第26話

そこはまさしく天国であった。

暖かい湯、心地の良い汗、雄大な富士山、そして三体の白い怪物。

旅館のお風呂はそっくりそのまま銭湯のようで外にこそ出れないが期待以上の物なのは確かだった。

しかし湯船に入るには体を洗わなければならず、体を洗うのであれば男三人には切っても切れない問題がある。


 「くっそ…なかなか取れねぇなぁ」


 「そりゃあ柊馬が一番長くいたからね…」


 「でも一番近づいたのはいずみ君だし、いずみ君の方はまだ結構におうよ」


そう、死臭だ。

僕たち男三人と雨宮さんは死体のある空間へと入ってしまった。

その腐ったにおいというのは簡単に取れるものではない。かれこれニ十分は体をこすっているが、あの場に一番短くいた委員長がようやく妥協できる程度になったというところである。


 「なあ柊馬、もうそろそろいいんじゃないか?においだってもうしないだろ」


委員長は柊馬に腕を差し出す。それを二、三度嗅いだ柊馬は鼻を抑えしかめ面をする。


 「お前、これで大丈夫だと思うのは鼻が腐ってるぞ。って、うわ、鼻を抑えたら余計臭くなった!なんでだ!」


腐っているのは頭の方だよ…


 「そうか…でもしっかりにおいは落とさないと、日菜ちゃんにまた思い出させちゃうからな…」


落ち込みながら再び体を洗い始める委員長。

その姿を見たら、さすがに心が痛んだ。


 「あとでファブリーズしよっか。きっと旅館なら置いてあるだろうし」


こうして僕たちは決して癒されるとは言えないようなお風呂タイムを過ごすのであった。




 「うぅ…まだにおう気がする…」


 「そんなことないよ。鼻が腐ってるから、何嗅いでも同じにおいがするだけだよ」


 「本当に…?」


少女は心配そうに腕を嗅ぎ、顔をしかめる。

気になったので私も近づきにおいを嗅いでみた。

シャンプーとボディーソープの甘い香りが初めに伝わり、鼻腔の奥に微かに残ったあの生ごみのにおいを刺激する。混ざり合ったそれらは間違いなく顔をしかめるに値するが、肝心の少女からは甘い香りしかしてこない。


 「大丈夫だと思いますよ。いいにおいしますし、生ゴミみたいなにおいは私たちの鼻に残っているにおいなのでしばらくの間自分はにおうかもしれませんが周りからは大丈夫なはずです」


 「ほんとうに臭くない?」


 「もし気になるのであれば後でおばさまに消臭剤でももらいましょう。炭とか十円玉がいいって聞いたことがありいますよ」


炭と十円玉と聞いて少女は首をかしげる。おかしいな。脱臭効果があるのはコーヒーのカスだっけ?


