7.気持ちの音
相合傘なんて、いつ振りだろうか?
小学生の頃に、傘を持ってなくて友達(もちろん男子)と何度かしたことはあるのだが、ここ最近では全く記憶がない。
まして、年上とは言え、女の子とそう言うシチュエーションになったことなど、一度も経験したことなど言わずもがな。
そしてこれからの未来も、訪れないだろうとは思っていたのだが……まさか今ここで、実現されてしまうとは、
「……わたしね、お父さんが居なかったの」
「え?」
ただ、そう言う緊張を陽太が抱いていたのは、始めの時だけで。
訊いたわけでもないのに、
――曰く。
小森好恵は、物心付いたときには既に、母子家庭だったのだそうだ。
彼女の母はとても優しい人で、ただ、やはり女手一人で娘を育てるとなれば、娘といつも一緒に居られるというわけでもなく。
「……その頃のお母さんは、いつも夜遅くまで働いていたから……私はいつも一人で、家でお留守番してて」
そして、いつも通りに、家で留守番していた幼少の頃。
初めて聴いた雷の音を、彼女は今でも覚えている。
「……近くで落ちたみたいだったから。とても、大きな音だった。……一昨日のなんて、比べられないくらいに」
そう言う小森先輩の横顔は、少し青ざめていた。
陽太は、傘を持ったまま、黙って聞くことしかできない。
「……テレビとかでも、雷はすごい怖いことだって見聞きしてたし……その音が、とても怖くて……怖くても、お母さんが傍に居なくて。それが心細くて……それに、もし、お母さんがその雷で本当の意味で居なくなっちゃったかも知れないと思うと、また怖くなって……」
「先輩」
「……だから、その日は……お母さんが帰ってくるまで、ずっと、ずっと泣いてたの」
それ以来、小森先輩は、雷が落ちる度にどうしても身動きができなくなってしまったという。
……一般的に見れば、本当に些細なことなのだろうけど。
彼女にとっては、おそらく一生まとわりつくトラウマなのかも知れない。
「ごめん、先輩」
「……? どうして、謝るの?」
「そんな先輩にとって大事なこと、昨日、軽はずみに訊こうとして。それで先輩傷つけちゃったから、オレ……」
それを聞いて、小森先輩は少しだけこちらのことを見て、それからまた視線を逸らす。
「……傷ついても、怒っても、ないよ?」
「え……そ、そうなんスか?」
さっきもこんなやりとりしたような、と陽太は思いつつ、小森先輩の横顔を見ると。
何故か、彼女は俯いたまま、少し……いや、徐々に大きく、顔を赤くしていた。
「……わたしは、クラスの委員長だから」
「へ?」
「……そんな、委員長が……雷が苦手ってみんなに知られるのが……なんだか恥ずかしくて……しかも、恥ずかしさで泣いちゃうなんて、自分でも思ってなくて……それに、とっさにあなたの口を塞ごうと思ったら、あなたを叩くみたいになっちゃって、とても申し訳なくて……」
「――――」
もはや顔色が真っ赤にまで達している彼女の目に、昨日と同じく涙が浮かんでいるのを見て。
こんな時だというのに、陽太は彼女のことを『可愛い……』などと不謹慎なことを思い、それから後にどうやら自分は勘違いをしていたらしいことを悟る。
彼女は別に、怒っていたわけでも、傷ついたわけでもなく。
すべてはそう言う体質だったし、あの平手打ちも、単なる事故みたいなものだった、と。
「あー……」
悲しい思いをさせたかも知れないとか。
昨日から今の今まで抱いていた後悔だとか。
女の子に泣かれた時にどうすればいいかのを、クラスメートに訊いたりとか。
そういう思考がほとんど空回りだったのに、陽太は何とも言えない気持ちになった。
「お?」
と、そこで。
雨音の向こう――結構遠くで、雨とは違う音が陽太の耳に聴こえたような気がした。
その音が何であるかを、理解する前に、
「――ひ……ん……っ」
小森先輩が、その場で耳を塞いでしゃがみ込んでしまう。
どうやら――どこか遠くで、雷が落ちているらしいのを、陽太はそれで気付いた。
「先輩っ」
慌てて立ち止まって、小森先輩が雨に濡れないように傘を向ける。
自分自身が濡れてしまっても、構わない。
彼女が今泣いていなくても、傍に居てあげたいという気持ちが、陽太の中で強く強く働いていた。
「……あ……ご、ごめん……ごめんね?」
一、二分ほどで、彼女は恐慌状態を脱したようだった。
「先輩、立てますか?」
傘を持っていない方の手を差し出すと、小森先輩は弱々しくその手を握る。
思っていた以上に小さく、か細く、柔らかな手。
「……頑張って、みる……んっ」
また遠くで音が響く。
小森先輩、またも顔を強ばらせるものの、今度は耐えたようだ。
その代わり、握っていた陽太の手に、結構な力がかかった。
わりと痛い。
でも、何てことはない。
「大丈夫か?」
