第20話①
8月2日満月の夜、真っ暗闇に彼女はいた。
うすぼんやりと見える神社が、一層不気味さを際立たせている。
そんな不気味な景色の中に、一か所だけ闇を切り取ったような場所があった。
それが彼女だった。白いワンピースと黄色いカーディガンが、いやに目立っている。
そのせいか顔はよく見えない。
「よかった、ちゃんと来てくれたんですね」
「約束だからね、ちゃんと守るよ」
それを聞いた彼女はふふふと笑った。
「ならこの前の答えはちゃんと出たんですね。立ち直れたようでよかったです」
雰囲気が嫌な感じで心配したんですよと彼女は言った。
確かに不安定だったかもしれないけれど、とどめを刺したのはあなただと思うのです、とはさすがに言えなかった。
「それじゃあ改めて質問です。あなたは何色ですか?」
顔の見えない彼女が答えのない問いを投げる。
結局自分の色を決めるのに電話をしてから三日もかかってしまったが、その分しっくりくる答えができたと思う。
「多分望んでるような答えじゃないと思うけど言うね。僕の色は黒。たくさんの絵の具を混ぜて出来上がるような醜い色です」
考えてきた文章をそっくりそのまま言い切る。
彼女はその場から動かない。
「どうして黒なのですか?」
「個人の思想や意志って色んな色があると思う。僕は人一倍影響を受けやすいから、自分自身を見失いがちだった。でもそれは間違っていて、他人の思想の寄せ集めでもそれはちゃんと自分のものだから誇っていいものなんだ。これからも僕は他人の思想や主義を取り入れていくと思う。それでも、確固たる自分を持ち続けるために、僕は黒く在りたい」
人間は多面的でたった一色では表せない。でも多面的で、見方によっては色々な色があるからこそ混ざらず見失うことのない色が自分の色だと言えるようになりたいと。
勿論自分はまだまだそんなことを言えるレベルの人間ではない。
それでも一生懸命考えて出した答えだ。決して嘘は言ってない。
彼女は考え込むような仕草をして首をかしげる。
「あなたはもっと感情のわかりやすい色を、それこそ水色や橙色などを言うと思っていたので予想外でした。ですがあなたらしくてとてもいい答えだと思います」
暗闇の中で彼女がほほ笑んだような気がした。
今まで何度も考えを交わしてきた仲だけど、やっぱり自分の考えを認めてもらえるというのは嬉しかった。
「じゃあ今度は私の番ですね。見せたいものがあるので是非ついてきてください」
彼女は近くに置いてあった大きなスーツケースを引きずって森の奥へと歩き始める。
「それじゃあ、行きましょうか」
こちらを振り向き手を差し出す彼女の表情は、暗闇のせいでやはりわからない。
しかし、僕には何となく彼女がほほ笑んでいるように見えた。
彼女に手を引かれ森の中を進んでいく。
僕は都会で生まれ育ったし、島に来て夜に出歩いたのは二回しかない。
なのでこの真っ暗闇の中、精一杯の視界は彼女の腕までだった。
木々が生い茂る森はさっきの神社の比じゃないほどに暗い。
一度手が離れたら多分僕は元の場所に帰ることすらできない。
そう思うと自然と握る手に力が入ってしまう。
寒気とともに背筋を嫌な汗が流れる。不安を感じ取ったのか手を強く握り替えされる。
「知ってますか、今日は満月なんですよ」
「うん。知ってるよ」
今は見えないがお月様が煌々としているのを道中に見た。
「満月と潮の満ち引きは関係しているんです。なんでも月が地球に近づくと月の引力が遠心力に勝るとからしいんですけど私には難しすぎてよくわかりません。他にも満月の日と出産の日が重なりやすいとかもよく言いますよね」
天体って思ってたより難しいですねと少し恥ずかしそうに彼女が笑う。
それを聞いて僕もちょっとだけ不安が消える。
「そうだね。僕も確か満月の日に生まれたって聞いた気がする」
