卒業
時雨
第1話 月の光
朝から降り始めた雨が、まだ降っている。
しとしと、しとしとと鬱陶しいくらい控えめに降るそれは、今朝の卒業式でも体育館の屋根を静かに叩いていた。
今電車の窓から見える夜景も、雨が曇らせている。
窓にはブレザーに花をつけた女子高生が映っていた。明らかに卒業式帰り――と言っても時間的に遅すぎるけれど――の風貌だ。
よく考えたら、久しぶりにこの時間に制服を着た。
いつも着ていた派手な服は家のタンスにしまってきた。ガラの悪いみんなの中でたった一人制服だったけど、赤色のインナーカラーとピアスのせいか、絡まれているとは誰も思わなかったみたいだ。
瞬きしてもう一度窓の外を見ると、雨足は弱まっていた。もしかしたら、最寄り駅に着く頃には止んでいるかもしれない。
そうしたら――彼の音が綺麗に聴けるかも。
耳の中に残るそれに心を傾けると、少し気分が楽になる。
電車の席に座っているのは疲れた顔で眠っているOLと禿げたおっさんと自分だけで、なんだか申し訳ない。
味のある彼らの中に混じった、真っ白な人間。
着実に人生を歩いている人間の横に、まだどこに向かっているのかすら分からない自分がいる。考えてさえいない自分がいる。
例えば朝の満員電車で、例えば大学生との合コンで、例えば馬鹿騒ぎする友達の横で。
知らない大人の中に混じった迷子の子供のような気分になっていたけれど、そんな時はいつも彼の音に救われてきた。
電車のアナウンスが家の最寄り駅に着いたことを知らせ、音楽の流していないヘッドフォンを取った。
途端に雑音が流れ込んできて、景色が一気に色づくような感覚になる。昔から私は耳が良くて、音がよく聞こえて、だからこそ彼の音と出会ったのが、雨の日だったのかもしれない。
高一の七月。夏休み前。
初めて夜遊びに行った帰りだった。
家の最寄り駅に着いた瞬間雨が降り出して、ホームに設置されたベンチに座っていた。大して利用者もおらず、駅員もいるかいないか分からないような駅だったから、当然内装もボロかった。隅には蜘蛛がいくつも巣を張り、埃臭くて。
雨は激しくて、周囲の音をかき消しそうなほどで、体は芯から冷えた。
暗い小さな駅に、一人ぼっち。
怖かった。世界から取り残されてしまったみたいで。乗っていたのは終電だったから、もうこれ以上電車が来ることもない。
俯いて、唇を噛んで、ゴツいスニーカーだけを見続けた。自分の趣味ではない、流行りのもの。私が好きなのは控えめなパンプスで、こんなものじゃない。
そんなふうにして、どれくらい経ったときだろう。
ピアノの音が、聞こえてきた。
駅に古ぼけたピアノが置かれていたのは知っていた。だけど、弾かれているところは見たことがなかった。
こんな、調律も永らくされていない音の狂ったピアノを弾くくらいなら、家で練習する。当たり前だ。
近所には裕福な人が多かったから、たとえ駅で練習しなくたって、買ってもらえるんだろうし。
奏でられているピアノの音は、思わず立ち上がるような、心が踊るような、派手なものじゃなかった。優しくて、心を底から掬うように繊細だった。
だから良かった。嬉しかった。
派手な音は好きじゃない。
何度も出たコンクール。そういうところで産み出される音は華美な装飾が施され、私だけを見て!! と圧倒してくる。自己主張が激しくて、自信ありげで。
伴奏の音だって、"声"を引き立てるためだけに、わざと控えめにさせられているだけで。もっと輝きたいと言っている音は可哀想で、だから私はコンクールで歌うのは苦痛で仕方なかった。
けれどこの音は……
この音は、そうじゃなくて。
吸い寄せられるように、私は立ち上がった。この音の主を見たくて、フラフラと歩き出す。
女の子だろうか? ディズニー映画のヒロインみたいな、優しい心を持った可憐な女の子。
もしくは少年? 自分の繊細さに傷つきながらも、柔らかい笑顔を浮かべる優しい少年。
それとも……
頭の中にはいくつも人物像が浮かんでは、消えていき。
半分走るようにして向かったその椅子に座っていたのは、意外にも三十代から四十代ほどの
少しフチが太めのメガネが印象的で、刈り上げの髪をワックスで固めている。髭は生えておらず、目元には皺が寄っていた。
おじさんにしては清潔感があって、何より目が優しそうだ。
確かに……この人なら、弾けるのかもしれない。この人なら、あの優しい音を産み出せるのかもしれない。
奏でられているのは、かのクロード・ドビュッシーの月の光。雨足はいつの間にか強くなり、コンクリートに跳ね返って、さながら霧のようにもなっていた。湿気が多くて、全身にまとわりついて、服が少し湿った。
雨に月光が反射し、ぼうっと白っぽく周りが浮かび上がる。駅は、まるでこの世の果てのように、周囲と隔てられたみたいだった。
煤けた蛍光灯に黒光りするアップライトピアノからは音が編み出され続け、雨と混じって。
楽しそうに弾くおじさんとも相まって、息を飲むほどに美しくて。
私は思わず立ち尽くした。そうするしかなかった。
あまりに美しくて――今まで見た、聴いた何よりも美しいと思った。
一人ぼっちではないのだと思った。世界に取り残されたとしても、きっとこの人がいる。きっとこの人は、ここでピアノを弾き続ける。根拠の無い、確かな自信だった。
その夏の日から私は、深夜の駅に、ピアノを聴きにくるようになった。
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