第3話 さくら

 ホームに降りると、雨はもう止んでいた。微かに彼の音がする。優しい、最初に出会った頃から何も変わっていない音。今日は……ハイドンのピアノソナタだろうか。

 よく考えたら、もう聴き始めてから2年以上が経っていた。


 いつもとは違って制服のまま向かう。


 早咲きの山桜が春の風に舞っていた。ときおり、髪や肩にひっつく。どうせまた付くだろうし、と取ることもしないまま歩き続ける。

 ピアノの置かれているところに向かうと、白いセーターを着た彼がピアノを弾いていた。ピアノ越しに目が合い、彼は片眉を上げる。


「あれ、今日は……」


 控えめな声だった。けれど少しカサついていて優しくて。低くて、大人っぽい声だった。


「今日は?」


 ドクドクと心臓が音を立てる。思ったより緊張、してるみたいだ。

 そりゃそうだよな。2年以上毎日会いながら、1回も喋ったことのなかった相手だ。彼のイメージが壊れそうで、怖くもある。


「その、あの、制服、なんだね……」


「卒業式だったので。……それに」


 すっと息を吸い込んだ。


「高校生活1回も制服着て、その、貴方のピアノを聴いたことがないので、せっかくなら学生らしく、制服のままで行こうと思いまして」


 だから、みんなと遊ぶときも制服のままで行った。ただ後ろで聴かせてもらってだけとは言え、卒業の報告だけはしようも思って。もっとも、彼に高校生だと明かしたこともないんだけど。

 彼はピアノを弾く手を止めると、振り返った。


「そうだったんだね。おめでとう……もうそんな季節なんだね」


「はい。桜も、咲き始めましたし」


 時間が過ぎるのは早い。

 たどたどしい足取りで夜の街へと繰り出したあの日から、一瞬だったようにも思える。


「そうだね……君は、ピアノを聴くのが好きなの? 2年くらい前から、ずっといたよね?」


 向き合ったまま、ぎこちなく彼は尋ねる。

 心臓の疼きを抑えるように、答えた。

 ……それにやっぱり、当たり前だけど、最初からずっと、いるの、バレてたんだ。あまりに話しかけられていないから、見えていないんじゃないかとすら思っていた。


「はい。えっと、昔、声楽をやっていまして……もう今は辞めてしまったけれど。それに、貴方のピアノの音が好きで。初めて聴いたとき、これだっ!って思って……」


 両親が音楽を愛していて、必然的に私は小さい頃から色々な楽器をさせられた。結果的に一番結果が出たのが声楽で、かなり練習した。

 あるコンクール――中学最後のコンクールでずっと下の方にいた子、絶対に負けないと思っていた子に負けたとき、限界だと思ってキッパリ辞めてしまったけれど。それこそ、家から出ていく勢いで。

 高校は素行が悪いというので有名なところに進学して、夜遊びしまくって。家では荒れて。後悔もして。

 自分でもなにがしたいのかよく分からなくなっていたときに出会ったのが、彼だった。

 一度はもう聴きたくもないと思った音楽を――彼の音楽だけでも好きになれたのは、この人のおかげだ。


「ありがとう。クラシックはよく聞いてたの?」


「えぇ。両親が好きだったので。有名な曲だったらだいたい知ってると思います」


「そうなんだね」


 彼はなにかを考え込むような表情をすると、ピアノに向き合った。


「まだ、歌うことは好き?」


「……へ?」


「歌うの、せめて嫌いじゃない?」


「嫌いじゃないですけど……むしろ歌うのは好きですし」


 耳は良いし、音感とかは良いから、今でもよくカラオケとかで歌は歌う。もちろん本格的なやつじゃなくて、流行りのやつ。

 歌うこと自体は、気持ちよくて好きだ。

 

「そうなんだ。……じゃあ、卒業のお祝い、私にはこれくらいしかできないけれど」


 奏でられ始めたのは、卒業式でもポピュラーな音楽だ。私の高校でも、この歌を歌った。彼がずっと弾いていたのはクラシックばかりだったから、こんな曲が弾けるなんて思わなかった。


