第14話 四日目 3/7
どうしてこんなことになってしまったんだと、廊下を突っ切りながら己の不甲斐無さを独り言ちる。
このオープンキャンパスは日乃実ちゃんにとってただの体験授業なんかじゃあない。
彼女は人生を決める覚悟でここへ来たはずなんだ。
人生を背負って臨んだ彼女に待っていたのが、あんな仕打ちだなんて酷すぎる。
廊下のラウンジからラウンジ、つまり端から端まで探したところで、足が止まった。
「ハァ、ハァ……いない。……違う階に行っちゃったのか」
無人のラウンジに踵を返して階段を目指す。ロクに運動もしない四十代後半の心肺は酷く軋んだ。
何でこんなことになってしまったんだ。日乃実ちゃんが調理実習を抜け出してから、僕は脳内でしきりに同じ文言を叫ぶ。
日乃実ちゃんが僕の部屋を訪れてから今日まで、大したチカラになれなかった。くそっ、不甲斐無くて堪らない。
一応、住む場所や調理の環境なんかは一通り提供してあげられたが、それ程度ならそこらの安いホテルでも事足りるわけで、チカラになれたとは言えない。
もっと言えば、僕だからこそ助言できたことも確かにあったはずだったのに、なぜこうなった。
例えば、徳枝さんが日乃実ちゃんの料理を捨ててしまうかもしれないことも、僕は半ばわかっていた。知っていても教えてあげられなかった。
目の前で作られた料理を、作った本人の前で捨てる。そんなことが起こるのは、日乃実ちゃんがもっとプロに近づいてからの話だと高を括っていた。
そう油断した結果、日乃実ちゃんを追い詰める出来事を招いたんだ。
数十メートル必死にひた走って階段にたどり着く。階段を上がるか下るかの分かれ道だが、こんなときでも日乃実ちゃんなら上を選ぶ気がした。肉体年齢に分不相応な段飛ばしで階段を駆け上がる。
日乃実ちゃんはどんな気持ちでこの階段をひとり上ったのだろう。
いつも言っていた。食べる人第一。
言葉通り、日乃実ちゃんの料理は偏食で乱れた食生活を送る僕を鑑みた優しい味付けと、僕の好みに寄せたものばかりだった。
量の多さは胃に優しくなかったが、それでもどうにか食べきってごちそうさまと口にすれば、必ずうれしそうに微笑む。
――シンタロー、ほんっとに美味しそうに食べてくれるからつい、ついたくさん作っちゃうんだよねー――
だのにそれが今日は捨てられた。一口も手を付けられずに。
日乃実ちゃんは否定された気分になっていないだろうか。
普段、彼女が料理に込めている思いやりや優しさ。それらすら否定されたと感じているなら、そんなのは錯覚だと伝えてあげたい。なんでも、一言でもいいから、いち早く。
「こんな階段、キツイとか言ってられないっての……!」
他に考える余裕もなく最上階まで階段を駆け上がった、が。
(こんなところにいるわけない……!)
