第10話

三船さんから箱を渡されてから数日が経った。

しかし何をしていいのかもよくわからず、結局昼休みにテラリウムで話をすることだけが最近の楽しみだった。

今日も扉に鍵はかかっていない。どうやら昨日の分で拒絶されたわけではないようだ。

ほっと胸をなでおろす。実のところ不安だったのだ。もしかしたら彼女は自分に会ってくれないんじゃないかと。



今日も扉を開けると暖かい春の風が頬を撫でる。外はどこかしこも暑いのに、やはりこの部屋だけは暖かい。

テラリウム内にも日光は差し込んでいるが、夏の日差し特有の肌が焼かれるような不快感はない。むしろ外で夏の日差しを感じていることでこの部屋での陽射しが夏特有のそれとはまったく違うことを全身で理解することができる。

どうやってここまでの春を再現することができるのかはわからない。しかし、この得体のしれない部屋のおかげで夏になっても桜を見ることができているのだ。そこは素直に感謝するべきだろう。



部屋の中心、山のように盛り上がった場所を上り桜の木へと歩く。

近くから見ると彼女の長い髪が桜の裏からはみ出して見えていた。昨日と同じように座っていたのだろう。僕も昨日と同じように桜の木を挟んで背中合わせになる形で座り込む。


 「こんにちは。今日も、来てくれたんですね」


彼女の方から声をかけられる。


 「約束したからね」


それを聞いて安心したことが背中越しで伝わる。名前も知らない彼女のことを、気づけばこんなに虜になっている。

名前、年齢、序列、人間関係を不自由にするこれらを無くすことによって生じる重さのない空間はどの時間よりも居心地が良かった。


 「気になってたんだけどさ、君はずっとこの部屋にいるの?」


 「ずっとはいないですけど日が出ている時間は毎日いますよ」


そんなに長い間この部屋にいるのか。確かにこの部屋は居心地がいいけどそしたら普段彼女は何をしているのだろうか。


 「それじゃあ、いつもここで本を読んでるの?」


 「そうですね、だいたいは本を読んでます。あ、でもたまに本で読んだことを試したりしますね。服を作ったり絵を描いたり、あとは詩を詠んだりします」


想像以上の答えにびっくりする。

多趣味だし、器用だし、何より知識の幅がすごいと思った。


 「本で読んだことを実践するのは尊敬できるなぁ。知識と経験の差は凄い大きいと思う」


僕の感想を聞いて彼女は滑らかな笑い声をあげる。


 「こんなこと人に話したのは初めてです。あなたはどんな趣味をお持ちなんですか?」


 「僕も本を読むのが好きかな。あと、運動は苦手だけど散歩は好き。同じ道でも季節や時間によって違う景色を見れるところが特に」


 「お散歩ですか、いい趣味ですね。季節や時間で景色が変わるっていうのは凄い共感できます。私は海の方が好きなんですけど、海も季節や時間で景色が変わるんですよ。特に日が沈む時間帯は辺りがサーっと静かになって、真っ暗な世界が徐々に広がってくるんです。そんな景色を見てると自分がちゃんとちっぽけな存在に思えて安心できるんです」


ちゃんとちっぽけな存在に思えるなんて変なことを言うなと思った。


 「ちっぽけな存在に思えると不安になるわけじゃないんだ。普通そういうのって自分の悩みが世界と比べて小さいから安心するとかだと思ってたけど、君のは世界に比べて自分自身が小さいことに安心してるってことなんだよね?それは解決できない高すぎる壁に囲まれてるのと同じなんじゃないのかな。もしそうなら僕は不安でたまらないと思うけど」


言ってみてもう一度意味を飲み込む。やっぱり僕には不安だ。誰の目にも留まらず、自分がただ無意味な存在なのは死ぬほどつらいことだと思う。

なのに彼女はけろっとした調子で返事を返してきた。


 「そうですか?自分が世界に対して小さすぎて、世界にとっても誰にとっても価値のない存在。つまりはいてもいなくても変わらない存在だって言われると気が楽になってきませんか?誰に対しても気を遣うことなく、もちろんみんなは私のことを何とも思ってないから直接迷惑を掛けない限り怒られることも決してない。もちろん実際はあり得ないですけど、もしそうならどんなに楽だろうなって考えちゃうんです」


自分がいてもいなくて変わらないから。

それは確かにものすごく楽だけれど、やっぱり悲しいことだと思った。


 「確かにそう言われるとそうかもしれない。でもやっぱり僕は誰かに気にかけてほしいな。迷惑を掛けたくないのは同じだけれど、自分が関わらないからじゃなくて迷惑を掛けないくらいまで努力したいと思う。まあ、こんなのは理想論だし妄想みたいなものだけどね」


 「いいと思いますよ。あなたは優しい人ですから、今まで生きづらかったんじゃないですか?迷惑かけたくないと思っているということは他人に嫌われたくないということでしょう?私たち、心の根っこの部分は似てるんじゃないでしょうか?」


心の根っこの部分は似てる。彼女が確かめるようにもう一度言うと何がおかしいのか突然笑い始める。


 「何か変なこと言った?」


 「いいえ、全然。これはおかしくて笑ってるんじゃないんです。嬉しくて笑ってるんですよ。だって初めてできた私の友達が、私の意見に共感してくれて、私の意見にしっかりと自分の意見で反応してくれる。それってとっても幸せなことですよ。取り繕う必要性のない、名前や肩書の重さのない関係だからこそできることです。それがたまらなく嬉しくて」


