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四次元論争は、小中でやりましたね……。僕はなんか、ウラというもの、なんかポケモンダイパの「やぶれたせかい」のような平行世界を想定していましたが、それでは今なんか量の変化ができないと悟ったので、ちょっとこどもの頃からの意地で明度(つまり存在の濃淡数値)に四次元をあてたいと思います。
それはおいといて、結構まえの「ペーパーマリオ」で、二次元空間を別の二次元空間に切り替えるという技がちょうどそのうさぎと檻の論理にも関係あることだと思っています。x-z空間から、y-z空間に切り替えれば、壁も怖くない、というようなやつです。これに関してはプレイ画像見た方がわかりやすそうです。
「スーパーペーパーマリオ」の次元ワザというものらしいです。
作者からの返信
ペーパーマリオはまさしく、名前から『二次元』に重きを置いた作品ですよね。それを座標軸を変えてダンジョンを突破していく動画は見たことがあります。
私は大学の哲学科で学んで、ほとんど古典の本から学びましたが、哲学概念はまだまだたくさんあったかのように思います。大学時代は実存哲学にはまりにはまってしまいましたが、他の哲学的概念ももっと調べておけばよかったな、と思っています。次元の話も、Newtonに紹介されていたのを自分流にアレンジしただけなのですよね。Newton+実存哲学、みたいな形です。日本は学科が一つしか選べないので、数学とかガチでやってみたかったのですが、政治哲学や第二外国語にすごく時間を取られました。もっと気ままに勉強したかったですね。
実存的独我論は、小6のときに確か自分で思いついて、かなり長いことアイデンティティになっていましたね……。あれを見ているので、人間そのものの感覚を全て支配するゲームの一種VRMMO(でしたっけ)の存在は、その真理を公衆に露見させるものだから許されない、とか口には出しませんでしたが、思ってました。バークリーの考えに近いんですかね? また、知覚する感覚も神が予め調和するように作り出している、とか。ちょっと懐かしくなりました。
企画主より。
作者からの返信
実存概念はいいのですが、独我論はとても危険な思想なので、あまり人には言わないようにしています。殺人の動機で「この世は自分しかいない、他は全て人間ではないんや!」みたいになったら、本当に手に負えなくなります。
信じちゃダメな抽象的概念が独我論ですね。こういう考えもあるんだ、くらいがちょうどいいですね。
飛んでる矢は止まっている、という名前のパラドックスを思い出しました!
作者からの返信
そのパラドックスは知らないですね……。力学ですかね。僕はガチ文系なのでわかりませんが、おそらくは力学の微分についての説明なのかな、と思いました。
時間は人間が作り出した概念でしょうね。
この世に人間がひとりもいないとしたら、
カレンダーに意味なんかありません。
次元の概念で言うと、
人間は列車の乗客に例えられます。
列車の席から一定に流れていく風景。
これが時間です。
通常人間は生きている間は列車から降りる事は出来ず、
ただ流れていく景色を見ているだけ。
4次元の世界に行くと、
この列車から降りて、自分の車や足で動く事が出来ます。
列車が既に通り過ぎた過去の世界にも行けるし、
これから列車が向う先、未来にも行けるのだそうです。
列車が走っていない所にも行けます。
死後、人はこの様な世界に行くのかもですね。
作者からの返信
神秘的な次元の解釈の方法ですね。
死んだ後に4次元、時間に縛られず行動できるとすれば、今まで亡くなっていった全ての人が、自由に行き来している姿を考えると、天国のように思えてきます。
次元を列車に例えているのを初めて触れました。コメントありがとうございます。新しい発見をまた深めることができるようになったかと思います。
実存について(キルケゴールからハンナ・アーレント、サルトル、カミュなど)への応援コメント
すみません、元高校生ですが、不躾な疑問を申し上げてよろしいでしょうか?
教科書と図説しか読んでませんが、キルケゴールの実存の定義って、本質に先立ってなかったんじゃないでしょうか……。
なぜか、実存は本質に先立っているが、あまりにそれがもろい、もしくは幻想であるので、悩める人間は実存をもとめ、「あれもこれも」手を出し、間に何か挟んで、「神の光によって実存が保証される」のではなかったんでしたっけ?
サルトルがようやくその実存は本質に先立つことをはっきりと言ったのでは……
人間を除く生物の実存とは何なのかふっと気になりました。
サルトルの例えはとても分かりやすいものでした。また、カミュのことは聞いたことがなかったので、面白かったです。
作者からの返信
すいません。キルケゴールについても、全ての著作を読んだわけでもなく、キルケゴール全集をパラパラと読んでいくうちに『哲学的概念とその結びとしての非学問的あとがき』という、正直マイナーな著作の中に、主体性とは真実である、という言葉を見つけただけです。有名な「死に至る病」や「あれもこれも」などは、逆に読んでなくて、本当にすみません。
自分の研究テーマを決める際に「実存哲学にしよう!」と思い立って、『実存』という言葉が出てくる古典を探す旅をしていて、自分勝手な解釈になっている可能性が高いです。人物ではなく概念を研究しようとしたために、近代哲学者の書物の中のいいとこ取りをしているに過ぎないと思います。
だいたい、大学で哲学科に行ったとしても、ほとんどの人は『人物の主張』をテーマにします。キルケゴールだけを見るならば、彼が敬虔なクリスチャンであったことから、キリスト教の概念は確実に入れておかなければなりません。
ひとえに、私の研究不足というか怠慢がキルケゴールが本当に言いたかったことをはっきりと言えない原因でもあります。キルケゴールの実存を語るうえで、キリスト教の神の扱いが必要なことは確実にあると思います。
正直、私の怠慢です。