エリージェ・ソードルという女1
この女、エリージェ・ソードルは凡庸である。
同い年の者を百名集めれば、せいぜい二、三十位ぐらいの素質しかない。
優れた機転も、奇抜な発想力も、正確無比の記憶力も、無い。
希にみる初期魔力量も、目を見張る魔術適正も、高い運動能力も、無い。
毎年学園に訪れては卒業していく、”そこそこ”優秀な令嬢に過ぎないのだ。
だが、誰もエリージェ・ソードルを止められなかった。
王太子になるべく英才教育を受けていた王子も、剣の天才として将来渇望されていた伯爵家跡取りも、高位魔術師として敬われ恐れられていた奇才児も、異国の魔術に精通する強かな他国の王子も、そして、その護衛に当たっていた屈強な近衛隊や護衛の者達も……。
誰一人、エリージェ・ソードルの凶行を止められなかった。
確かにこの女、一般的な項目を羅列すれば凡庸である。
そして、この女、それを”正しく”理解していた。
だからこそ、なのだ。
この女はその恐るべき”能力”を開花させた。
――
エリージェ・ソードルの父ルーベ・ソードルはゲスと呼ぶにふさわしい男であった。
この男は自身の妻であるサーラ・ソードルが病の為に、五歳になった娘エリージェ・ソードルを残し死ぬと、それを理由に享楽や商売女に溺れるような男であった。
「サーラ、サーラ……。
僕の愛しのサーラ!
引きずっていてはいけないと知りながら、僕は彼女が忘れられないんだ!」
などと言いながら、その緩みきった表情からは悲壮感など欠片も見あたらない。
それでも、理由が理由だけに周りは注意するのを躊躇する。
そんなこともあり、ますます図に乗って、娘も領地の仕事も放り出して遊びほうけた。
しかもである。
この男、愛しのサーラなどと言いながらも、その彼女が産後の肥立ちの悪さと持病の肺病の悪化も相まって、寝台に伏せている間、子爵令嬢と逢瀬を重ねていた。
そのことが明るみになったのは、エリージェ・ソードルの六歳の誕生日を祝う食事会でのことだった。
一族が揃う中、突然、一人の令嬢がルーベ・ソードルの息子だという男の子を引き連れて、公爵邸に乗り込んできたのである。
その子爵令嬢の名は、ミザラ・イーラという。
イーラ子爵の三女で、男の視線を集める美貌と奔放な性格とで、様々な浮き名を流していた。
ミザラ・イーラが連れてきた子供は、なるほど、髪は濃い黄金色で、その目には黒真珠のような瞳が輝いていた。
それはソードル家で生まれた者の多くが受け継ぐ特徴であり、ルーベ・ソードルもその娘、エリージェ・ソードルも同じであった。
なので、母親とは違い、どことなくおどおどしている少年が、ルーベ・ソードルの息子であることは間違いない、ということには誰も異議を上げなかった。
問題はそこではなかった。
顔を真っ赤に染め、ガクガクと体を震わせている初老の男――エリージェ・ソードルの母方の祖父であるマテウス・ルマが怒気を押さえながら訊ねた。
「この子はエリージェの一つ下らしいが、ルーベ……。
「え、いや」
ルーベ・ソードルはひとしきり視線を泳がせると咳払いをする。
そして、瞳を潤ませながら言った。
「寂しかったんです!」
その顔面に拳が叩きつけられた。
父ルーベ・ソードルはそんな男だった。
公爵家にとって、たかだか子爵家の娘であるミザラ・イーラなど本来であれば愛人とするのが相当であった。
ただ、要職につき、多忙を極める親戚一同にとって、ルーベ・ソードルという存在が非常に煩わしかったこともあり、うだうだと言い訳にもならぬ御託を並べる本人をそのままに、ミザラ・イーラとの婚姻をさっさと進めてしまった。
そこには、嫉妬深そうなミザラ・イーラという女が夫となるルーベ・ソードルを束縛してくれるだろうという思惑もあった。
ところがである。
ミザラ・イーラ――ソードル家に入り、ミザラ・ソードルになった女は、確かに嫉妬深い。
息を吸うように女を口説くルーベ・ソードルに対していつも激しく罵声を浴びせていた。
だがそのくせ、この女、男遊びをする。
まるで色街の娼婦のような装いで毎晩くり出し、朝まで返ってこない。
自分のことを棚に上げる様子に、当然ルーベ・ソードルとておもしろくない。
競うように遊びに出る。
ルーベ・ソードルはますます領地運営から遠ざかるようになっていった。
しわ寄せはその使用人に来た。
特に、先代から仕える執事、ジン・モリタにのしかかる。
屋敷を取り仕切るという自身の仕事に加え、広大な規模を誇る公爵領の様々な対応を全て行わなくてはならない。
その上、任されたとはいえ、執事は執事である。
様々な最終決定はどうしてもルーベ・ソードル公爵が持つ指輪印の押印が必要となる。
こればかりは預かるわけにも行かず、必要に迫られると遊び回っているルーベ・ソードルを探すために方々へと足を運ばなくてはならなかった。
しかも、使いをやっても素直に返ってこないのは分かり切っていたので、ジン・モリタ自ら足を運ぶ羽目になっていた。
そんな様子を漆黒の瞳が見つめていた。
エリージェ・ソードルである。
