エリージェ・ソードルという女2
老執事ジン・モリタの仕事を観察し始めてから三ヶ月すぎた頃、実際に試してみることとなった。
始め、多くの者が慣れないそれに戸惑った。
特に指示者に義務づけられた指示書などは、よけいに時間がかかると顔をしかめる者もいた。
だが、そういった者達も、老執事ジン・モリタから「お嬢様がせっかく考えて下さったのだから」とたしなめられ、嫌々ながら続けることとなった。
かくいう老執事ジン・モリタも半信半疑であったことは否めなかった。
聡く、またいくら国王を始めとする様々な大人が介入したとはいえ、エリージェ・ソードルは十歳の少女である。
そんな少女が考え出したものがどれほどのものか?
正直、眉唾物であった。
それでも、仮に失敗して仕事がよけいに増えたとしても、長年仕えてきた公爵家の――しかも幼いお嬢様が家の危機に自ら行動した。
そのことが尊いものだと思った。
(さほど改善されることはないでしょうなぁ。
ただまあ、話を聞く限り、悪いことにはならないでしょう)
だが、老執事ジン・モリタは大いに裏切られることとなる。
彼らの仕事量は劇的に改善されたのだ。
特に始めは不評だった指示書がその効力を遺憾なく発揮した。
口頭だけの指示の場合、たびたび聞き漏れや聞き違いが発生していた。
そのことで、言った言わないで揉めることもままある。
聞く方はもちろん書き留めてはいるが、思考しながらの場合、抜けてしまうこともあった。
また、指示する側は、される側にとって大半が上役にあたる。
時に、書き留めるのに時間がかかり、理解していない状態で、”分かりました”と言ってしまう事が多々あった。
そういう人間は、指示者から離れた後、あれやこれやと推測しながら行動するために無駄に時間を費やす上に疲労した。
だが、指示する側が書くのであればそのような心配はない。
また、指示する側は書く時とそれを渡しながら命じる時の二度確認する事で、漏れが格段に減った。
後になってそれを思いだし、追っかけることも無くなった。
指示される側も聞き直しに行く時間も無くなった。
このことで、指示する方、される方共に仕事する時間、精神的負担が軽減された。
さらに指示書に現地で起こった諸問題を書き込み、指示者に返せば、当時の様子を残し、今後の参考にもなる。
「ここまで考えていらっしゃったか……」と老執事ジン・モリタは舌を巻いた。
――
それから三ヶ月、エリージェ式は公爵家の業務に導入されながら様々な改善を施された。
それにより、公爵家の使用人たちの仕事量が減り始め、老執事ジン・モリタにも多少は余裕が出てきた。
そこで、エリージェ・ソードルは老執事ジン・モリタも交えてさらなる改善のために打ち合わせを行った。
その場には時々、祖父マテウス・ルマや国王オリバーなども参加した。
多忙な彼らが交ざるのは、エリージェ式に興味があったこともある。
だが、それに加えて、ある思惑があった。
ソードル家の歴史は長い。
オールマ王国が建国する以前より続く家系で、その国史を紐解けば現王家であるハイセル家より古く、建国以前は格式も高かったことが分かる。
特に国教である光神の祭祀において、その歴代当主が重要な役割をになう。
その時、間接的にではあるが王族が頭すら下げるのだ。
また、公爵領は国家防衛の要所に当たった。
元々、西方に控える諸国の押さえとしてソードル家が入ったこの場所は、仮に揺らげば王都への道を晒すこととなる。
内にも外に対してもそれだけ重要な家なので、愚かな当主のために落ちぶれたので取り潰し、などと簡単には行えなかった。
なので、父ルーベ・ソードルの素行には国王オリバーをはじめ、多くの関係者の頭を悩ませていた。
前公爵、前公爵婦人共に、すでにこの世に無い。