そう言うと彼女は再び笑い始めてしまった。

なんだそれって感じだった。

でも彼女の笑い声を聞いて自分もなんだか嬉しくなってきた気がした。

重さのない関係を認めてくれたことを、僕を友達の一人として認めてくれたことが僕には嬉しかったのだろう。

二人で一通り笑った後、今度は僕から話し始めた。


 「ねえ、神様って信じてる?」


 「信じてますよ。あなたは?」


 「僕も信じてる」


お互い即答する。これはなんとなく信じてそうだなと思っていた。

じゃあ次の質問はどう答えてくれるだろうか。


 「でも神様ってずいぶんと抽象的な名詞だよね。天照大神とかの古事記から伝えられてる神様に、米粒の神様みたいな口伝で伝えられている神様。宗教団体で崇められている神様だったり、最近だと一部の界隈で一定の成績を収めた人をナントカの神様なんて言うこともあるじゃない?君が信じてる神様って具体的にはどういうものだったりするの?」


彼女がうーんと頭をひねっているのが伝わってくる。


 「信じてる神様って難しいですね。他人に神様は存在しないって批判したり、自分がどうしようもなくなった時に神はいないのかと嘆くことはよくあると思います。でも逆に神様はいるって断定することってほぼないじゃないですか。神様はいればいるだけありがたいし、無意味にいないと否定もしない」


彼女が言葉を紡ぎながら、ゆっくりと思想を固めていく。


 「ただそこにあるだけ。それが神様なのでしょうか」


自分の考えを確かめるように、微かに聞こえる程度の小さな声で彼女はそう呟いた。


 「じゃあ私の信じる神様は運命の神様ですね」


 「運命の神様?さっきの話だと神様は何もしてくれないんじゃなかったの?それなのに運命なんて人間に干渉しまくるんじゃないの?」


 「あくまで受け皿、器としての神様という意味です」


 「受け皿?」


受け皿って欲望の受け皿とかそういう意味での受け皿なのだろうか。


 「人間って、誰しも叶えたい願いとかってあるじゃないですか。その願う場面っていうのは例えば流れ星や神社、あるいは人だったりするわけです。そういった人の身に余る願いを受け取るのが一般的な神様なんじゃないでしょうか」


叶えたい願いと聞いて神社裏の桜の木が思い浮かんだ。

恋人たちの「永遠」の願い。

その重すぎる願いを受け取る役割をあの木は担っているのではないだろうか。


 「あれ、それじゃあ運命の神様っていうのはどういうこと?」


 「それは歴史の話ですよ。今までの歴史の中で何度も繰り返してきて、パターン化されたものとかってあるじゃないですか。そういうのは運命の神様の仕業で仕方のないことなんです。1+1が2になってしまうように、私たちにはどうしようもないことは運命の神様のせいなのだと思ってます」


 「人間じゃどうしようもないから神様を信じざるを得ないってことか」


神様を認めさせられるというのは、それはそれで悲しいような気がした。


 「あなたはどんな神様を信じているんですか?」


 「僕は物に憑いている神様を信じているかな。大事にすればするほど、目に見えない何かが育っていって、道具なら応えてくれるし置物とかならちょっとだけいいことがあるかもしれないし」


でも大事にしたっていうのは時間で測るのかと言われると違うような気がするし、かといって宝箱の奥の方にしまっておくというのも用途が違うなら違う気もする。


 「あ、そうか」


さっきまでの彼女の意見のおかげか自分の意見もすんなりとまとまった。


 「自分で選んだ物とか、他人に貰った物とかそういう思いに神様が宿る…いや、想い事体が神様の種なのかもしれない」


言った後で気づいたが、神様というより霊とかの類の方が近いような気がしてきた。

それでも、僕の意見を聞いた彼女はなるほどそういう、と面白そうにしていた。


 「そうだとすると、あなたの身の回りは神様であふれてそうですね。友達も多そうですし羨ましい限りです」


だって貰った物を大事にできる人なら、あげた人だって嬉しいに決まってますからと、彼女が優しい声で言った。


 「あなたらしくてとても素敵ですね」


素敵と言われて思わず頬が熱くなる。

僕の思想を否定せず、同じ立場で語り合えた人は彼女で二人目だったから。

僕はそれが嬉しくて嬉しくて、幽霊のような彼女がいつかふらっと消えないように、僕は桜の木にこっそりとお願いをした。



昼休みが終わるチャイムが鳴り、名残惜しいが腰を上げる。


 「それじゃあまた明日」


そう言うと彼女も少し寂しそうにまた明日と言ってくれた。

扉に続く道を歩きながら、この花の一つ一つにも神様は宿っているのだろうかなんて考えていた。そう考えると、これから安易に草むらを歩けなくなりそうで途中でやめたけれど。

扉の前まで来て、テラリウムを振り返る。

一年中春が続くこの空間で、枯れることなく咲き続ける桜の木。

あの桜の木は彼女にとっての神様なのだろうか。それとも…

しばらく物思いに耽っていたが、彼女もいつまでも扉の音がしないのを不思議に思ったのかもしれない。

桜の木の奥から、そぉっと。

白くて細長い手が、揺れるように手を振っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る