「……な、なんとか……ごめん、手、握ってて……」
「お……おう」
「……行こ」
そしてそのまま、一歩一歩と歩みを進める流れになる。
女の子と手を繋いで帰る、という状況に少々気後れしそうになる陽太なのだが、
「……っ……」
また遠くで音が響くと共に、伝わってくる手の痛みは。
今、平坂陽太という人物を、小森好恵が頼っているという事実であり。
一昨日の彼女が唯一放った言葉が、陽太の中で確信に変わる。
――行かないで、と。
あの時、小森好恵はそう言ったのだ。
「大丈夫」
「…………」
「オレはここに居る。何処にも、行かないから」
「……うん」
だったら、今度はしっかりと応えないと。
誰かに優しくするとか、そういう男らしさへの拘りではなく。
ただただ、彼女の支えになろう、と言う一心で。
その手を放さないように、前へ。前へ。
本来なら徒歩十分くらいの距離を約三十分かけて歩いて、陽太と小森先輩は東緒頭校の最寄り駅に到着した。
聞いた話、彼女は電車通学であり、三駅ほど離れた地区に住んでいるとのことだった。
「……ここまで来たら、もう大丈夫」
言って、小森先輩は、握っていた手を放す。
その手の感触の残滓に、陽太はいい知れない寂しさを感じた。
「な、なあ」
「……?」
「家に帰ったら、その、先輩、一人でも大丈夫なんスか? また、子供の時みたいに――」
「……大丈夫」
陽太が何を言いたいのかわかったのか、ふるふる、と小森先輩は小さく首を振って、
「……お母さん。三年前に再婚して、今は仕事も辞めて傍に居てくれてるから。お義父さんも、とてもいい人だし」
「あ、そ、そっスか」
つまるところ、今は、家庭円満でやっているらしい。
また少し空回りしてしまった気分ではあるが、小森先輩が大丈夫なのであれば、と陽太はひとまず安心する。
「だったら、先輩、これっ」
「……?」
でも、このまま見送ることも、出来なくて。
陽太は、自分の携帯電話を取り出して手早く操作し、番号とメールアドレスを画面に表示させて、彼女に見せた。
「本当に、どうしようもなくなったらオレを呼んでくれっ」
「…………」
「先輩が泣きそうな時でも、悲しい時でも……どんな時でも、先輩が必要と思ってくれたなら、絶対に、先輩の元にかっ飛んでくからっ」
「……え」
そう言われて、小森先輩、少々固まっていた。
……あれ? オレ、そんなにまずいことを言ったっけ?
と、陽太は思ったのだが。
よくよく、自分の言ったことを思い返してみると。
――なんか、これ、愛の告白みたいじゃねェ……!?
それに気付いた途端、陽太は自分で顔を赤くして、溢れてくる恥ずかしさで頭の中が沸騰していく心地になったのだが。
「……そういえば」
一方の小森先輩、何かに気付いたようで。
「……あなたの名前、聞いてなかった」
「あっ! ……あー」
そう言えば、名乗っていなかった。固まっていた理由はこれか。
この空回り、今日で通算何度目であろうか?
というか、名前も知らない相手に自分の身の上を話したのか、この人は。わりと衝撃の事実だ。
少々無防備すぎないだろうか……と思いつつ、タイミングが掴めなかったにしても、名乗らなかった自分にも問題があるかもしれない。
そんな風に自虐すると、頭の熱が何とか治まってくれて、陽太は妙な安堵を感じた。
「平坂、陽太。一年六組ッス」
「……うん」
小森先輩も己の携帯電話を取り出して、陽太の番号とメールアドレスをポチポチと連絡帳に静かに入力していく。
両手押しで、ノロノロした動作である辺り、操作に慣れていないのかもしれない。
本当に、いろいろ危なっかしい人だな……でも、実は案外大丈夫で、それでオレ、今日は何度も空回りしてるんだよなー……と、陽太が自分への情けなさで少し唸っていたところ、
「……今日は、ありがと」
「え?」
「……いろいろ、嬉しかった」
そう言われて、陽太は彼女の携帯を操作している手元から、ふと視線を上にあげると。
小森先輩が、柔らかに笑っていた。
「――――」
不意打ち、と言ってもいいかもしれない。
もう一度。
陽太の中で、ごとりと音が鳴った。
一度目の時より、とても、とっても大きな音だった。
「……じゃあ。ばいばい、陽太くん。また、連絡するね」
「………………ばい、ばい」
笑顔のままそのように言い残し、小森先輩は駅の改札を潜っていく。
やがて彼女の姿が見えなくなっても、陽太は、彼女の番号とメールアドレスが映った携帯電話を手にしたまま、その場を動けずにいた。
ずっと、ずっと動けずにいた。
さっきは自分の中で懐疑的だったけど。
今度ばかりは、認めなければいけない。
平坂陽太、十五歳。
人生で初めて、恋をした。
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