第13話 四日目 2/7

 蒸し焼きにしていたハンバーグ、そのフライパンの蓋を取り去ったときに聞こえてきたのは、ジューシーな旨味を想起させて熱く迸る肉汁の破裂音――――だけではなかった。


 異音の出どころからより近くにいる日乃実ちゃんが怯むのを見た。フライパンの中の異変にはじめて気が付いたのか、かなり動揺している。


(日乃実ちゃん、まさかハンバーグ焦がしたのか……っ)


 愕然とした。普段の日乃実ちゃんなら、そんな初歩的なミスをしでかすとは思えない。


 でも何かに追われ、慌てて逃げるような必死さで三品同時並行の調理を続けていれば、いかに日乃実ちゃんといえど無理からぬ失敗なのかもしれない。


 だとしても、ここで投げ出すような彼女ではないと、僕は知っている。日々の努力に裏打ちされた力強い眼差しで夢を見据える、底抜けに明るい少女。


 彼女が自分の犯したミスにうろたえたのは一瞬だった。


 すぐにフライ返しで肉をひっくり返し、焼けてない面を下にすると、予め整えていたきのこソースを投入して蓋で閉じ込めた。


 そして、彼女の作業の手はここから一層速さを増していく。


 ハンバーグが煮込み上がる前に、ほぐれたジャガイモを切った野菜とマヨネーズとで混ぜ合わせポテトサラダに変えていく。

 こうして一品完成するが、息継ぎも許さずに別のフライパンに油を引く。

 僕からすれば、すでに息が詰まりそうな密度の作業を目の当たりにしてきたが、この後さらに炒め物が控えているらしい。


 もし僕があの調理台に立てば、殴りかかってくる作業量にたちまち思考停止してしまうだろう。僕は思わず調理の様子ではなく日乃実ちゃんの姿を窺った。


(――――っ、日乃実ちゃん……!)


 窮地に反して、彼女の目からまだ光は失われていなかった。慌ただしく見えるが、決して慌ててはいない。


 蒸し焼きの火を止め、ハンバーグの肉に予熱を与えていく。その間、別の鍋で炒めていた野菜に白米を投入。木べらで軽快に具材を混ぜれば、次第にあまじょっぱい香りが漂い出した。


「初日と似たニオイの……チャーハン、だよな?」


 オープンキャンパス初日。冗談みたいにダボダボの調理服を着て、ミツコ先生の温かい見守りの中、日乃実ちゃんはチャーハンを作っていた。


 が、あのほんわかな雰囲気はどこへやら。体験授業のコースが変わった今、日乃実ちゃんだけでなく、僕まで手に汗を感じながら調理の行く末を見届けようとしている。


 ――もしも料理中に迷いそうになったら。


 調理を始める前に日乃実ちゃんは言っていたはずだ。


 ――いつも美味しそうに食べてくれる人のことを、思い出してみようと思う。


 目の前の日乃実ちゃんはどうだろうか。慌ただしく動く彼女に、おおよそ作業以外のことは頭になさそうだった。


 初日の体験授業からたった二日の間に、何が日乃実ちゃんをここまで変えてしまったのか。

 それとも、調理中の彼女は元々こんなにもストイックだったのだろうか? ただ、僕が知らなかっただけで。


(ん。そういえば、あそこに置いてあるのってたしか……)


 ふと、視界の隅にストップウォッチが飛び込む。調理台の端に徳枝さんがこれ見よがしに置いていったものだった。


 アレのせいか、と思う。


 ――――。


 ――――――――。


 調理開始からおよそ二十分。汗を浮かべる日乃実ちゃんの前に出来上がった三品が並んだ。焼き加減にハラハラさせられたきのこソースハンバーグと、あとは盛り付けるだけのポテトサラダ。そして炒め終わってみれば、チャーハンだと思っていたモノの正体はピラフだった。


