海に散る
平川彩香
第1話 彼との出会い
金曜日の仕事帰り、コンビニの袋をだらしなくぶらぶらとぶら下げて、私は軽々とした足取りで帰路を歩いていた。
何故なら———…
明日から待ちに待った2連休だからだ!
2連休だ!
入社二年目、仕事にはまだ慣れきれていないが、今やっている企画のプレゼンも順調に進んでいる。不器用な自分にしてはいいペースだと、心の中でガッツポーズする。
不意に、潮の香りを乗せた風が頬を撫でて通り過ぎた。立ち止まって、人気のない道の真ん中で少しの間目を閉じる。風に揺られて木の葉が擦り合う音が絶え間なく聞こえてくる。
目を開けて歩き出した私の足は、家とは真逆の方向へと向かっていた。海辺にある、小さな神社に立ち寄るためだ。
〝縁結びさん〟の愛称で知られているこの神社は、私の学生時代の思い出が詰まった場所でもある。成人して一人暮らしを始めてからも、気付いたら週に一回は立ち寄るようになっていた。
すぅ、と息を吸い込むと、古い樫の木の香りが肺を満たす。安心すると急に脱力して、私は石段の上に座り込んだ。
「帰りたくない…」
ポツリと放った言葉は、すぐに地面に溢れ落ちた。
独りの方が気楽だけれど、時々、一人が怖い。気付かないうちに矛盾を抱えている。そんなことなんて当たり前のことなのに、それにさえ疲れてしまう。矛盾を抱えて生きていくことに疲れたなんて愚痴を言うのは、何回目だろうか。嗚呼、これも矛盾か。
私は
「あれ、お姉さん一人?」
唐突に声をかけられ驚いて顔を上げると、見知らぬ男が二人立っていた。
「何かご用ですか?」
「いや、特にそれという用事はないんだけどね?」
なら声をかけないでほしいと内心思いながら、重い腰を上げ立ち去ろうとすると腕を掴まれた。
「何なんですか、離してください」
掴まれた手を反射的に振り払うと、腕を掴んできた男は呆気なく地面に倒れた。酔っているのだろうか。男の顔は赤らんでいる。
———面倒なことになりそうだ。
私の予感は見事に的中した。
「ってぇな…」
地面に倒れ込んだ男は、立ち上がるなり私に向かって拳を振り上げた。
———…ぶたれる…!
思わず目を閉じたが、衝撃は来ない。恐る恐る目を開けると、振り上げられた男の手は何者かによって掴まれていた。
「人の連れに何してくれてるの?」
冷静で、しかし怒ったような声音で誰かが男に詰め寄る。その声に聞き覚えはなく、私の脳は更に混乱する羽目になってしまった。
「お兄さん、ちょっとその手離してもらっていいスか?」
男が怒ったように言うとその人はあっさりとその手を離した。そして、私にゆっくりと近づいてくる。
「大丈夫だったかい?一人にしてしまってすまなかった。一緒に行けばよかったね」
状況の整理がつかないまま、私はその人に抱き寄せられた。ふわり、ラベンダーの香りに包まれる。何故だろう、どこか懐かしい気がする。
「悪いけど、私の連れを奪わないでほしいな。自分の彼女に他の奴の手が触れるなんて、虫唾が走る」
その人は二人組の男に向かって何か囁いた。私には何と言ったのかまでは聞こえなかったが、二人は途端に顔を真っ青にしてその場から走り去っていった。正確に言えば、彼に囁かれた方の男が立ち
ふー…、と息を吐いて、その人は私の方へ向き直った。ビクッと身を引くと彼は少し距離を置いた。大丈夫、危険な人ではなさそうだ。
「あの…大丈夫ですか?怪我とかしてないですか?」
俯きがちに話しかけると、暖かい声が降ってきた。
「私は大丈夫。この通りかすり傷一つ付いていないよ。それより、君は大丈夫かい?」
小さく頷くと、彼は声のトーンを下げて私に言った。
「ごめんね、見ず知らずの男に彼氏ぶられて…いい気分はしないだろう?」
「いえ、助けていただいてありがとうございます」
素っ気ない返し方をしてしまい申し訳ない気もしたが、それには彼は気にしていないようだった。
私は改めて、相手を見た。風に揺れる柔らかそうな金髪が、透き通った碧い目を引き立てている———いや、お互いがお互いを引き立てあっている、と言った方が正しいだろうか。思わず、息をするのも忘れて見惚れてしまった。
「…君、見つめすぎだよ」
すみません、つい、と俯きがちに言うと、その人は「ふふ」と、また楽しそうに笑った。何故だろう、初めて会った気がしない。不思議な感覚だった。
「あの、今度お礼させてください」
思い切って言うと、その人は「悪いよ、そんな」と言う訳でもなく、「ありがとう」と言う訳でもなく、会話を続けるつもりもなさそうな表情で、笑みを浮かべた。突っ立っている私を一瞥して、彼は「気を付けて帰るんだよ」とだけ言って立ち去ってしまった。
ぽわ、と頰が熱くなるのが手で触れなくてもわかる。暫くそこに立ったままで、まだ夢を見ているような感覚で熱を帯びた頬に手を当てた。
はっとして、大きな通りまで出てみたけれど、その人の姿はもう何処にもなかった。それにしても、見間違いだったのだろうか…あの人の目が潤んでいたのは。
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