第8話

 「ごめんなさい、今日昼ごはん一緒に食べられないです」


昼休み、今まさに弁当の唐揚げを取ろうとしている柊馬に頭を下げる。それを聞いた柊馬の手が固まり、持っていた箸を机に落とす。そして我が子の成長を喜ぶような表情をしながらこう言われる。


 「そうか、いずみにも俺以外に一緒に昼飯を食べる友人ができたんだな」


しみじみと、名残惜しいように。


 「いや、あのね…いつの間にか読んでた本をどこかに落としたから探しに行くだけなんだよね」


それを聞いて柊馬はがっかりしたのか肩を落とす。なんだか申し訳なくなってきた。

一緒に探すと言われたがそれは断った。落とした場所は見当がついているし、わざわざあそこまで柊馬を付き合わせるのは流石に申し訳ない。それに一人で行かないとあの部屋は開いてないような気がしたのだ。


 「もしかしたら帰ってこれないかもしれないから待たなくてもいいからね」


それだけ言って早足で教室を去る。一人取り残された柊馬はどうしようかと迷った挙句委員長たちと食べることにしたらしい。振り向くと教室から出ていく後ろ姿が見えた。



昨日の扉の前まで来る。鍵はかかっていなかった。呼吸を整えてゆっくりと扉を開ける。

扉を開けたのと同時に、昨日と同じ春の風が頬を撫でた。


 「今日も…来てくれたんですね」


昨日の少女が桜の後ろからひょっこりと顔を出す。それから恥ずかしながらも僕の方へと歩いてくる。


 「探しているのは、これですか?」


そう言って昨日落とした本を差し出してくる。


 「うん、ありがとう。見つかってよかったよ」


僕のお礼を聞いて少し笑顔になってから、また桜の裏へと戻ってしまう。

忘れ物の本は回収したので目的は達成したのだが、僕はこれからどうするべきなのだろうか。

彼女が僕のことを邪魔だと思っているのであれば帰るべきだろう。でもそうじゃないならもう少しこの部屋にいたい。できれば桜の木の下で昼寝でもしていたい。

どうしようかと迷っていると桜の裏から声が聞こえてきた。


 「その…悪いとは思ったんですけど、その本…読んじゃいました。『幸福の王子』、素敵なお話ですよね。私そのお話小さいころから好きだったんです。よかったら感想を聞かせてくれませんか」


話を振られるということは相手が返事を待っているということだ。つまり邪魔だとは思われていない。

桜の木を挟んでちょうど背中合わせになる位置に座り込む。この部屋は暖かったが桜の木だけは冷たかった。


 「『幸福の王子』は母の本棚から取ってきたんだ。だから母は好きだったのかもしれないけれど、僕はつばめがどうして王子の下で死んだのかわからなかった。王子の頼み事をこなすのは人助けだからいいことなのかもしれない。それでも自分が寒さで死んでしまうというのなら頼み事は聞くべきじゃないと思う。

それに王子はなにもつばめに頼まなくてもいいんじゃないか?今困っている他人が何人もいるとしてもつばめ一匹の命を奪っていい理由にはならないだろう?」


 「たしかにそれはそうですね。そんなこと考えたこともなかったです。つばめの幸福は最後まで王子と一緒にいることだと思っていました。王子は困っている他人を助けたかった。でもその他人のところまで歩くことができなかった。だから自分の足元にいたつばめに助けを求めた。自分ができないから誰かにやってもらうことは至極当たり前のことなのではないでしょうか」


後半になるにつれて熱っぽく語っていた彼女は先ほどまでとは別人のようだった。言葉一つ一つが何かを訴えてるように必死さを帯びているように感じられた。


 「それは当たり前であるべきことというか、理想論に過ぎないと思う。例えばつばめは王子の宝石を子どもや作家のところに持って行かずに自分だけの宝としてどこかに隠すこともできたんだ。それをしなかったのはたまたま頼んだつばめがたまたま正しい心を持っていたからだろう?もしくは王子の心が純粋すぎて疑うことを知らなかったかじゃないかな。だからつばめは優しさから裏切ることができなかった」


 「確かにそういう読み方もできますね。実際王子は最後につばめがエジプトに旅立つから自分にキスをしたと思っていましたしね。それは死への旅立ち…つまり本当の意味での永遠のお別れだったというのに…王子はひどい人ですね。最愛の友が死ぬことでようやく自分が友を殺したことを理解するなんてあまりにもつばめが可哀そうです」


