第5話 俺、会社辞めます
出社早々、事件が起きた。
「社会人としての自覚が足りてないんじゃないか?」
前方、わずかに下方向から声がする。
声の主は俺の上司である課長。
どっかりと腰かけた彼に対し、俺は直立不動で説教を受けていた。
「いいか! お前の代わりなんていくらでもいるんだぞ! 愚図なお前を雇ってやってる会社に貢献しようって意識が足りてないんじゃないか?」
嫌味ったらしく、社内全員が聞こえるような声量で課長が俺をなじっていた。
もっとも、この叱責はもはや日常茶飯で、今や反応を示す社員はここにいない。
事件は、このすぐ後に起きたんだ。
「……そうですね」
「ふひひ、そうだ。愚図なら愚図なりにどうすれば役に立てるかを考えて――」
「俺、会社辞めます」
「――は?」
にわかに、社内の時間が凍り付いた。
いや、時間は凍り付いてなどいない。
入り口付近に設置された掛け時計からはチクタクと時の流れが絶えず奏でられている。
だけど、場に満ちた静寂を表すのに、それ以上ふさわしい言葉を俺は知らなかった。
俺だって驚いた。
まして周囲からすればなおさらだろう。
「俺、会社辞めます」
これまでどんな理不尽を押し付けられても言い返さなかった俺が、いよいよそんな言葉を口にしたんだから。
*
ざっと振り返ってみよう。
いつもより早起きできた俺は、いつもより早い時間に会社についた。だけどPCを接収されていて、俺にできることってのはだいぶ限られてくる。
「ねえねえ!
さて、どうするかなともともと俺の座席だった場所で思案に余っていると、不意に、背後から柔和な声が掛けられた。
振り返ると、そこに女性がいた。
人の顔を覚えるのが苦手な俺でも覚えている。
ぽかぽかする笑顔が似合う、ほんわかした女性で、この職場唯一の良心でもある。
同期なんだけど、恐れ多くて話をしたことはほぼないんだよな。
「桃井さん? どうされました?」
「灰咲くんパソコンなくしちゃったんだよね?
あたし2台あるから貸してあげるよ!」
「ほ、本当ですか!?」
「うん! 大学の時に使ってたやつだからスペックは低いんだけど、それでもよかったら!」
女神か。
やばい、年を取ると涙腺が。
目頭を親指と人差し指でぎゅっと握り、涙を押し込んだ。
「ありがとうございます! なんてお礼を言ったらいいか……」
「うーん、じゃあ今度さ! 一緒にご飯食べに行こうよ!」
「ご、ご飯ですか?」
「うん! あたしたち一緒の年に入社したけど、あんまり話す機会無かったよね? せっかくだから灰咲くんのこともっと知りたいなって思って!」
愛らしい容姿に俺みたいなやつにも物おじせずに声を掛けに来てくれる優しさ。ナチュラルボーンの勝ち組ですね。
なんでこの会社にいるのやら。
「えー、桃井ちゃんずるーい! 私も一緒に行きたーい!」「わ、私も、ご一緒していいですか?」「はいはーい! 私! 私も同期!」
と、いう会話を聞きつけた他の女性社員が、なだれ込むように一緒に食事に行きたいと挙手してきた。
そうなると俺が参加するの申し訳なくなるよね。
「えと、もしなんだったら俺のことは気にせず皆さんで楽しんできていただければ……」
「えー! ダメだよ! 灰咲さんも一緒に行きましょ!」
「私も、灰咲さんと、もっとお話ししたいな」
「はいはーい! じゃあ灰咲さんも参加決定で!」
「え? え?」
なにこれ。ドッキリ?
つつもたせ的な罠に嵌められようとしてます?
「や、やっぱり俺――」
怖くなって、参加を見送ろうとした時だった。
ピーピピーと電子錠が開錠される音がして、オフィスの入り口から肥えた男性がやってきた。
俺が倒れた原因、課長だ。
課長は自席、つまり俺の隣の席を見て、途中で俺と俺の周囲で開かれてるガールズトークに気づいた。
俺の席の近くにやってきた課長が厭味ったらしく口を開く。
「んん? 灰咲じゃないか。朝からいい身分だな」
「課長……おはようございます」
「ぐひひ、私が声をかけるより先に挨拶するのが社会人ってもんじゃないかね? ええ?」
あー、耳障りだ。
どうして、こんな人間性の欠落した男から社会人としての在り方を説かれなければいけないのか。
「灰咲ぃ、きちんと仕事道具は一新してきたんだろうな? ええ?」
「あ! 灰咲くん! あたし持ってくるね!」
「んん!?」
課長が唸る。
首をひねり、速足で去っていく桃井さんの後を目で追いかけ、軽くて小型のノートパソコンを持ってくる様子を確認していた。
課長が俺をキッとにらみつける。
「灰崎ッ! 貴様、桃井くんのノートパソコンにたかる気か!」
「たかってなんていません。桃井さんがご厚意で貸してくれるっておっしゃってくださったんです」
「言い訳なんぞ聞きたくもない! 人の優しさにつけいって情けない! 恥を知れ! ……ったく、社会人としての自覚が足りてないんじゃないか?」
課長は言う。
自腹を惜しむな。
新しいパソコンとカメラを自前で用意しろ。
厳しく接するのは俺のためなんだと。
だけどその目には、俺が手痛い出費に喘ぐ様を楽しもうという魂胆が見え透いている。
課長は自席に腰を掛け、腕を組み、ふんぞり返った。
「いいか! お前の代わりなんていくらでもいるんだぞ! 愚図なお前を雇ってやってる会社に貢献しようって意識が足りてないんじゃないか?」
……俺にだって、熱意はあったさ。
ひたすら不採用を突きつけられ続け、それでももらえた唯一の内定。恩返しをするつもりで働こうって時期が、俺にだってあったさ。
その熱量を奪ったのは、あんただろ。
ふと、頭によぎる昨日のこと。
――どうして、反論の一つもできなかった。
――どうして「悔しい」より先に「情けない」って感じている。
そうだ。
俺は昨日、自分の情けなさを散々呪ったはずだ。
変わるべきは今なんだ。
理不尽を押し付けられても言い返せない弱い自分に打ち勝つべきは今なんだ。
だから、言葉にしろ。
終わりにしよう。
本当に自分を、失ってしまう前に。
「……そうですね」
「ふひひ、そうだ。愚図なら愚図なりにどうすれば役に立てるかを考えて――」
「俺、会社辞めます」
「――は?」
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