その時、十歳となっていた。
この女にはこのような逸話がある。
八つになった頃、家庭教師の老紳士はこのような課題をエリージェ・ソードルに課した。
それはオールマ王国の全領持ち貴族の家名と紋章、その貴族の特長などを覚えるというものだ。
オールマ王国には公爵から男爵まで、およそ五百近くあり、全てとなればそれなりに骨が折れる。
ただ、貴族の子息、子女にとって必ず覚えなくてはならない知識でもあった。
「良いですかな、エリージェ様。
紋章とは、その多くがその家の特徴を示しております。
なので、覚える時はそれを紐付けるようにすると楽ですぞ」
そして家庭教師の老紳士、にっこりと微笑んだ。
「さあ、エリージェ様。
まずは一日五家ずつ、覚えていきましょうな」
次の日、エリージェ・ソードルは一日で覚えた家名を書き、読み上げ、その歴史や立ち位置などを簡単に説明し、家紋を選んで見せた。
次の日も、次の日も正解して見せた。
「良くできました。
では、次からは一日十家ずつとしましょうか」
次の日は十家正解した。
だが、その翌日は一家間違えた。
今まで覚えていた中に似たような家があったので、混乱してしまったのだ。
その翌日は家紋を二家、間違えた。
だが、これぐらいは別段、大したことではない。
五百もあれば家名も家紋も成り立ちも、似た感じのものが出てくる。
まして、まだ八歳の少女である。
十二分以上に許容範囲であった。
ところが、この老紳士、内心では満足しつつも、厳しい表情を浮かべた。
「エリージェ様、あなた様は公爵家のご息女、高きにいらっしゃるお方でございます。
家名や家紋を間違えるなどあってはならないのでございます」
そして、締めくくるように言った。
「エリージェ様、一日十家と言いましたがなぁ、わしらの時代は一日二十、いや三十家覚えさせられましたぞ」
「三十、ですか?」
無愛想なエリージェ・ソードルが珍しく目を丸くした。
そんな様子に気を良くしたのか、老紳士は「うむ」とどことなく自慢げに頷いた。
「まあ、今の子にはそこまで無理はさせられん。
エリージェ様、十家でよろしい。
明日は完璧に覚えてこられるように」
老紳士はそこまで言うと、開いていた家紋集を閉じた。
「三十、ですか?
それは凄いですね、お嬢様」
「ええ」
老紳士が帰った後、侍女のミーナ・ウォールの問いかけに、カップを受け皿に戻しながらエリージェ・ソードルは頷いた。
侍女の中では最年少であるとはいえ、ミーナ・ウォールも十五にはなる。
昔を思い出すように視線を上に傾げた。
「わたしも幼い頃に覚えさせられましたが、かなり苦戦した記憶があります。
一日であれば、五つぐらいがやっとだったような……」
侍女をしてはいるが、このミーナ・ウォールの実家は男爵家である。
下位とはいえ、曲がりなりにも貴族なので現在のエリージェ・ソードルと同じく、家庭教師から一般教養を教わっていた。
「ただ、わたし達のような下位貴族とは違い、お嬢様は上位貴族、求められるものも必然高くなるのかもしれません」
なるほど、と思った。
公爵家と男爵家であれば、その格の分だけ責任の大きさは違ってくる。
であれば、ミーナ・ウォールが言うことは頷ける。
もっとも実際の所は、少し違っていた。
家庭教師の老紳士、幼い頃は腕白で、指示されていた五家の暗記もサボり気味であった。
それに激怒した父親に「三十覚えぬまで飯を与えぬ」と部屋に閉じこめられたのであった。
それをさも当時は当たり前だったと語るのは老紳士の見栄であった。
とはいえ、エリージェ・ソードルという少女、幼いだけあり、素直に信じ込んだ。
だが、こうも思う。
(わたくしには無理だ)
そう、あっさりと諦めもしたのだ。
翌日の成績は十問中四問しか正解しなかった。
老紳士は苦笑した。
そして、前日のことを反省する。
(いかんいかん、幼いご令嬢に無茶を言ってしまったわ)
「あぁ~エリージェ嬢、昨日は少し惑わすような事を言ってしまいましたな。
あまり肩肘張らずに、覚えて下され」
その翌日は少し盛り返し、十問中七問の正解だった。
老紳士はうんうん頷き、十分だと褒めた。
その翌日、十問中九問正解した。
老紳士はやっと戻ったと内心安堵した。
だが彼は勘違いをしていた。
その日から十日間、エリージェ・ソードルは一問も間違えなくなった。
そしてこの女、あっさり言った。
「先生、もう全て覚えました」
老紳士は驚愕で言葉を失った。
実際試したところ、一問も誤ることなく、すらすらと答えていった。
エリージェ・ソードル、出来ないことを出来ないとあっさり判断する。
だがこの女、けしてそこでは止まらない。
どうすれば良いかを必死に考える。
現行の暗記でそのまま進めるのではなく、別の方法を模索することに時間をかけるのだ。
特に、人が出来ると言うと、信じ込んでしまう傾向がある。
一日三十家覚えたと言われたら、その方法が必ずあるはずだと、思いこむ。
上手く行かなくても、必ず出来ると思いこむ。
なぜ自分は覚えるのに苦労しているのか?