最上階はフロア全体が学生たちの休憩スペースになっていた。
ゴールデンウィーク期間だというのに結構な数の生徒が、これまた結構な数の丸テーブルを囲って昼食を取っている。
平静でない人間が好き好んでごった返した所に行くとは思えない。
下りよう。とりあえず上から一つずつ階を下りてしらみつぶしに探すしかない。
騒がしい最上階を後にして、また長い廊下をひた走り、ときどき教室を覗き見ては彼女の影を探す。
(………………)
では、彼女がとことん人目を避けて、一人きりで落ち着きたいと思っているのだとしたら、僕では決して見つけられない場所にいるかもしれない。
それこそ、女子トイレの個室とか。
「……いた」
廊下の端。調理師科の階で見たのとまるっきり同じ配置のラウンジに。ただ一点異なるのは、そこに日乃実ちゃんの姿があったこと。
「日乃実ちゃ――――」
「なんでだよっ、くそっ! ……ちくしょうっ!!」
ゴンッ! 固いテーブルに小さな拳が打ち付けられた。衝撃音が僕の呼び声をかき消す。
「失敗してたかも、しれないけどっ………………捨てるとかっ、信じらんない……ほんと、っざっけんよぉ!!」
聞くだけで辛い慟哭混じりの叫び。声を上げると同時に、彼女はもう一度固く握られた拳を振りかざす。
「え、ちょ、あぶな……」
――――小さかった手を、日乃実ちゃんはあんなになるまで赤く腫らしたのか。
とても見てられなかった。
調理するのに大事な手だろうと𠮟りつけたくなった瞬間、僕は叩きつけんとする拳とテーブルの間に自分の腕を滑らせていた。
「痛っっってえ!!」
「あっ、え、シンタロー……どうして!?」
当然、クッションにされた僕の腕には拳がクリーンヒットするが、日乃実ちゃんの方が無事ならそれでいい。
「ごっゴメンっ! 結構強く殴りつけちゃったからっ……」
「い、いいからイイカラ。それよりほら、驚いたろ? サプライズで一旦落ち着いただろ?」
瘦せ我慢だ。腕は痺れて感覚がない。
だけど僕がどうだろうと、とにかく日乃実ちゃんの心が優先だ。
「…………それは、」
問いに対して、日乃実ちゃんはカオを伏せる。
わかっていたことだが、突然僕が現れた上、うっかり殴りつけて面食らう程度のハプニングで気がまぎれるほど簡単な問題でもないらしい。
一口すら食べてもらえず料理を捨てられたことは、日乃実ちゃんにとってそれだけショックな出来事だったんだ。
今この場で、僕に何ができるか。そんなこと、決まりきっている。
「よっこらせ、っと」
ここはちょうどラウンジだったので、
「実習室に戻る前にちょっと休んでこうか」
ソファタイプのベンチに腰掛ける。すぐ隣のスペースを示すようにポンポン打つと、そこへ彼女もチョンと座る。
「…………」
「…………」
生徒の多い最上階のラウンジとは打って変わって、この階には僕たち二人以外の誰もいない。
ゆえに静かで、しかも周りのビル群より背の高い校舎なので、ガラス張りの壁から外の景観と日当たりを遮るものがないときた。心を落ち着かせるには持って来いなロケーションだと思われる。
「はぁ……あったか」
柔らかい昼の陽気を受けながら、ほぼビルな東京の街並みの中にタカイツリーやアカイタワーが視界に入る。
日乃実ちゃんの目にも同じ景色が映っているはずだが、憧れのザ・東京なそれらにさえ、今すぐには感情が動かないらしい。
僕はこのまま、日乃実ちゃんが気を取り直すまで何もしないで待つつもりだった。
「私たち、徳枝先輩のところ戻んなくていいの?」
とっきー先輩、とは呼ばなかった。
「日乃実ちゃんから戻るって言い出してくれるのを待つことにするよ」
「……………」
「どうする?」
「……戻りたくない」
視線はしぼんだ花みたいに手元に下がっている。返事もしょぼんとしていた。
ひょっとしたら彼女は街並みに無反応なんじゃなくて、そもそも座ってから一度も顔を上げてくれていないのではないか、と感じるほどのしょぼくれ具合だった。
「良かった」
「……何がよ」
「とりあえず、テーブル叩かないぐらいには冷静そうだから」
「それはほんとにゴメンって。腕痛くない?」
