6.迷いとの勝負



 午前中まで保っていた天気が、午後になった途端に崩れた。

 大粒の雨が、地を、建物を、屋根を勢いよく打つ音を感じながら――平坂ひらさか陽太ようたは、教室の窓から曇り空を見ていた。

 思い起こすのは、一昨日の、あの場面。

 突然に落ちた雷に、うずくまって、小さく震える小森好恵の姿。

 そして――


「平坂」


 と、物思いに耽るのを断ち切るかのように、今日の六時間目の授業を担当する先生に名を呼ばれる。


「この問題、答えて見ろ」

「わかんないッス」

「ちょっとは考えろっ!」


 まるで内容を聞いてなかったので、ここは男らしく率直にいこうと思って答えたら、怒られてしまった。

 その上、廊下に立たされる羽目になった。

 逆に男らしくなくて、少し自分が情けなくなったのだが、廊下に立って窓の外の雨を見ているうちに、


「……よし」


 陽太の中で、腹が決まってきた。



「ん? おーう、平坂。何か用か?」

 放課後、終わりのHRが終わってすぐに、陽太が二年三組の教室に行くと。

 その教室の中から、桐生きりゅう信康のぶやす先輩が声をかけてきた。

 この時間だというのに、何故かもっしゃもっしゃとドッジボールみたいな大きさのおにぎりを食べていたのが気になったのだが、陽太はそれを何とか視線から外して、


「桐生先輩。小森先輩が何処に居るか、知ってますか?」

「んー? さっき教室を出てったばっかだぞ。もう帰ったんじゃないかな」

「そっか。ありがとうございます」


 出て行ったばかりならば、大急ぎで行けば、昇降口もしくは正門で会えるかも知れない。

 そんな思いで、陽太が踵を返そうとしたところ、


「――なあ、平坂」


 桐生先輩が、陽太を呼び止めてきた。

 陽太としては先を急ぎたかったのだが……なんとなく、呼び止めるその声に、無視できない響きを感じた。


「昨日、あいつにすんごい拒絶されてたっぽいけど、そんでも会いに行くつもりなん?」

「……そのつもりッス」

「あいつに、本気で嫌がられてても?」

「本気で嫌がられてるってわかったなら、もう、会いに行かないッス。でも……小森先輩は、あの時――」


 授業中に、陽太は思い出していた。

 昨日に平手を飛ばされた時ではなく――初めて会った時、唯一、彼女が陽太に放った言葉がある。

 本当にそう言ったのかは、確信は持てていない。

 でも。

 本当だったのであれば、やはり彼女を放っておけない。

 だから、確かめたいし。

 何より、彼女の力になりたい。

 出来るか出来ないかについては、考えない。

 これは、言わば。



 ――自分の中にある迷いとの、勝負だ。



「ん、わかった」


 その思いを感じたのかそうでもないのかはわからないが。

 桐生先輩は、ただただ力強く頷いて、


「呼び止めて悪かったな。――頑張れよ」

「……はいっ!」


 そういう風に送り出してくれたことで、なんだかとても、勇気がもらえたような気がする。

 上手くいってもいかなくても、後日、桐生先輩にはきちんとお礼を言いに行こうと、陽太は心の中で固く誓った。



 少しだけ時間をロスしたので、大急ぎで、陽太は昇降口に向かったものの。


「……あ」


 案外あっさり、小森こもり好恵このえは見つかった。

 下履きに履き替えてはいたものの、昇降口の隅で立ち尽くして、ボーッと外で降る雨を眺めている。

 その姿を見て、なんで出口を出ないのだろうかと陽太は思ったのだが……彼女の手元に通学鞄しかないのを見て、察しが付いた。

 傘を持っていないのだ。


「…………」


 一瞬、声をかけようか否かを躊躇した。決意をしていても、直前で出てくる鈍りみたいなものだ。

 だが――いつも誰かに勝負を挑んでいる時と同じ要領で、陽太は足を前に踏み出していく。


「小森先輩」

「……?」


 呼びかけに、彼女はこちらを向いて、


「――――ぁ」


 その半眼を見開いて、顔に緊張の色を覗かせた。……奇しくも、昨日、最初に会ったときと同じ反応だ。

