実存について(キルケゴールからハンナ・アーレント、サルトル、カミュなど)
今まで、実存、実存、って当たり前のように言ってきて、実存を簡単なように使ってきたのですか、そもそも、哲学科で実存哲学をやるか、習わない限り、もしくは独学で得ようとしない限り、実存という言葉を使うことはそう無いと思い至りました。
ざっくり書きます。
実存、その意味は、哲学者によって異なります。
……えって感じですよね。私も最初は、一つの言葉に一つの意味が正確なのでは、と思っていました。しかし、実存という言葉は、近代哲学史により変遷を辿ってきた言葉なのです。
じゃあ、最初に実存という言葉を使い始めた人間は誰でしょう。
それが、デンマークの哲学者、セーレン・キルケゴールです。
最初に使いだした、ということで、僕もキルケゴールが唱える実存こそが、真を捉えていると考えています。
次に的を得ているのはフランスの作家、カミュだと思います。カミュはコロナ禍の中、『ペスト』で注目が集まった作家さんですね。残念ながら、僕がカミュの『異邦人』しか読んでいないので、その作品以外で評価することはできませんが、『異邦人』は、ジョン・ポール・サルトルの『嘔吐』よりも確実に、そしてより正確に実存について捉えていると考えています。
では、実存とは何か。それぞれの哲学者の実存をざっくりとまとめてみたいと思います。
キルケゴールの実存:主体性とは真実である
サルトルの実存:まだ価値の定まっていないない人間
カミュの実存:概念上ではない、そのままのもの
アーレントの実存:人間
キルケゴールの実存に、傍点を振ったのは『哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき』という、キルケゴールの著作に、そのまま傍点が打ってあり、それこそが本当に矛盾のない真実だと、私も共感したからです。
簡単に言えば、自分がいる、見ている、認識している、それは真実だよねってことです。
デカルトのコギトと同じではないか、という批判もあるかもしれませんが、デカルトのコギトは邦訳として「我思う、故に我有り」だったり「私は考える、そして私は有る」と考えることが、自己の存在証明になっている、と訴えています。しかし、これはかっこつけすぎだと思います。
実際に、なんにも考えていなくても、私は存在します。私はいます。理性的な人だけが人間である、という風に捉えることができそうで、理性主義に陥る可能性もあります。
なあんにも考えなくても、自我は存在するのです。
それだけが真実です。
それだけに、キルケゴールの「主体性とは真実である」とは、まさに名言だと思います。他人? いるかわからないよ。自分はいる。確かに、それだけは確実。
サルトルに移りますか。
サルトルの名言で「実存は本質に先立つ」ってのがありますね。簡単に言うと、人間にはそもそも価値はない。行動して初めてその人が何者であるかの価値が付けられる、ということです。
サルトル研究者のドナルド・D・パルマーの本『サルトル』から、サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉をうまくかみ砕いた例が載っています。
例えば、山の中腹に巨大な岩が道をふさいでいた、と仮定しましょう。
Aさんは、その岩を観察し始めました。その人は『研究者』という本質を得ることになりました。
Bさんは、その岩を丁寧に模写を始めました。その人は『芸術家』という本質を得ることになりました。
Cさんは、その岩の大きさから、山に登るのを諦めました。その人は『敗北者』という本質を得ました。
Dさんは、その岩をよじ登ろうと、果敢に岩に立ち向かいました。その人は『勇者』という本質を得ました。
大事なのは、ここで例に出した4人とも、岩に遭遇する前は、何の本質も持っていない、ただの人だったということです。サルトルはこの状態の人たちのことを実存と呼んだのです。
なんの価値もないもの、人のことを実存と呼んだサルトルです。ドイツ留学中に現象学に触れ、そのような価値観を持つようになったそうです。
ハンナ・アーレントに移ります。
ハンナ・アーレントはアーレント著『政治思想集成1』を読んでください。そこに、実存主義の変遷と、己の実存主義について書かれています。
アーレントの実存は、人間です。深いことは覚えていませんが、キルケゴールの実存を他人も人間であると拡大解釈したものになっています。私も実存、あなたも実存。よって実存=人間、の立式が成立します。
アーレントの実存の特徴は独我論から離れていることです。ここがキルケゴールの実存の全く異なる実存の提言です。
最後に、アルベール・カミュで締めようと思います。彼の小説では、文字という概念にとらわれることのない、そのままの人間生活が書かれています。
言葉にしたら、現実を集約してしまいます。実際の現実は、言葉という情報だけでは、決して語りつくすことのできない、生々しい困難が待ち構えています。
例えば、暑さ。うだるように暑いときは、人は暑いこと以外考えられず、「暑い」とだけ思います。
そこで、小説内の場面ですが、裁判にかけられた主人公は、法廷の中で証言しようとします。その際に描写されているのは、法廷内の暑さ、そして法律という言葉の概念を仕事とする裁判官が、扇子を持ってパタパタとあおいでいる姿。主人公は「太陽のせいで殺人を犯した」と証言します。暑さで頭が冷静ではなかった、という意味で証言をしました。それを聞いた聴衆達は一斉に笑い出し、「やはり殺人に手を染めるような、頭のおかしいやつだ」と思い始めます。そしてその時もまた、聴衆達は太陽からの熱による暑さに耐えきれず、扇子であおいで聞いているのです。
偉いも何もなく、ただ同じ人間として、カミュは登場人物たちを描きます。そのような点から、カミュの実存とは、概念上には存在しない、そのままのものとして、人間を事細かに分析するのです。
……いかがだったでしょうか。
実存にはたくさんの種類がありますが、実存哲学の出発点はセーレン・キルケゴールに始まります。現実の中で真であること、現実の中では、注意深く観察すると偽であること、真とは認められないこと、すなわち僅かでも疑いようのあるもの。それを見つめていくのが実存哲学の一歩目です。この世の常識にとらわれず、「このことは本当に真なのか、それとも偽である可能性があるものなのか?」という問いを持って生きていければ、人生の当たり前の風景も、少しは変わって見えるのかもしれません。
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