「平気」
噓だ。あざになっていると見なくてもわかる。
「日乃実ちゃんこそ。手、痛むだろ?」
その言葉に、日乃実ちゃんは打ち付けたらしい手を反対の手でさする。
小さな両手を僕も見る。見比べて、利き手は赤く大きく腫れていた。
赤く腫れたその手に、ぽたと水滴が落ちる。
「……痛いよ。すっごく痛いっ」
「僕が言うまでもないかもだけど、大事にしないと。包丁とか握れなくなるかも」
痛むはずの手を、日乃実ちゃんは震えるほどに固く握って。
「徳枝先輩は、どうして捨てたりしたの!?」
きっと痛むのは手だけではない。仕打ちを思い出してか、か細かった語気に険が宿る。
「シンタローは何か聞いてない? 徳枝先輩は何か言ってた!?」
「ごめん。僕はあの後すぐ日乃実ちゃんを追いかけたから、何も……」
「そっか。馬鹿だな私。聞きたかったらその場にいればよかったのに……」
まだまだ気持ちが不安定だ。まぶたに涙が溜まっている。
でも、先の出来事について話しても、来たときみたいに怒り狂いはしないし、どうしようもないほど悲しみに暮れるわけでもなかった。
――――今なら話しても大丈夫だろうか。
料理が捨てられた理由。日乃実ちゃんがハンバーグを焦がしただけではなく、あれにはきっと別の理由がある。
今日の実習が始まる前から、そうなってしまうのではという胸騒ぎはあった。言い出すことはできなかったけど、今ならば。
「でも、ほんとはわかってるんだっ。なんで徳枝先輩が私の料理を捨てなくちゃいけなかったのか」
本当は最初からわかっていた。そう話を切り出したのは僕、ではなく日乃実ちゃんだった。
「第四問」
「…………へ、日乃実ちゃん?」
囁くくらいの声量で唐突に行われる、恒例のクイズ宣言。しょげながらではあるが、人差し指を立てて宣言するその様子から、日乃実ちゃんも少しずつ普段の調子を取り戻しつつあるように見えた。
見えた、なんて言い方をするのは、どうかそうであってほしいから。
「あるところに一口のみ、あるいは全く口をつけずに弟子の料理を捨ててしまう料理人や調理師がいます」
急すぎる始まり方に僕はまあまあ困惑していたのだが、クイズ形式で話されるとやっぱり無性に続きを聞きたくてなって抗えない。
戸惑いたい気持ちを我慢して彼女に続きを促した。
「その調理師たちは、ある目的のために日頃から食べる量を抑えるそうです」
いつもの司会者テンションというより、誰にともなく語りかけるような、言い聞かせるように凪いだ口調で日乃実ちゃんは続ける。
「さぁ問題です。弟子を持つ調理師たちがそこまでして料理を食べない理由とは? ……なんだと思う?」
「…………それは」
僕は知識としてそれを知っていた。
「徳枝さんに限らないハナシだよね?」
「そ。徳枝先輩に関係なく」
「だったら…………他に食べなきゃならない料理があるから」
「ほうほう。というとズバリ?」
「弟子を取る人の大半は自分の店も持っているはずだから、例えば店の新作メニューのために腹を空けといたり」
「ふんふん」
「あとは自分の料理の味見をしないといけなかったり」
「なるほど」
「それから、他の弟子の料理もチェックしないといけないわけで……仕事とはいえ、その度に全部食べてちゃ腹に入りきらないわけで……」
「はいそこまで。正解」
その言葉を最後に、僕の回答と彼女の相槌が止む。
間が開いてから、日乃実ちゃんはたふーと長い息を吐いて、
「よーするに、午後の体験授業でも食べなきゃいけない徳枝先輩からしたら、私のは捨てちゃって大丈夫な程度だったんだよ。とーぜんだよね、ハンバーグ焦がしちゃったし」
乾いた声に軽い調子、まるで平気そうに吐露する。空元気だとすぐに伝わった。
なのに僕は、
「そうだったのかもね」
とも、
「それは違うよ」
とも言えなかった。
前者が言えないのは当たり前だが、弟子の料理は捨てられがちなのも事実だと、僕はつい最近知ったばかりだ。
噓をつけない仕事柄が災いし、弱った彼女に肯定も否定もしてあげられなかった。
もしかして僕はまた、日乃実ちゃんのチカラになれるチャンスを逃してしまった……んじゃないのか?