親戚からも適した人材はあらかたそれぞれの家を継ぐか、要職に就いていた。
だから、
だが、ここに来てエリージェ・ソードルである。
意識、能力共に高い。
エリージェ式によって忙しさが緩和されたこともあり、使用人達からの信頼や尊敬も集まりつつある。
年齢、性別にはやや問題はあった。
とはいえ、年少の当主、女性の当主それぞれであれば、ごくまれではあったが前例はある。
国王オリバー達はそこで、父ルーベ・ソードル、そして、その妻ミザラ・ソードルを隠居という名の追放とし、エリージェ・ソードルを当主代理としようと企てたのだ。
だからなのだろう。
目下の問題である公爵家の使用人勤務状況改善を話し合う場にも関わらず、多くの者がそれ以上の事を、エリージェ・ソードルに語って聞かせた。
上に立つものの責任。
家長として指輪印を持つ意味。
領民への慈し。
使用人や部下の仕事に対しての厳しさ、その働きに対しての感謝。
そして、それが出来ない者達がいかに罪深いか、そして、排除されるべき存在なのだと、語った。
ろくに働かない父ルーベ・ソードルに対しての当てつけもあったのだろう。
多少大げさなぐらいに彼らは話した。
そして、”それ”は恐ろしいほどエリージェ・ソードルという女に染み渡っていく。
だからこそ、というべきだろう。
その悲劇は起きた。
老執事ジン・モリタはエリージェ・ソードルと国王オリバー達のやりとりから、公爵のすげ替えという企みを嗅ぎ取っていた。
モリタ家とは代々、ソードル公爵家に仕える家柄で、老執事ジン・モリタは後年になり執事となったが、元々は公爵家の騎士であった。
ルーベ・ソードルの父親、エリージェ・ソードルの父方の祖父であるカーン・ソードルとは、共に学び、共に遊び、時に激しく喧嘩をしながら共に育っていった。
主従以前に無二の親友と呼べる仲であった。
二人はよく、公爵領を馬で駆けながら夢を語り合った。
『ジン、俺はこの公爵領を今の二倍、いや三倍は豊かにしてみせるぞ。
ここには、それだけの潜在能力がある。
それを引き出すことこそが、俺の使命だと思っている』
『何とも壮大な話だな。
ならば、俺が最強の剣士になるのとどちらが早いか勝負だ!』
楽しげに笑いあう若者二人の希望は、叶うことはなかった。
オールマ歴五百二十三年、突如、隣国ガラゴ王国が攻め込んできたのだ。
オールマ王国はそれを最東部にあたるデンキキで向かい討つこととなる。
後に第二次デンキキの役と呼ばれるその戦いで、オールマ王国一万、ガラゴ王国一万五千もの死傷者を出す激戦となり、オールマ王国は辛くも勝利した。
その死闘のさなか、三十三歳のカーン・ソードルも命を散らせた。
ジン・モリタが足を軍馬に砕かれ、動けないでいるのを救いに駆けつけた時の壮絶な死であった。
ジン・モリタは呆然とした。
守るべき主が自分のために死に、足を砕かれることで最強の剣士になる夢も失った。
それでも生き続けることが出来たのは、主の残された家族、そして、公爵家を守る。
ただ、それだけであった。
そんな思いを抱えて生きてきた人間にとって、国王オリバー達のように、主であり親友の遺児であるルーベ・ソードルは割り切って切り捨てることは出来ない。
それが、公爵家にとって、ひょっとしてルーベ・ソードル自身にとって最善かもしれなくても、出来ない。
(若様も以前、一応は働かれていらっしゃったのだ。
何かきっかけがあれば……)
そう思った。
しかし、老執事ジン・モリタのような使用人に言われても、親戚であっても部外者であるマテウス・ルマが言っても聞きはしないだろうし、それで聞くようであればすでに働いている。
そこで老執事ジン・モリタはエリージェ・ソードルに話を振ってみることにした。
