4.涙に惑う


 翌日、昨日の雨が嘘のように晴れ晴れとした昼休み。

 平坂ひらさか陽太ようたは、二年三組の教室へと足を運んでいた。小森こもり好恵このえの生徒手帳を届けるためだ。

 昨日、担任教諭達を追って手帳を届ければよかったと思い至ったのは今日の朝のことなのだが、それも後の祭りである。

 どうせなら直接返しに行こうと、陽太は決めたのだが、


「……む」


 上級生に話しかけると思うと、なんだか緊張してしまう……と言うか、気後れする。

 普段、同級生には怖い物知らずで勝負を挑むというのに。

 だが、ここで物怖じするのも男らしくないので、思い切って足を踏み出してみると、


「あ」


 二年三組の教室の入り口近くの席で三段重箱を広げている、ツンツン頭の老け顔の男子生徒――昨日、生徒会を手伝った際に一緒だった部員が居た。

 確か、桐生きりゅうと言う名字だったはずだ。


「スンマセン、桐生先輩、少しいいスか?」

「ん?」


 顔も知っているし話しやすそうな雰囲気だったしで、そのまま話しかけてみる。

 一方の桐生先輩、食事中であってもそれといって気を害した様子もなく、糸目をこちらに向けてきて、


「おー、おまえは確か、昨日のチョロい後輩」

「? チョロい?」

「ああ、いや、なんでもない。ええと……平坂だったか。なんか用かー?」

「このクラスに小森って人、居ます?」

「小森?」


 珍しそうにその名を呟いたのだが、深くは詮索することはなく、桐生先輩は教室内を見渡す。


「んー、居ないみたいだぞ。そういえばあいつ、昼休みはいつもどっか行ってるなー」

「……そっスか」

「小森に何か用でもあんのか? 伝言あるなら、伝えとくけど」


 雰囲気の通りに、結構優しい先輩だった。

 この人になら、頼れるかも知れない。


「その、昨日、小森……先輩が生徒手帳を落としてたみたいで。それ拾ったんで、届けておいてほしくてさ」

「ほほう、了解了解。お兄さんに任せて……あ、ちょうど帰ってきた」

「え?」


 桐生先輩が向ける視線を追うと……向こうの廊下から、一人の女生徒が歩いてくるのが見えた。

 セミロングのおさげ髪、眠たげな半眼、どこか儚げな全体、間違いない。

 小森好恵だ。

 どうやら昨夜はあれから無事に帰宅して、今日、しっかりと通学できていたようだ。少し安心した。


「えっと……」


 ともあれ。桐生先輩に生徒手帳の返却を任せようとした手前、一瞬、陽太はどうしようか迷ったのだが、


「平坂、こうなったら直接返そうぜ」

「……まあ、そうなるッスよね」


 心中を察したらしい桐生先輩が、そのように言ってきた。

 桐生先輩と違って、小森先輩はなんだか近づき難い雰囲気で、なおかつ年上の異性となると話しかけ辛さに拍車をかけるのだが……ここまで来たなら、しょうがない。

 男ならば、ここで腹を括ろう。

 陽太は一つ深呼吸をして、歩いてくる小森先輩に近づいていく。


「……?」


 小森先輩も気付いたらしい。

 その眠そうな半眼に、陽太の顔を捉えて、


「――――ぁ」


 わずかに、その目を見開いた。どうやら、向こうも昨日のことは覚えているらしい。

 彼女は小さく声を漏らしたようだが、陽太はそれを気にすることもなく、


「えっと、小森、先輩? これ、落としてたみたいだから、届けにきた」


 持っていた生徒手帳を出し出すと。

 小森先輩は再度驚いた様子ながらも、手帳を受け取って、


「……あ、ありがと」


 小さく礼を言った。

 少々安堵したかのように息を吐いて、生徒手帳を胸ポケットに仕舞う。

 その静かな仕草が、なんだか、陽太には目が離せない。それで――なんとなく、昨日の出来事を想起して、


「そういえば先輩」

「……?」

「昨日のことなんだけど、先輩って、雷が――」


 ついつい、それを訊こうとした、瞬間、



 ピシッ、と。



 彼女の平手が、陽太の頬を捉えた。


「お……」


 特に痛いというわけではなく、蚊に刺されるほうがまだダメージがあったかも知れない、そんな弱々しい打撃。

 しかし、陽太には、その平手にとてつもない重みを感じた。


「っ……な、なにを――」


 とはいえ、いきなり叩かれたのには、さすがに何も思わないはずがなく。

 頭に血が昇りそうになるのを内心で抑えながら、陽太は小森先輩を睨もうとするも、


「する……い、いぃっ!?」


 彼女の顔は赤く。


 ――しかもその目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれていた。


 それを見て、陽太の怒りの感情はごっそりと抜け落ちる。

 昨日初めて会ったばかりで、しかも、彼女とはほとんど会話したことがないというのに――その涙は、陽太の胸の奥ににズシンと落ちた。


「――――っ」


 そして、彼女は何を言うこともなく、その場から走り去ってしまう。

 よたよたと足取りは危うく、今にも崩れてしまいそうなその姿が、またも陽太の心を掻き乱す。


「……おまえ、小森に、何かしたん?」

「……………………」


 そのやり取りの一部始終を見ていた桐生先輩が、話しかけてくるのだが。

 陽太は、何も言えずに、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

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