「シンタロー」
「ん……ああ、おう。どうした」
日乃実ちゃんはすくっと立ち上がる。彼女のテキパキとした動作を、いつものようにサイドテールが追いかけた。
「戻ろっか、教室」
「もういいのかいね?」
「うんっ、色々喋ったらスッキリしちゃった。ありがとねっ」
そうか、よっこらせっ、と僕もゆーっくりと立ち上がる。
ゆっくりにならざるを得なかった。階段の方へと廊下を歩く程度ですら、ウン十年ぶりに酷使した脚は微妙に言うことを聞いてくれなかったから。
「じゃ一緒に戻るかな。ところでここ何階だった?」
「十六階だよっ」
「高いよな……いや、ホントに。調理師科は四階だったろ」
「カンケーないよ。エレベーター使ったしっ」
「そりゃ飛び出してった割に冷静だね?」
エレベーター。必死だったとはいえ眼中にもなかった。とんだ徒労だな、まったく。
階段改め、二人してエレベーターへ向かう。
「え? え? なにシンタロー、まさか階段でここまで上がってきたりしてないよね?」
「階段でここまで上がってきたりしてますが? ええ」
軽口を叩きながらエレベーター口に到着。すぐそばに必死こいて昇り下りした階段もあった。こんなに近くにあったエレベーターに気付かなかったのか、僕は。
「ちなみに、エレベーターに乗ったのはウソだよっ」
「……だと思ったよ」
「そこまで冷静でもいられなかったよ。いくら成績優秀な私といえどっ」
時刻は午後一時前。待っていたエレベーターにはすでにたくさんの学生たちがぎゅうぎゅう詰めになっていた。
「あー……先輩たち、上でいっぱいご飯食べてたからね」
「見送ろうか」
ぎゅうぎゅうの学生になんとなく会釈をしてから、日乃実ちゃんを先頭にしてえっちらおっちら階段を下りていく。
混み具合に観念してか、最上階から階段を下りる学生もちらほら見受けられた。在学生でもあの混雑には参っているようだ。
「ありがとっ。シンタロー」
「まさか……結局、僕は座ってただけだったね」
「違うよっ。いつも私が作ったもの美味しそうに食べてくれてって意味」
歩行中の何気ない会話にしてはずいぶんと改まった内容が、前を向いたまま投げ込まれる。
「当たり前だよ。美味しいんだしさ」
「私も当たり前だと思ってたけどー、そうじゃなかったよっ」
実際に捨てられて気づいたんだと、日乃実ちゃんは言いたいのだ。
また空元気を発揮した、というわけではなかった。背中越しでは表情はうかがえない。
が、発した声に彼女ならではの瑞々しさがたしかに戻って来ている。
「でもなぁ~、全部食べるわけにはいかないのもわかるけど、作るたびに残されたり捨てられたりしたんじゃ、私ゃたまんないよぅシンタロー」
「そういえば、そこらへんの事情を日乃実ちゃんは知ってたんだね」
「まーハナシとしてはわかってたんだけどね、料理業界そーいうものだって。私もいつかは捨てられたりする日が来るのかなーって。覚悟はしてたんだよ、いちおう」
ネットの記事でも読んだのか、日乃実ちゃんは捨てられる料理の実態について僕に教わるまでもなく自分なりに調べていた。
志に真摯な日乃実ちゃんのことだから、それくらいの事前準備をしていてもおかしくはない。
僕の予想を上回ったのは、わかった上で一度は覚悟を決めていたという事実。
きっと僕が何を言っても、彼女は今日、ここへ足を運んだだろう。伝える伝えないですったもんだしていたのは一体何だったのか。また一つ取り越し苦労に気づく。
「シンタローこそ知ってたんだっ。さっきのクイズの答え」
「昨日の取材で知ったばかりだけどね」
「もしかして現役調理師に取材とか行ったのっ!?」
「元料理人で現役養護教諭の方だよ。なんで辞職したのか、とか、職業変わってからどうですか、などなど」