さすがのルーベ・ソードルも、娘の話は聞くだろうと思ったからだ。
だがそれは、結果を先に言えば、”最悪の選択”であった。
エリージェ・ソードルの改善は理にかなっていた。
それも公爵家の仕事、その問題点を的確に突いていた。
それ故に、老執事も使用人も、要職に就く親戚も、国王も、それを認め、それを採用し、さらに言うなら敬意を持った。
だからと言うべきだろう。
エリージェ・ソードルがたった十歳の少女である事実を誰もが、”無意識”の部分で失念していた。
エリージェ・ソードルは子供である。
子供であるのだ。
だから、この女は知らない。
自分以外がどのような思考をしているのか、知らない。
周りにも原因があった。
エリージェ・ソードルと仕事について語るのは非常に優秀な人間ばかりであった。
老執事ジン・モリタもそうだ。
祖父マテウス・ルマも国王オリバーもその他の親戚一同も、優秀だ。
そして、多少の差異はあっても、エリージェ・ソードル同様、責任感が強く、必ず物事をやり遂げようという強靭な意志を持った人間ばかりであった。
それはさながら、空高く飛行する大鷲である。
彼らと同じ目線しか知らないエリージェ・ソードルは枝の高さまでしか飛ばない小鳥の気持ちなど分からない。
『翼があるのだから、ここまで飛べるでしょう?』と平気で言う。
言ってしまうのだ。
老執事ジン・モリタの話を聞いたエリージェ・ソードルは、少し考え込んだ。
そして、「そうね」と頷いた。
この女、この時すでに”いかにして働かせるか?”などとは考えていない。
この際、出来るだけ多くの仕事をやらせよう、と”決めて”いた。
忙しい人たちの仕事を、手すきの人間に回す、その程度に考えている。
それはエリージェ・ソードルにとって”理”にかなったことだからだ。
そもそも、エリージェ・ソードル、父ルーベ・ソードルが働かない理由、そのものが分からない。
せいぜい、やることが分かっていない程度にしか考えていない。
であるなら、それを示せばよい。
欠片も拒否される事など思いつきもしない。
何故なら、父ルーベ・ソードルは公爵であり、当主であり、領主なのだから。
そうするのが当たり前だと”誰もが”言っているのだから、この女、一片も疑わない。
尊敬する国王が、祖父が、大人達が……。
そう言っているのだから、違うなど”あり得ない”。
エリージェ・ソードルはいつものように派手な装いをして、なにやら機嫌良さげに廊下を歩く父ルーベ・ソードルを見つけた。
彼女は迷い無くその元まで行くと、前置きをせずに話し始めた。
「なんだい、僕のエリー」などと笑顔で対応していたルーベ・ソードルは、話を聞くに従い徐々にその表情を強ばらせていった。
エリージェ・ソードルの話す内容は有り体に言えば一日の予定の指定である。
一日のうちこの時間からこの時間まで仕事に当てて、このように仕事をすれば、非常に効率が良く、あとは自由にして良い――そんな内容だった。
さらに付け加えて、やってみればさほど難しくない、難しければ相談してくれればよい。
そんなところだ。
エリージェ・ソードルは正しい。
非常に正しい。
例えば国王オリバーが聞いていれば、素晴らしく効率が良いと何度も頷いたことだろう。
だが、ルーベ・ソードルは小さい。
小鳥なのだ。
また、最後の”相談してくれれば”が致命的に不味かった。
小鳥の子は小鳥――そう思っていたのに彼女が高く高く上っていくのを見て喜ぶには、ルーベ・ソードルは小さすぎた。
流石にというべきか、老執事ジン・モリタは慌てて割り込んだ。
だが、ルーベ・ソードルはそれを退かすと、笑顔のままエリージェ・ソードルを見下ろした。
そして、右手にある指輪を引き抜くと、それをエリージェ・ソードルに向かって投げて寄越した。
(?)