 ただ、昨日の最後のように、泣いて走り去るという様子はなく、また、視線は逸れているがこちらを拒む様子も見られない。


「えっと……」


 言いたいことはいっぱいあるのに、最初に何を言えばいいかが、ぱっと出てこない。

 考えるな。

 とにかく動け。

 一番に、まず自分のするべきことは――


「先輩、昨日は――」

「……昨日は、ごめんなさい」

「ごめ……え?」


 昨日のことを、陽太が謝ろうとした矢先。

 彼女の方から謝ってきた。しかも、深々と頭を下げて。

 それだけでも陽太は驚いたのだが……小森先輩が頭を上げた時の、小さな子供のようにしゅんとなっている顔を見ると、ますます混乱した。


「……昨日、思わずあなたのこと、叩いちゃって……わけがわからなかったよね」


 でも。

 小森先輩がそのように、途切れ途切れに言ったとき、いろいろなことが腑に落ちた。


「あ……いや、いいんスよ。多分オレ、小森先輩の触れちゃいけないこと言っちゃったと思うし。そんで、謝らなきゃって思ってたし」

「……そう、なの?」

「そうだって。あの時、あんなに怖がってて……しかも、そのことを言って、先輩にあんな風に泣かれてさ」

「…………」

「先輩のこと傷つけたって思うと、オレ、なんか耐えられなくって……って、あれ? 先輩?」


 陽太がたどたどしく言葉を並べているうちに、小森先輩、へなへなとした様子で座り込んでしまった。

 一瞬、陽太は一昨日のことを想起したのだが……雷がどこかで落ちたとかそういう現象が今はない。あの時とは異なり、単に全身の力が抜けて言っているようだった。


「ど、どうしたんスか、先輩?」


 何事かと思い、陽太はへたり込む小森先輩を窺い見るのだが、


「……った」

「え?」

「……よかった。あなたのこと、傷つけてなくて」

「――――」

「昨日から、ずっと謝りたかったんだけど、クラスとかわからなかったし……それに、なかなか踏ん切りが、付かなくて……」


 彼女は、安堵していた。

 生徒手帳を渡したときの小さな安堵ではなく、心からの安堵だ。

 それ以上に――心なしか、笑ってるようにも見える。


「う……え?」


 その笑顔が。

 ――陽太の心の奥で、ゴトリとした音を鳴らせた。

 熱い、ただただ熱い、こみ上げる何か。

 この何かを、いったい何と表していいのかが、陽太にはわからない。

 しかし――このタイミングで。



『その人のこと、好きになっちゃった?』



 今朝のランニング時、クラスメートの七末那雪に言われたことを、強く思い出した。


 好き?

 すき?

 SUKI?


 もしかして、これがそういうことなのだろうか?

 まったくわからなかったのに?

 しかも、年上の先輩に?

 こんなにも唐突で、こんなにも単純でいいのか?

 こんなことで納得していいものなのか?

 いや、だが、しかし……!


「……どうしたの?」


 悶々としている陽太を、小森先輩は座り込んだまま首を傾げて、眠そうな半眼の上目遣いで見てくる。

 その様が、また何とも意識せずにはいられない。


「いや、え、えっと……!」

「……?」

「そ、そういえば先輩は、傘、忘れたんスかァ!?」


 我ながら苦しい話題逸らしだが、小森先輩は思い出したかのようにハッとなって、少々物憂げに表情を沈ませた。


「……折りたたみ傘、いつもは鞄の中に入れてたんだけど……今日、忘れちゃってたみたいで……」

「あ……そ、そっスか」


 本当に傘を持ってなかったようだった。それで、ここで雨が止むのを待つしかなかったということか。

 予報によると、この雨は一昨日と同じく深夜まで続くらしい。

 …………となると、これもこれで、かなり勇気が要るのだが。


「じゃ、じゃあさ」

「……?」

「オレの傘、入ってかないか? 行けるとこまで、お、送るからっ」


 ――今、この時ほど。


 誰かに勝負を挑む際に培った自分の思いきりの良さを、自分で褒めてあげたいと思ったことはなかった。

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