第53話 赤方偏移

 俺が精霊エレメンタルのアイから受け取った新たなカギを開くのと、相対するドラゴニュートが稲妻を発するのはほとんど同時だった。


 稲妻の輝きは強い青。

 減衰しやすい青色の光をこれほど強く認識できるのは、ごく近距離から視認した場合に限られる。


 半秒と待たず、死んだと知覚することすらできず。

 すべての生き物は絶命する。

 まさに必殺の一撃が、その矛が、まっすぐ俺に向けられている。


 ……だが。


「――逝くのはお前ひとりだ。ドラゴニュート」


 ドクン、と鼓動の息吹がする。


 刹那。

 稲妻は真紅に燃え上がった。



 アインシュタインの特殊相対性理論は知っているだろうか。時間は絶対的なものではなく、柔軟に伸び縮みするという理論だ。


 さて、ここで問いかけたい。

 では一般相対性理論を、知っているだろうかと。


 ――空間の歪み。


(なんだっ⁉ これは……っ‼)


 ドラゴニュートのジュラザードは、目の前の現象を理解できず混乱の真っただ中にいた。


(暗い、暗い、なんだ、一体何が起こってやがる……!)


 自分を中心とし、ごく近くにある物だけが目に映る。しかしその色は異様だ。まるで鮮血を眼球に流し込んだかのように、西に沈む太陽のように、赤色に染まっている。

 遠くにあるものなどもってのほかだ。


 暗い、ではない。

 黒い、でもない。

 より正確に表現するならば、闇。


 届かない。一切の光が届かない。

 それも当然だ。


 ”ジュラザードを起点としたごく近傍の空間が、光より速い速度で広がり続けているのだから”。


 アインシュタインは空間の歪み――すなわち重力を取り扱う知見を発案してすぐ、それを宇宙全体に適用した。

 その結果得られたのは、「宇宙は常に膨張し続けているか、収縮し続けているかのどちらかである」という結論だった。


 だが、アインシュタインは自らこの結論を否定した。宇宙は恒常不変であると考えられていたからだ。

 しかし、後に彼はこの結論が正しかったと受け入れている。


 赤方偏移。


 地球から遠くにある星の輝きは、本来の光より赤く見えることが判明したのだ。


 ドップラー効果は知っているだろうか。

 救急車が近づいてくるときはサイレンの音が高く、遠ざかるときは低く聞こえる現象のことだ。

 音源自体が移動することで音の波長が伸び縮みし、実際の音程と異なる音色に聞こえている。


 今日、光が波動性を持っているのは広く知られている。音と同様、波としての性質を持っているのだ。

 であれば、音同様に光の波長も伸び縮みする。


 空間が広がれば。

 光の届く時間が伸びれば。

 光の持つエネルギーは大きく減衰する。


 波の性質を持つ物のエネルギーは振動数によって決まるから、エネルギーが減衰するということは振動数が落ちることを意味する。

 そして、波長は振動数に反比例する。


 波長が伸びれば光は赤く見える。

 これが赤方偏移と呼ばれる現象の正体。


 そしてそれが今まさに、ジュラザードの身に起こっていた。


(くそっ、どこまで行っても同じ暗闇が続いていやがる‼)


 否。

 実際には、彼はその場から1ミリたりとも移動できていない。


(あの異世界人の仕業か⁉ ぐぅ、あじな真似を……!)


 彼の周りの空間は、もはや光より速い速度で広がり続けている。そとから差し込む光が彼のもとに届くことはもはやない。


(ちくしょう! この妙な術が解け次第、すぐに殺してやる! 殺してやる‼)


 殺意だけが膨れ上がる。

 ジュラザードはこう考えている。


(これだけの術だ。そう長くは展開できねえだろ! そして術を解いた瞬間‼ その時が貴様のデッドエンドだ‼)


 ああ、そうだろう。

 事実として、いくら灰咲といえど、この空間を維持し続けるのは厳しい。


 ただし、灰咲の主観としてはの話だが。


(……おかしい)


 ジュラザードの感覚では、地球でいう3分ほどの時間がすでに経過していた。

 しかし術が切れる気配はない。


(……何故だ! 何故、何も起こらない‼)


 ジュラザードの感覚でおよそ15分が経過した。

 その間、外部からの干渉は皆無。


 攻撃されるわけではない。

 かといって、遠くへ逃げたわけでもないのだろう。

 逃げたのならば、とっくにこの術を解除している頃合いだからだ。


(くそ、くそ、一体何がどうなってやがる)


 1時間が経過した。

 10時間が経過した。

 1週間が経過した。


 ジュラザードの周りはひたすら暗闇が続いている。


(気が、狂いそうだ)


 ドラゴニュートは人間と比べてはるかに強靭な種族だ。だが、飲まず食わずでこれだけの時間を過ごせばさすがに気も滅入る。まして、光の一切届かない空間となればなおさらだ。


「もういい、俺が悪かった‼ 二度と精霊エレメンタルには手を出さねえ‼ だから出してくれ‼ この空間から、出してくれ‼」


 ……彼の言葉は届かない。


「……ぁ、あぁ……」


 やがて、ひと月が経過した。

 心の折れる音は聞こえなかった。

 じりじりと摩耗していき、とうに精神は消え失せた。


 何もない。

 何もない。

 この世界には、何も……。

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