「そうだったんですか、それは素敵ですね。出生という奇跡を目で見るより感じられそうで羨ましいです」
本当に素敵だと、彼女が心から言っているのが感じられる。
「目に見えないものに気づくというのは難しいものです。引力や分子など目に見えないものをあると信じ、それを証明するのはとても大変で、素晴らしい功績です。同じようにして人の道徳や愛など、見えないものを信じるのも難しいことです」
ニュートンやガリレオなどの物理学者たち、遡れば哲学者のアリストテレスまで重力をはじめとするあらゆる見えない事象は人々のあたりまえから生まれてきた。
目に見えること、当たり前を疑うことは難しい。
逆に今目に見えないものを信じやすくなったのは、電波によって気軽に繋がれる時代が来たからなのかもしれない。
「しかし目に見える真実をそのまま受け入れることも難しいことです。あなたはそれをしっかりと乗り越えられていますよ」
次第に明かりが見えてくる。
木々の裂け目へと向けて一歩、また一歩踏み出していく。
ようやく明かりの先が見えそうになった時、彼女は僕の手を放して重たいスーツケースを置いて駆け出して行った。
手を翼のように広げて、心地よさそうにくるりと回る。
「ずいぶん素敵な場所でしょう?これからの景色はこの前のごめんなさいを含めた私からのプレゼントです」
そう言って再び手を引いて森の外へと連れ出す。
そこは辺りの開けた小さな湖だった。木々がない代わりに湖に沿って小さな花がたくさん咲いている。
ここは星月によって十分の明るさがあった。
太陽の反射とは違った輝きを見せる湖面が美しく、底まで見えそうなくらい透き通った水は少し冷たくて心地が良かった。
「こっちですよ」
そう言って手を引かれるがままに小船に乗せられる。
「ここはいつもはこんなに水量がないんです。満月の日限定なんですよ」
と、おそらく手作りの小さな鞄を大事そうに抱えながら言う。
小船はオールをほんの少し漕ぐだけであっという間に岸を離れ、子船は湖の中心へとたどり着いた。
周りに人工の明かりが一つもない中で見る星空は幻想的過ぎて、どこか遠い宇宙を見ているように感じられた。
「今日は雲一つなくてラッキーだったね。これもさっき言ってた目に見えないものの力かな」
お互いに空を見上げる。
大事な時ほど相手の顔を見ないところが僕たちらしいと思えた。
「そうかもしれませんね。そう思っておけばきっと幸福な人生を歩める気がします」
うっとりとした声で彼女は言った。
「そうだ。上ばっかり見てないでぜひ水面も見てみてください」
そう言って彼女は目線を下へと移す。彼女はいつの今にかオールから手を放していたようだ。
言われたとおりに辺りを見ると、静止した水面に星空が反射していた。
「すごい…まるで宇宙にいるみたい…」
星空を映す天然の鏡は小さな波の一つで崩れてしまう。
僕は近くの星に手を伸ばしたい衝動に駆られるが、それをグッとこらえた。
「まるで銀河鉄道みたいだね。ずっとこの時間が続けばいいのに」
「そうですね。銀河鉄道と違うのは私たちが確かに生きていて、この船がどこにも行けないことですかね」
彼女は物憂げに言ったが、かえって僕は安心していた。
どこにも行けないことはどこにも行かなくていいという意味でもあるからだ。この奇跡のような時間が永遠に続いてくれたらと、僕はひそかにずっと祈っていた。
僕は彼女に感謝を伝えたかった。テラリウムでのことや、今日のことなど思い返すほど感謝の気持ちは膨らんで『ありがとう』の一言で済ませていいものではないと実感する。
しかし適切な言葉が見つかるかと言われればそういうわけではない。本当に伝えたいことこそ、言葉にするのは難しいのだ。
だからこそ人々は本を読み、言葉を求めるのかもしれない。
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