃げていったのだが。


 ふー…、と息を吐いて、その人は私の方へ向き直った。ビクッと身を引くと彼は少し距離を置いた。大丈夫、危険な人ではなさそうだ。


「あの…大丈夫ですか?怪我とかしてないですか?」


 俯きがちに話しかけると、暖かい声が降ってきた。


「私は大丈夫。この通りかすり傷一つ付いていないよ。それより、君は大丈夫かい?」


 小さく頷くと、彼は声のトーンを下げて私に言った。


「ごめんね、見ず知らずの男に彼氏ぶられて…いい気分はしないだろう?」


「いえ、助けていただいてありがとうございます」


 素っ気ない返し方をしてしまい申し訳ない気もしたが、それには彼は気にしていないようだった。

 私は改めて、相手を見た。風に揺れる柔らかそうな金髪が、透き通った碧い目を引き立てている———いや、お互いがお互いを引き立てあっている、と言った方が正しいだろうか。思わず、息をするのも忘れて見惚れてしまった。


「…君、見つめすぎだよ」


 すみません、つい、と俯きがちに言うと、その人は「ふふ」と、また楽しそうに笑った。何故だろう、初めて会った気がしない。不思議な感覚だった。


「あの、今度お礼させてください」


 思い切って言うと、その人は「悪いよ、そんな」と言う訳でもなく、「ありがとう」と言う訳でもなく、会話を続けるつもりもなさそうな表情で、笑みを浮かべた。突っ立っている私を一瞥して、彼は「気を付けて帰るんだよ」とだけ言って立ち去ってしまった。


 ぽわ、と頰が熱くなるのが手で触れなくてもわかる。暫くそこに立ったままで、まだ夢を見ているような感覚で熱を帯びた頬に手を当てた。

 はっとして、大きな通りまで出てみたけれど、その人の姿はもう何処にもなかった。それにしても、見間違いだったのだろうか…あの人の目が潤んでいたのは。

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