ふんふんなるほど、と前を行く彼女は思案気に腕組みしてるようだ。
「……やめちゃった原因って、やっぱり料理捨てられたりとか?」
「いや、調理場での立ちっぱなし仕事が堪えたんだってさ」
「この流れでそうなる!?」
「ところが切実な問題でさ、男性が多い職場で同等の作業量を女性がするとなれば……これがキツイのだ」
何かが琴線に触れたのか、これまで背を向けて話していた日乃実ちゃんがはじめてこちらを振り向く。
「女の人だったんだ……私と同じ」
「うん。ついでに言うと、料理を捨てられるのがキツイのはもちろんなんだけど」
取材に応じてくれた、今でこそ養護教諭のその人が、料理人時代を思い返してどうしようもなく憂いた表情を浮かべていたのを思い出す。
「自分が捨てる側になるのもつらかったってさ」
言葉にしたとき、僕が調理実習室を飛び出す直前に目にしたものが脳裏をよぎった。
それは目だ。実習中は常にサングラスの奥に隠れた徳枝さんの目。
日乃実ちゃんに突き飛ばされてサングラスがずり落ち、露わになったあの両目には本当に涙が溜まっていたのではないか。
「そう、なんだ……なるほど」
彼女の控えめな相槌を耳にしたところで、僕らは調理師科が持つ四階へと到着した。
調理実習室にたどり着いたとき、既に実習は終わっていた。他の体験生は全員別室に移動したらしく、残っていた在校生のスタッフや講師陣が午後の実習の準備に取り掛かっている。
とりあえず人影の中に徳枝さんを探した。あんなことがあった後だが、話くらいはしておくべきだろう。一言目に謝るべきか、はたまた冷静に講評の続きを聞くべきなのかはわからないが。
スキンヘッドで大柄な男。その特徴的なシルエットが、どうしてか見当たらなかった。
「あら、お二人ともおかえりなさいませ。アキちゃんからちょっとだけ聞いたわよ~、大変だったんですってねぇ~」
「あ、ミツコセンセ。こんにちはっ」
世間話をする近所のおば様みたいに僕らに声をかけるのは、あとから実習室に入ってきたミツコ先生だった。
講師陣が男性ばかりなせいか、同じような調理服をまとっていてもミツコ先生だけはやはり給食の調理員さんに見える。
「日乃実ちゃん、何があったの? ワタクシ本当にちょっとしか事情を知らないのですけれど、なにやら突然抜け出しちゃったんですって?」
「うっ、それはその……かくかくしかじかっ」
「どうもすみません。それはそうと、徳枝さんはどちらに?」
おそらくはどこかで午後の実習の準備中だろうが、見たところ実習室に姿はない。
「アキちゃんでしたら、そろそろ学校を出るころかと存じますわねぇ。午後からは現場研修ですのよ、あの子」
「じゃあ、徳枝先輩いないんだ……」
察するに、徳枝さんの下の名前がアキなのだろう。ふむ、風貌に似合わず中性的な名前で……っていやいや、余計なことを考えてしまった。
となりに立つ日乃実ちゃんから、肩の力が抜けていくのを感じる。
気まずさが解けたからか、あるいは会えないことへの落胆なのか、顔を合わさずに済む安堵なのかはわからない。
「プロが開くお店で見習いやってるのよあの子、すごいでしょう? あ、それからねぇ、アキちゃんから預かりものをしているんでしたわ、ワタクシ」
「預かるって、何をっ?」
「ただいまお持ちしますわ、少々お待ちあそばせ」
言い残して、ミツコ先生は実習室の裏手へと向かう。預かりものとやらを取りに向かったのだろうか。
ワカランという顔をする日乃実ちゃんと同じく、僕にも話が見えてなかったが、幸いミツコ先生はすぐに裏手から戻ってきた。その手で、三つのタッパーを運んで。
徳枝さんからの預かりものとは、どうやらそのタッパーの中にあるらしい。