どこでつまずいているのか?
それらを箇条書きにしながら、いろいろ模索し続けた。
そこで、思いついたのだ。
ただ、言われた通り資料をそのまま紐付けるのでは無く、貴族家名、家紋、その歴史を簡略化してしまってから覚えれば良いという事に。
エリージェ・ソードルはまず、覚えるためにと渡された貴族図鑑を簡略化した。
特に文章でかかれている部分を箇条書きにした。
その時、様々な表現方法でかかれている箇所を必ず一つに統一することとした。
その上でさらに、覚えやすいよう削りに削った。
それにより、記憶する速度が速まり、あっというまに全てを覚えきってしまったのだ。
後に、国王オリバーはエリージェ・ソードルをこのように評している。
『改善の天才』と。
改善の天才、エリージェ・ソードルはまるで自分の命を削るかのように働く老執事ジン・モリタを見ながら、何故彼がこうも働かないといけないのか、早速考えた。
そして、自身の父、ルーベ・ソードルにその事を訊ねた。
それに対して、元凶たるルーベ・ソードルはそれをおくびにも出さず、苦しげに眉を寄せた。
「僕の愛する娘エリージェ、それはね。
とにかく仕事量が多すぎるんだよ。
僕も頑張ってはいるんだが、どうしてもね、モリタに回ってしまってね」
「でもお父様、最近は書斎にほとんど入っていませんよね?」
事実、このルーベ・ソードルという男、夜はそこらの夜会を歩き回るか、女の所に通い、朝から昼は寝室や庭園の長椅子でごろごろしている。
エリージェ・ソードルはそんな時間があれば働くべきだと、暗に言っているのだ。
娘にそこまで言われれば普通、言葉に窮す。
だが、このルーベ・ソードルという男、無駄に頭が回る。
その時も、このように逃げた。
「エリー、ああエリー!
違うんだよ。
人には役割があってね。
モリタが行っている仕事が終わらないと、僕は仕事に入れないんだ。
そうなると、その合間合間やることが無くなるってわけだ。
僕みたいな仕事が速い人間は特に、それが顕著になるって訳さ。
分かるかな?」
実際の所は、やるべき仕事の大半を執事ジン・モリタに押しつけているから、その合間が出来る。
だが、そのあたりについて、まだ理解していないエリージェ・ソードルは「なるほど」と思った。
そこで、エリージェ・ソードルはジン・モリタの働いている場所に戻った。
そして、その様子をじっと見る。
老執事は過労でふらふらながらも、最初こそはこの女を気にしてはいたが、押し寄せる仕事にかまけていられなくなり、いつしか、その存在を忘れていった。
また、エリージェ・ソードルはそれを望んでいた。
慌ただしく働く彼やその部下を丁寧に観察し、何に時間を取られているかを紙に書き上げていった。
それを一週間続けた。
次に彼女は色々な人間に相談を持ちかけて行く。
どうすれば効率が上がるのか、とか。
どうすれば失敗が防げるのか、とか。
相談された大人達は初め、揃って不可思議なものを見るような顔をした。
彼らは公爵家の現状をある程度理解していて、エリージェ・ソードルの相談事とは、元凶たる父親をいかに働かせるか? というものだと思っていたからだ。
十歳になったばかりの少女に、仕事の効率について相談されるとは夢にも思わなかったのだ。
さらにである。
要職に就き、政治の最前線に立つ彼らにして、エリージェ・ソードルの話に、なるほどと思う点があった。
特に、叔母にあたるマルガレータ王妃に相談を持ちかけた時に、何気なく同伴した若き国王オリバーなどは感嘆の声をあげた。
「エリー!
確かに君の言う通り、既存の方法では無駄が多いな!
うんうん、この対策は確かに良い」
政務には、ある程度やり方が決まっていて、多くの者がその方法をオールマ学院などの学び舎で教わっている。
その中の一人である若き国王であったが、効率という部分で、それらに違和感を感じてはいたのだ。
その日から国王や要職につく一族の大人たちを交えて、模索していった。
後に、エリージェ式と呼ばれるそれは、広く使われることとなる。
用語の統一、簡略化。
各種書類の見直し、簡略化。
指示書配布の義務化。
積み木による予定表作成など……。
その軸にあるのは、”いかにして頭を使わないか”である。
用語がバラバラだとそれを置き換えるのに頭を使う。
書類の書式が複雑だと、書く側も読む側も頭を使う。
指示書がないと思い出すために頭を使う。
予定表がないと優先順位を思い出すのにいちいち頭を使う。
頭を使えば疲れるし、時間もかかる。
場合によっては記憶違いで失敗する。
エリージェ・ソードルは自身の頭が凡庸だと自覚する故に、その部分を重点的に”改善”したのだ。
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