 不安だったハンバーグも焦げているように見えないが、味の方は果たして。


「これでさい……ごっ、と」


 大小それぞれの皿に盛りつけたとき、いつの間にかそばに佇んでいた徳枝さんがストップウォッチを鳴らした。


「お疲れ様です。講評にしましょうか」

「うあっ! とっきー先輩また気配なく近づい……」

「島さん、ぜひお近くにどうぞ」


 スキンヘッド+サングラス着用のいかつい大男に促されては遠慮もできない。料理が並ぶ調理台へと歩み寄った。


「正直、驚いたよ。日乃実ちゃんがこんな短い時間で三品も作れたなんて知らなかった」

「あ、シンタロー……うん」


 聞こえたのは、蚊が鳴いた程度のちから無い返事。無事に山場を超えられたというのに、日乃実ちゃんの視線は斜め下を落ちるばかりだった。


「いつもみたいに胸張った方がいいんじゃないか?」

「……ぅえ?」

「日乃実ちゃんが何に納得いってないのか素人の僕にはわからないけど。いつもみたいにどーんと笑っといてくれた方が、食べる身としては気持ち良いもんだぞ」


 努めて励ましの声音で言ってやると、彼女は微妙にうなずいた。


「とっきー先輩っ」

「む?」

「講評、お願いしまっす!」


 徳枝さんを呼ぶ。その面はもう持ち上がっていた。


「よろしい。計屋君に伝えることは二点あります。まずは」


 サングラスを直し、講評の開始を宣言する。

 室内だというのに真っ黒なサングラスは相変わらずだった。思えばこの実習中、僕は一度も徳枝さんの素顔を見てないな。


「完成までの所要時間は二四分四四秒でした。計屋君」


 徳枝さんの顔はストップウォッチから日乃実ちゃんへ向く。

 サングラスで窺い知れないが、レンズの奥にはおそらく厳しい、あるいは冷静すぎる瞳が鎮座しているだろう。


 視線を受けた日乃実ちゃんの表情が僅かにこわばる。


「目標時間はおぼえていますか」

「……十八分」

(え――――十八分だって!?)


 時間の制限があったのか、僕は全く知らなかった。


 ということは単純に考えて……一品を六分? いや、日乃実ちゃんは同時並行で料理を作ってたから、正確にはもう少し猶予はある……。


 ある、けれど。


「一品増えてなお、昨日と同じタイムを出せたのは、ひとえにあなたが手際を意識できたからでしょう。そこは評価に値します」

「……っ、ありがとうございますっ」


 彼女は相槌のように褒めに応じるが、いつものように照れたり恥ずかしがったりはしなかった。


 むしろ、泣き出してしまいそうだ。


「ですが」


 徳枝さんの言いたいことはすでにわかっている。そんな様子で彼女は次の言葉を待ち構える。


「目標は十八分だと伝えましたね」

「それは……ハンバーグとポテトサラダだけの話じゃ」


 日乃実ちゃんのしょぼくれた声で抗議が上がる。僕は固唾を飲んだ。


「……そうでしたね。では、いずれそうなってもらいましょう。調理場で働きたいなら、手際は今後も意識するように」


 言い分で張り合うことはしないが、ぴしゃりと譲る気もない言葉。

 一流にも取材を仕掛けてきた僕の体感が、この人はプロだと告げている。


「では、二点目ですが……計屋君。あなたは今日、この料理たちを誰に食べてもらうつもりで作ったのですか?」

「それは、一応とっきー先輩にと思って……昨日と同じで、食べてくれないのかもしれないけど」


 技術的なことばかりかと思いきや、徳枝さんは意外な問いを投げてきた。


 食べる人のことを考えていたか、とか、思いを込めて作ったのか、といった一見マインド的な話をしているのかと思いかけるが、問いかけの真意はしかしすぐに判明する。


「ふむ、つまり計屋君はこう言いたいわけですか」


 徳枝さんがハンバーグの皿を顔のあたりまで持ち上げ……ちょうど鼻のあたりで止まるのを見て、僕は考え直した。


「焦がした料理を評価してもらおう、などと。甘いですよ」


 僕の中ではあくまで焦げている疑惑、だったハンバーグ…………どうも焦げているらしく、どの段階からか徳枝さんはそれをも見抜いていたようだ。


「……それは、だって……!」


 指摘に顔は青ざめ、握り込んだ調理服の裾が深いシワを作っていた。


 今にも謝りだしてしまいそうな日乃実ちゃんの前で徳枝さんは、あわやハンバーグが転げ落ちそうなほど皿を傾けていき――――。


 ドサッ。


 湯気を立てていたきのこソースハンバーグが、手近なゴミ箱へ滑り落ちた音。


「……………………っ!」


 何が起こったのか理解できなかった。三人の場に沈黙が降りる。


 出来立ての熱がビニール袋をホカホカと曇らせた。


 意味がわからなくて息が言葉にならない。おそらくは、日乃実ちゃんも同じ。


 では徳枝さんはどうか? まさか本当に捨てたのか。だとしたら……。


「アンタ、一体どういうつもりなんだ!?」


 事態を理解しているはずの人は、例によって表情が読めない。サングラスが鬱陶しかった。


「調理でプロを目指すなら、いずれ――ぐっ」

「日乃実ちゃん! 待てって!」


 徳枝さんが沈黙を破ると同時に、駆け出した日乃実ちゃんが実習室を飛び出す。あとには徳枝さんが突き飛ばされた形でよろめいていた。


 横切っていく日乃実ちゃんがどんな顔をしていたか。あまりの速さで確かめられなかったが、そんなもの、見るまでもなく痛いほど伝わって来た。


「くっ……指導のつもりかよ、いくらなんでも……!」


 突き飛ばされた拍子に落ちたのか、徳枝さんの足元には件のサングラスが落ちていて。


「……行ってあげてください」


 やっと目撃した彼の双眸は、心なしか潤んでいた。


「彼女のところへ」

「そんなの……アンタに言われなくたって!」


 徳枝さんの無事をロクに確かめもせず、僕は調理実習室を抜け出る。


 もはや廊下に日乃実ちゃんの姿はない。それもそうだ、あの様子ならきっと近くを探しても無駄だろう。もっと遠くに走っていったはずだ。


 僕は人目も構わずキャンパスの廊下を駆け抜けた。

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