そして、目の前に運ばれてきたタッパーの数はちょうど三つ。タッパーに透ける中身の正体に心当たりがあった。
「ミツコ先生、それって日乃実ちゃんが作った……」
「ええ、ええ。ワタクシもそう伺ってますわ。食べる前に出て行ってしまったから、お二人に必ず渡してくれって仰せつかりましたのよ~」
タッパーのうちの一つを、ミツコ先生は確認するように開けて見せる。すると、少し焦げ目の大きいきのこソースハンバーグが顔を出す。
日乃実ちゃんが作ったものに思えなくもないが、違和感もある」
「っ、で、でも! それって捨てられちゃったやつで、その……」
そうだ。言葉にするのも憚られるが、ハンバーグはたしかに生ゴミと一緒のところへ放られてしまったのだ。僕も日乃実ちゃんも、たしかにその場面を見ていた。
このハンバーグは綺麗すぎる。鼻を近づけても、不快なニオイ一つ感じられなかった。
「捨てるなんてとんでもないですわ~。優しい子ですもの、アキちゃんは」
「ミツコセンセ、でも私、さっき……」
「まあ、まあ。落ち着いて聞いてくださいまし。きっとこういうことですわ」
捨てられた、と聞いてもミツコ先生は特にうろたえずタッパーを閉じる。閉じたタッパーは三つ重ねて日乃実ちゃんに手渡された。
「ワタクシたちは教える立場の人間として、ときには心を鬼にしなければならないですわ」
昨日の取材でも似た話を聞いた。鬼になった結果、料理を捨てなければならないことが忍びなかったと、養護教諭は言っていた。
「ですから日乃実ちゃんにも教えて上げなきゃならなかったんですのよ、焦がしたらお客さんに捨てられてしまいますぞ~、とね」
「そうだよね。だからやっぱ――――」
「でも、ワタクシどもはお客さんではないですから、本当に捨ててしまう必要はございませんので。いわば、演出ですわね」
「演出、ですか……?」
どういうことだろう。なんだか話が意外な方向に向かっている気がする。
「例えばですけれど、アキちゃんは体験生一人ひとりに、清潔な状態のゴミ箱をコッソリ用意していまして。いざとなればそちらへ捨てる。そうすれば料理はキレイなまま、しかも教示に支障をきたしませんわ」
それならタッパーの料理がエグくないのも納得がいく。が、わざわざそんな回りくどいことが――――。
「ミツコちゃーん、いま大丈夫すか?」
「ミツコ先生、ですわ。どういたしました?」
「いやー実は備品がちょこちょこ足らないんすよ。ゴミ箱に使うプラの箱とか。あと、別になくてもいいんすけど、タッパーとか。他の教室に分けなきゃなんないのにっすよ?」
「ま、それはそれは。アナタが無くしてしまったのではなくて?」
「そんなー、オレは違いますって! 誰かが勝手に持ってっちゃったんすよ……多分」
――――あった。そんな回りくどいことが。
あとでいきますわ、とミツコ先生がその場を収めると在校生スタッフは作業に戻っていった。
「そういうわけで、ワタクシとしてもお渡し出来て安心しましたわ。お二人とアキちゃんと入れ違いなのが、心残りではございますけれど」
「良かったな日乃実ちゃん。この料理たちは無事で……ってうおぁっ!?」
「シンタロー! これ、お願いっ!」
タッパー三つがどっと胸に押し付けられる。慌てて受け止めたとき、日乃実ちゃんはすでに調理室を飛び出していた。
「おいおい、今度はどこへ行くんだ!?」
「謝らないと!」
一度目と違い、廊下の先で立ち止まって答える。
「私、いっぱいいっぱいっ、とっきー先輩にあやまらないとっ!!」
もう、徳枝先輩とは呼ばなかった。
彼女は叫んだきり、振り返りもせず猛スピードで階段を駆け下りて行った。
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