そう、王子は幸せに生きすぎた。銅像となって遠くの苦しみを知ることができても身近な苦しみを理解することはなかった。もっとも遠くの苦しみを知ったところで王子自身は何もできないのだけれど。それなら最後まで何も知らずに生きた方が誰も巻き込まずに済んだのではないかと思ってしまう。

無力な者だからこそ何も知らずただ生きているべきなのだ。


 「つばめはどうして王子の下で死んだのか、ですよね。つばめはきっと誰よりも利口だった、今から飛んでも間に合わないことにただ一人気づいてた。残された最後の命を自分のために使うのか、王子のために使うのか。誰かのために命を使うのは幸福なのかもしれません。私にはわかりませんけど」


 「それは僕にもわからない。それが幸福だと言うのであれば自分のために生きた人は全員幸福じゃないし、他人のために命を捨てれば幸福だということになる。極論言うと自分のために邪知暴虐の限りを尽くした王様は不幸だし、その王のもとにいた奴隷はみな幸福だということになる」


それはおかしいですねと桜の裏でふふふと笑う声がする。


 「それじゃあこのお話での本当の幸福とは何だったのでしょうかね。助けてもらった貧困に苦しむ人々か、王子のために他人を助けたのに最後まで自分を理解されなかったつばめか。それとも幸せに生きて貧困に苦しむ人々を助け、最愛の友を殺した王子か。どちらにせよ本当の幸福とは程遠いような気がします」


話していくにつれて彼女の声から先ほどまでの必死さのようなものは失われていく。その代わりに口調は柔らかくなり、風も時間も穏やかなものになっていく。


 「そういえば、君はどうしてこの本が好きなの?」


僕の問いに彼女は少し考えてから答える。


 「私のお母さんもこの本が好きだったらしいんです。だから小さいころから読んでたんですけど、幼い私にはただの良い話としか読み取れなかったんです。王子はいいことをしようとして、つばめはその手伝いをする。二人とも神様に認められて本当の幸福を手に入れる。生きてるうちに人生をかけてでも誰かのためになれたのなら幸福なんだって…そればかり信じていましたから…」


彼女の声がだんだんと過去を懐かしむような、今をあきらめるようなものになっていく。

なのに彼女の声を聴いているのは心地よかった。

彼女が幽霊なら、僕はとっくに魅入られているのだろう。

あるいは気づいたときにはもういないとか。

ここで昼休み終わりのチャイムが鳴る。

ここで別れて、また会えるだろうか。

何か、何か声を掛けないと思った。


 「その…僕はさっきの話面白かったしもっとききたいと思った。本の感想というか、考察というか、そういうことを話せる人は僕の身の回りにはいなかったから初めて話せて楽しかった。作者の解釈と読者の解釈とで読み方は二種類あるはずなのに、作者の解釈のみ押し付けられるのは嫌だったんだ。だから…その、君ともっと話がしたい…です」


勢いで話し始めてそのまま言い切ってしまう。なんだか自分でも何を言っているのかわからない場所があったなと思う。というか自分でもよく恥ずかしげもなくあんなこと言えたなと思う。後で思い返しでもしたら顔から火が出そうだ。


 「…」


やっぱり駄目だろうか。余計なことを言ってしまっただろうか。


 「…て、…さい…」


 「え?」


 「また、来てください…その、今日の昼休みはもう終わっちゃいますから。こ、今度来てくれたらさっきの話の続きをしましょう。その時は…あなたの話も、聞かせてください」


半ばやけくそのような声で言われる。桜の木を通して彼女の熱がこちらまで伝わってきそうだった。それに、部屋の気温自体がいつもより暑く感じる。思わず体が火照りだしてしまう。


 「わかった、約束する」


僕の言葉に一拍おいて、今度は彼女が繰り返す。


 「約束、ですからね」


名残惜しいが教室に帰らなければいけない。最後にせめてもう一度顔をと思ったが、やめておいた。

近づきすぎず、遠すぎず。結局この距離感が自分たちには似合っているのではないだろうか。あの都会のように、顔も名前も知らない相手と話す重さのない時間の方が自分も彼女も好きなんじゃないかと思ったのだ。

再びチャイムが鳴る。

二回目ということは授業が始まるまであと五分ということだろう。

僕は本だけ持って急ぎ足で教室へと帰った。

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