それは、エリージェ・ソードルのまだ膨らみの薄い胸に当たると、絨毯の上にポトリと落ちた。
表情表現に乏しいなりに小首をひねり、エリージェ・ソードルはそれを拾った。
その指輪には公爵家の家紋が刻まれていた。
指輪印である。
婚姻から様々な決定に必ず必要とされるものであり、雑に扱えば家の存続にも関わる。
そんなこと、”子供である自分も”知っている。
だから、エリージェ・ソードルは目を大きく見開いた。
この女を知る者ならば、何度も見返すだろう。
あの、エリージェが、目を見開く?
それだけ、この女は表情を変えぬ少女であり、それをして激変するほどの逸脱を――”この少女にとって”看過できぬ逸脱を、父ルーベ・ソードルは行ったのだ。
「エリージェ。
そんなに簡単なら、お前がやればいい」
上から降ってくるその言葉に、エリージェ・ソードルは視線を上げる。
父ルーベ・ソードルが冷めざめとした目で笑っていた。
そして、呆然とする娘に背を向け、歩き始めた。
「ルーベ様!」
その後を、老執事ジン・モリタが慌てて追う。
エリージェ・ソードルは気づかない。
普段のエリージェ・ソードルであれば、ひょっとしたら気づいたかもしれない。
老執事ジン・モリタに――主を追う彼の駆ける姿がどことなくふらついていることに――気づいたかもしれない。
あの元騎士の――膝に後遺症を持ってもなおブレることの無かった足運びが――ブレる。
常に使用人達の様子を注視していたエリージェ・ソードルであれば、気付いていたのでは無いだろうか。
だが、エリージェ・ソードルは気づかない。
その数秒間、この女らしからぬ事に、指輪に心が捕らわれていた。
「ジンさん!
大丈夫ですか!?
ジンさん!」
突然の声に、エリージェ・ソードルは我に返った。
そして、声のする方に向かうと、玄関前に老執事ジン・モリタが倒れていて、侍女達が必死に声をかけていた。
エリージェ・ソードルも慌ててそばによると、老執事ジン・モリタは胸を押さえて、苦しそうに喘いでいた。
若い侍女がおろおろしながら説明をする。
「ご主人様に押されたジンさんが、そのまま倒れてしまって!
どういたしましょう!」
エリージェ・ソードルとて子供である。
こういう時どうすればよいかなど、すぐには出てこない。
ただ、老執事ジン・モリタの大きく上下する胸を凝視することしかできない。
「わ、わたし、お医者様を呼んできます!」
もう一人の侍女、ミーナ・ウォールが立ち上がると、返事も待たずに外に駆けていった。
「ジン!
ジン!」
エリージェ・ソードルが必死の声で呼びかけると、老執事ジン・モリタは乱れる視線を向けてきた。
そして、エリージェ・ソードルの小さな手は老執事の大きな手に包まれる。
それは、優雅な貴族の使用人のものに不釣り合いな、ゴツゴツしたものだった。
「大丈夫よジン!
今ね、ミーナがお医者様を呼びに行ってくれているから!」
「お嬢様……」
老執事ジン・モリタは無念そうに、悲しそうに、呟いた。
「……申し訳、ございません……」
老執事ジン・モリタの深く刻まれた目尻の皺から、一筋の涙が流れ落ちた。
ミーナ・ウォールはすぐに戻ってきた。
その茶色い瞳の目からはボロボロと涙がこぼれている。
「お嬢様!
旦那様が!
馬車を!
時間がないからといって!
もう一台も奥様が!」
「……隣のコート伯爵にお願いしてきて」
「はい!」
ミーナ・ウォールはまた駆けていった。
だけどもう、エリージェ・ソードルは分かっていた。
間に合わないことを。
先ほどまで、大きく揺れていた老執事ジン・モリタの胸は、今は――動かない。
エリージェ・ソードルは老執事の頭を、自分の膝に乗せた。
周りから聞こえる嗚咽を聞き流しながら、エリージェ・ソードルは静かに囁いた。
「ジン、ありがとう。
ゆっくり休んで……」
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