「歌ってみて。知ってるなら。聴いてみたい」


「えっ……」


 本格的な声楽なんて、しばらくしていない。まごついたけど、どうにか伴奏に合わせることができた。

 ……いや、合わせてくれたんだろうけど。


「やっぱり上手いね」


 歌っているから、返事はできない。ありがとう、と心の中で応えた。


「私はね、次の春から移動がかかってさ、遠く離れた県に引っ越すんだ」


 鍵盤に目を向けたまま、彼はボソボソと呟く。私は歌いながら、耳を済ませて聴いていた。


「だから、ここに来ることももうほとんどないと思う」


「えっ……」


 思わず呟くと、彼は微笑んだように見えた。

 そのまま弾き続けるから、私もつられて歌い続ける。


「でも、まぁ、たまには顔覗かせてみるよ」


 あぁ、だからか。

 だから、この曲なんだ。きっとこの場の、卒業式なんだ。私たちは、ここから卒業しなきゃいけないんだ。


「ごめんね」


 首を振って、歌い続ける。

 曲は2個目のサビに入った。


――さらば友よまたこの場所で会おう。


 久しぶりに大きく口を開けると、口の中に桜の花びらが入ってきた。蛍光灯に照らされた、光るように輝く花びら。

 曲は小さく、すぼんでいく。


――さくら舞い散る道の上で。


 伴奏が終わり、ほっと息をつく。こんなに一生懸命歌ったのは、久しぶりだった。


「……あの、私」


 ピアノをしまい始めた彼に告げる。


「私、声楽辞めたこと、ずっと後悔してたんです。もう歌いたくないと思ってたけど、声のこと以上に好きなことも見つからなくて、遊んで、そんな自分が嫌になって」


「それで、大学も適当なとこ進んで、そこで色々決めようと思ってて、高校生のうちには、見つからなかったから……」


 友達とは仲良くて、最高だったけど。こんなはずじゃなかった、という思いがずっとあって。それも申し訳なくて。

 大人にこんなことを話したのは初めてで、緊張した。震える唇を、どうにか噛み締める。


「良いんじゃない?」

 

 はっと、顔を上げた。


「私だって、特にやりたいことはなかったし。今でもダラダラした生活を送っているし。妻もいなければ子供もいない」


「まぁ、こんなおじさんが言うのもなんだけどさ、人生は長いから。あんまり急ぎすぎると良くないよ」


 荷物をまとめて、ありきたりな――けれど他の大人は言わなかったことを言って、もう彼はどこかに行ってしまおうとしていた。待って、と言いたくなる。まだここで、曲を弾き続けて。もうここには来ないんでしょう? お願いだから、まだここにいて。まだここにいてほしい。私、まだ離れたくない。卒業なんて嫌だ。まだ、私もここにいたい。

 だって、だから、じゃないと私は……じゃないと私は一人になってしまう。

 世界から切り離されたこの駅で、ずっと誰かを待たなければいけなくなってしまう。


「私は……」


 彼は、背中を向けて、声を出した。まつ毛が震える。彼の手を掴まなきゃ、引き止めなくちゃと思うのに、体は動かない。

 それでも歩こうと必死にもがくと、つまづいて地面に手をついた。


「私は、もういい加減、卒業するよ」


 たった、一言。されど十分な一言だけで背中が小さくなっていく。熱くなった目から涙が出た。少し、嗚咽を漏らす。


 あぁ、もう、終わったんだ。終わったわけじゃないけど、終わったんだ。


 ……やっぱりもうこの関係から卒業したんだ。


 だからきっとつまり、私も卒業しなくちゃいけない。


 一人が怖いからとずっといた、ここから。

 弱い自分自身から。

 囚われ続けている、音楽から。夜から。

 学生生活から。親から。


 月明かりの中消えた彼に手を伸ばした。


 今日まで喋ったことも、結局触れることもなかった。

 私と彼のためだけに、ピアノを弾いてくれた人。

 もしかしたら、幽霊だったのではないかとさえ思うような、そんな儚い人。


 きっとしばらく、彼の姿を見ることはないだろう。


 私は、立ち上がった。今は深夜。

 せめて今日から――今日の朝から私は、生きなくてはならない。

 乱雑に涙を拭い、一歩一歩歩き出す。


 きっと今私は――真っ白な人間から卒業した。

 

 

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