第2話 葬送行進曲
先日、長年飼っていた猫が死んだ。
妻もおらず、当然子供もいない私に連れ添ってくれていた、唯一の身内だった。父と母は、もっと昔に死んだ。
また、1人になった。
動物病院からの帰り道、ダンボールに入れられた彼の亡骸を抱きながら号泣した。最期は歳のせいで腎臓病になって、どうしようもなくなって、安楽死させてもらった。見ている方が辛かったし、何より本人がそう希望している気がした。
家に着いて、彼を看病したグッズを見てまた泣く。あぁそう言えば、このベッドでよく眠っていたなぁとか、病院食を作ってやったっけとか。
自分でご飯が食べられなくなってからは、スプーンで口まで運んでやっていた。
もうすっかり硬く冷たくなった頭を撫でる。
子猫の頃は柔らかくって、フニフニしていて。
慣れない世話を必死に焼いて、なにかあるたびいちいち病院に駆け込んだ。最期は会社まで休んで介護した。
きっと愛情は、これ以上ないと言うほど、与えられたとは思う。遺体の顔も穏やかだ。
彼を葬儀に出し、鳴き声のしなくなった家で眠るようにして数日を過ごした。孤独だった。貯め込んだ有給も、全て消化する勢いだった。
何日経ったかは覚えていない。
ふと目が覚めて、洗面所へと向かった。鏡に映る自分は、髭だらけで、人相は悪くなっている。
無表情で、ただただ手を動かした。
髭を剃り、顔を洗い、髪を整える。
とは言ってももう夜の10時。外出するような時間でもなく用もないが、ここまでして、どこにも行かないのもなぁと家を出た。
どうして駅に行ったのかは、自分でも分からない。
近所をぶらぶらしていると、最寄り駅の埃を被ったピアノの存在を思い出した。最近は猫の看病で、全く練習していなかったなぁと思いを馳せる。
思い通り、駅にはピアノが置いてあった。
木製のボロい駅の、改札を出てすぐのところにあるピアノ。鎮座している、というよりかはこぢんまりとした感じで、相も変わらず埃を被っている。
なのに漂う厳かな雰囲気にゴクリと唾を飲み込み、そっと、壊れ物を扱うかのようにピアノの蓋を開けた。猫に触れていた時のように。
鍵盤もボロボロで、ハンカチで埃を拭う。次は、クリーナーでも持ってきて、拭いてやろうか。
いつからここに置いてあるのかは知らないが、音の狂いようからして、かなりの年月にはなるのだろう。これまたボロい椅子に座ると、エジプトのピラミッドに隠された棺を開くような気分になって、ひゅっと息を吸った。
人差し指を、そっと鍵盤に当てる。ゆっくりと押せば、狂ってはいるものの、澄んだ、綺麗な音が出た。しかも、深い。音に厚みがある。
右手だけではなく左手も添えて、目をつぶった。何を弾こうか。
頭をどんなに巡らせようと浮かぶのは飼っていた猫で、彼のために曲を弾こうと決めた。
『葬送行進曲』
ショパンが作曲したもの。
葬送行進曲は、葬儀において遺体を墓地まで搬送するときの行進をモデルとして作られた行進曲だ。
だからつまり――あいつが、天まで昇っていけるように。
まだ部屋にはあいつの息遣いが残っている気がして、寂しかった。なんとなく、天国には向かっていないんだろうなと思う。心配、させてしまっているのかもしれない。
短調を奏でる。空気はシンとして張り詰めていて、冷たかった。空も透き通っている。あいつが昇るにはピッタリだし、今日は星もよく見えるから、迷うことはないだろう。
弾きながら涙が零れ落ちる。一つ二つ。静かに。
……けれどきっと明日からは、ほとんど猫のことで涙を流すことはないのだろう。弾きながらふと確信した。
せっかく天国まで行けても、こんな風に泣いてしまって心配させたら台無しだ。つまりは最後の涙で、ポロポロと流れ出るそれらを拭うこともせず、微かな嗚咽とともに、ただひたすらに弾き続けた。納得するまで、弾き続けた。
それから毎日、会社が終わってから夜中に、ピアノを弾きにくるようになった。
どうしてそんなことをするようになったのかは分からない。猫がいなくなったぶん部屋にいるのが辛くなったからかもしれないし、単に暇だったからかもしれない。家で練習しようと、外で練習しようと同じだし。
……まぁ、音は狂ってるけど。
ある夏の日だった。
朝からザアザア降りの雨で、駅に行こうかどうか迷っていた。習慣づいていて、結局向かってしまったのだけれど。
弾き始めてからしばらくして、女子高生が来た。
派手で露出している服装のせいで最初は分からなかったけど、表情はまだあどけなく、幼い顔つきをしていた。大人とは少し違った、言い方は悪いが甘酸っぱい雰囲気がする。
ピアノの黒に反射したその姿を、こっそり盗み見た。
彼女が現れたのはちょうど『月の光』の終わりに差し掛かった頃だ。
フラフラと惹き付けられるように現れた彼女は、恍惚とした面持ちで聞いている。
自分だけのために弾いていた音を、そんな風にして聞いてくれるのはやっぱり嬉しい。
周りの音に耳を澄ませ、雨の音に混じらせるようにして弾けば、月明かりと煤けた蛍光灯と、全てが一体となるような心地がした。
少女の方を見遣ると、彼女は小さく手でリズムを刻んでいる。見かけによらず、音楽……いや、クラシックが好きなのかもしれない。
その日は限界まで弾いて、結局言葉を交わすこともなく、お互い自然に分かれた。
それこそ猫と私のような、近くて遠い距離が心地よく、私は、今度はその少女のために、毎日ピアノを弾きにくるようになった。
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