 「なんでもいいけどさ、そろそろ湯船につかろうよ。あんなに歩いたのに二人とも足痛くないの?私もうパンパンなんだけど」


一足早く湯船につかっていた一ノ瀬さんに呼ばれる。

話し相手が欲しいのだろう。体に残った泡を洗い流し湯船につかることにした。



今更ながら初対面の雨宮さんと自己紹介をしあう。

なんでも彼女は島一番の富豪である雨宮家の長女らしい。案内をしてくれたおばさまとは小さいころに数回会ったくらいで久しぶりの再会だったとか。

挨拶がひと段落したところで、待っていましたとばかりに一ノ瀬さんが口を開く。


 「それでさ、柊馬とはどんな感じなの?」


 「それがこの前お弁当を作ったんだけど、何食べても美味しいって言うからどうなのかわからなくて…」


 「美味しいと言ってくれるのは良いことではないのですか?」


不思議に思い問いかけると、雨宮さんは困ったような顔をして答える。


 「でも焦げたハンバーグまで美味しいなんて言われたらどうしようもないと思いませんか?」


たやすく想像のできる状況に思わず吹き出してしまう。

きっと本人にとってはどれも美味しいのだろうが、作った側としては何か具体的な感想が欲しいのも確かだ。そういうの、野田くんは苦手そうだ。


 「ねえ、胡桃ちゃんは委員長にお弁当とか作らないの?」


 「んー、遠足とかの行事の時は私が作って渡してるよ。しょっぱいだなんだ言いながら毎回完食してくれるから作ってる側からしたら文句なしかな」


 「一ノ瀬さんのお弁当はとても美味しそうですけど、味の文句とか言われるんですね」


そう言いながら彼女のお弁当の中身を思い出す。

ふっくらしただし巻き卵に色味のいいほうれんそうのお浸し。どれも美味しそうに見えたのだが…

一ノ瀬さんは不思議なことに満面の笑みで質問に答える。


 「いやいや、文句ではないのよ。「今日は暑かったから、しょっぱくて美味しかった」ってね。精一杯感想を言おうとしてる感じがいいよね」


 「…のぼせてるでしょ」


呆れ顔で雨宮さんが呟く。普段の様子から想像できない惚気に驚きを隠せない。

いや、むしろ普段しっかりしているからこその惚気だろうか。


 「今年の文化祭も委員長と見てまわるの?」


 「そーよー。そういう日菜ちゃんは?勿論柊馬とまわるんでしょ?」


雨宮さんの問いににんまりとしながら答える。


 「まわりたい、ですけど…」


しかし、雨宮さんの方は反面浮かない顔をしていた。

話の流れや今日一日の行動を見ていて付き合っているものだと思っていたのだが違うのだろうか。


 「ああ、もう既知だと思って話してたね。私と杏平は付き合ってるけど、日菜ちゃんと柊馬はまだ付き合ってないよ。日菜ちゃんの片思い」


不思議そうな表情をしていたのに気づいてくれたのか一ノ瀬さんが代わりに教えてくれる。

ようやく今の話が腑に落ちた。

というか、野田くんの態度が優しすぎて、彼に振り回されている雨宮さんが少し気の毒に思えてしまった。この健気な少女が早く幸せになってほしいと、一度思ってしまったからか、心が落ち着く気配がない。

そんな私の胸の台風とは裏腹に、雨宮さんは思い詰めた表情をしている。

どうしようかと迷い、覚悟を決めたようにつばを飲み込んで彼女が口を開く。


 「やっぱり男の人って大人の女性の方が好きなのかなって、私まだ子供だから…」


そう言って胸をそっと抑える。あまりにも悲しくて見ていられなかった。


 「大丈夫です!そんなことはありません!!」


思わず手を取り、固く握りしめる。


 「かの光源氏も十歳程の若柴に一目惚れして、最終的には妻にまでしています!恋をするのに大人か子どもかなんて関係ないんです!」


 「あ、ありがとう…お姉さん」


驚きのあまり開いた口が塞がらないという感じの表情を見て我に返る。

唐突に頭が真っ白になり、それに比例して顔が赤くなるのがわかる。


 「わ、あ、えっと、すみません。出過ぎたことを言ってしまって」


逃げるように顔を隠して湯船の隅の方へと移動する。

いや、移動してどうするのだ。結局この部屋には私たち三人しかいないんだから、つまりどうすればいいんだ?


 「ふふ…あはははは。光源氏ってそれ、そうだね。間違ってはいないね」


一ノ瀬さんが笑い声がまるでの救いの鐘の音のように聞こえた。


 「ましろちゃん良いこと言うじゃない。ふふ、やっぱりいい子だね」


こっちにおいでと手招きをされ、一ノ瀬さんの隣に身を寄せる。

火が吹き出そうな顔はお湯に半分沈めることでひとまず落ち着かせた。


 「よしよし。日菜ちゃんもましろちゃんの言う通りよー。男が自分にないものを求めているならとっくにそいつは離れているのよ。それでも自分の近くにいてくれるってことは、自分にしかない何かを好いてくれてるってことじゃない。ないものねだりより、ひたすら自分磨きをするのよ」


 「自分磨き…」


雨宮さんが言い聞かせるように呟く。

一ノ瀬さんの価値観は凄くて、芯が通っているところが羨ましかった。

隣にいる彼女のようになりたいと、その横顔を見上げながらそう思う。


 「で、ましろちゃんといずみ君はどこまで行ったの?もうキスはした?」


突然の言葉に思わず咳き込む。


 「な、え、いや、そんな関係じゃないですよ。友達!友達です…」


 「唯の友達なの?ずいぶん仲がよさそうに見えたけど」


とても純粋な目をした少女に問われ、喉に小骨が詰まったような感覚に襲われる。

逃げ場を探して辺りを見回すが、一ノ瀬さんにがっちりと手を握られ逃げられない。

というか、こちらのお嬢さんは興味津々というようなずいぶんと汚れた目をなさっている。


 「じゃあさ、友達としていずみ君のことをそう思ってるの?」


二人に詰められ完全に逃げ場を絶たれる。

言葉に詰まる私から取り調べのようにゆっくりと言葉を吐き出させるその様子は、まるで悪夢のようだった。




 「あれ、ましろたちも今出たところなんだ。ずいぶんと長かったね」


 「え、えぇ、ちょっとお話が盛り上がってしまって…」


 「あ、鈍感三銃士だ」


雨宮さんが男子三人を指差しながら小さく呟く。

一ノ瀬さんは笑いを堪えようと俯いて小さく肩を震わせていた。

というか、さっきの会話のせいで顔を合わせられない。

どうして本を部屋に置いてきてしまったのかと一気に後悔する。


 「大丈夫?顔がずいぶんと赤いけれど、のぼせた?水貰ってこようか?」


 「あ、えっと、じゃあ…」


 「私たちがしっかりと部屋まで連れて帰るから大丈夫。すぐ夜ご飯の時間だし、お互い部屋に戻りましょ。ね?」


一ノ瀬さんに助けられお互いそのまま部屋へと帰ることになった。

それにしても…


 「そっかぁ…こういうことかぁ」


先ほど一ノ瀬さんに言われた言葉が頭の中で反響する。

体が火照ってしょうがない。

今夜は眠れそうになかった。

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