第5話 恋愛方程式の解き方 2



 六時間目が終わり、ショートホームルームで制服検査が行われた。その間も、あたしの頭の中はスズ兄のネクタイの事でいっぱいだ。あー、ネクタイネクタイネクタイネクタイ……。


 今までこれほどまでにネクタイのことを考えた事があっただろうか。十六年間生きてきて、今が最もネクタイに悩まされているに違いない。


 ショートホームルームが終わると同時に、鞄を引っつかんで二年生の教室がある三階へと急いだ。三階の廊下を駆け、スズ兄のクラスの前まで来た時、ちょうど教室の戸が開いて、スズ兄が出てきた。


「スズ兄!」


「お、翡翠、どうしたんだ? こんなところで」


 少し驚いた様子のスズ兄のネクタイを思わずグイッと引き寄せる。あった、ネクタイあった。


「わっ」スズ兄は戸惑いながら、ネクタイが引き寄せられるのに任せて前屈みになる。「なんだよ、いきなり」


「ごめん、ネクタイがある事が嬉しすぎて、つい」


 あたしは慌てて手を離した。戸の前にいると他の人が出られないので、あたしたちはとりあえず廊下の隅に寄った。


「ネクタイぐらい、いつもしてるだろ」


 スズ兄はあたしが引っ張って少し型崩れしたネクタイを直しながら、不思議そうな顔をした。


「そうだよね」


 そうなんだ。スズ兄は星塚高校の生徒会長であり、生徒の鑑なのだ。そんなスズ兄がネクタイをしていないわけが無いじゃないか。ホッと一息ついて顔を上げると、教室から出てくる青木先輩の姿が目に入った。


「あ、青木先輩……って、アレ?」


「どうした?」


 あたしの声に驚いてスズ兄も青木先輩を振り返る。あたしとスズ兄の目に映る青木先輩の首元には、藍色のネクタイが締められていた。


「青木先輩のあのネクタイって……」


「ああ、そういえば、青木はリボンじゃなくてネクタイだよなー。なんでだろ」


「スズ兄知らないの? 彼氏が彼女にネクタイを上げると長続きするっていうジンクス!」


 あたしがスズ兄に視線を戻して言うと、スズ兄は「ああ、そんな話もあったな」と頷いた。さっきあたしがスズ兄のネクタイを確認した事とジンクスの話が、スズ兄の中で繋がってあたしの気持ちがスズ兄にばれたりしないかと少し焦ったが、どうもスズ兄は気がついていないらしい。


「なるほど、それで青木がネクタイをしてるのか」


「誰のネクタイだろう」


「そりゃ、やっぱ忍のなんじゃないか? あいつもネクタイしてないし」


「やっぱり、そうなんだ!」


 以前にも話に出た、室長と青木先輩が付き合っているのではないかというスズ兄の予想はやはり当たっていたようだ。あたしとしては、とても恋人同士には見えない二人ではあるが。


 何も知らない人が見れば美男美女のカップルになるのだろうが、普段の二人を見ていると、完全に主従関係が出来上がっている。人によってはそんなカップルもありなのかもしれないが。


「まあ、あいつら幼馴染みたいだしな。お似合いといえばお似合いか」


「そうだね」と同意してから、「幼馴染」という言葉に反応する。「幼馴染」イコール「お似合いカップル」って、それってあたしとスズ兄にだって当てはまることだよね。なんだか嬉しくなり、すっかり舞い上がってしまったあたしはとんでもない事を口にしていた。


「ねえ、スズ兄! スズ姉のリボンとあたしのリボン交換しない?」


 スズ兄のネクタイを下さいとはさすがに言えず、スズ姉のリボンならどうか、と考えたのだが、言ってからすぐに後悔する。


 こんな話の流れでリボンを交換しようだなんて、なんて事を言ってくれたのだ。怪しい、怪しすぎる。さすがのスズ兄も怪しむに違いない。だって、ネクタイと室長と青木先輩の話をしていたのに、いきなりリボン交換しようって。おかしいよね、おもいきり。しかも、リボンを交換する意味が分からないし。全く同じ学校指定のリボンを交換して何の意味があるのかと、スズ兄に怪しまれても仕方が無い。


「別にいいけど」


「え?」スズ兄の言葉に、あたしは耳を疑った。今、なんて言った? 「え、いいの⁉」


「ただ、今は持ってないから明日でもいいなら、だけどな」


 顔を上げて見つめたスズ兄の顔には何を怪しむでもない、いつも通りの爽やかな笑顔が浮かんでいる。


「全然いいよ! やった! ありがとう、スズ兄!」


 あたしは嬉しくて飛び上がりそうになった。


 自分で提案しておいてなんだが、まさか受け入れられるとは思っていなかった。なんでも言ってみるものだな。


「じゃあ、俺はこれから部活だけど、翡翠も『なんでも』に行くんだろ?」


「あ、うん、買出しに行ってから」


「気をつけてな。また、終わったらそっち行くから」


 スズ兄はあたしの頭を軽くポンッと叩いて、体育館に向かって歩き出す。あたしは「うん! スズ兄も部活頑張ってね」と、スズ兄の後姿を見送った。





 翌日の放課後、買出しを済ませたあたしとスズ兄が「なんでも悩み相談室」に着くと、いつものようにお腹を空かせた室長と、その横でお茶を淹れている青木先輩の姿があった。


「こんにちはー。バナナ買ってきましたよー」


 バナナの入ったエコバッグを室長の目の前に差し出すと、室長は両手で受け取って「ありがとうございマス」と嬉しそうな顔をした。その首元にはやはりネクタイはされていない。


「じゃ、着替えてきますね」


 そう言って、室長たちに背を向けて変装部屋へ向かおうとしたあたしを、聞いたことのない声が突然呼びとめた。「翡翠クン、翡翠クン」話し方は室長のようだが、声が明らかに違う。ハードボイルドな重低音だ。当然スズ兄のものでもない。二人以外にこの部屋にいる人と言えば……。


 もしかして、と驚きながら振り返ってみると、青木先輩がこちらを見ていた。


「ま、まさか、今のって……青木先輩の声⁉」


 青木先輩が喋ったということにも驚きだったが、まさかこんなおじさんみたいな声だったなんて。いや、待てよ。そういえば、今は男子生徒の格好をしているが、青木先輩は女の人だったはずではないか。何故こんなおじさんみたいな声が出るんだ。


「え? え? な、なんで?」


「驚きマシター? 実はこんな声だったんデスよー」


 青木先輩が片手をあげてお茶目に首をかしげる。しかし、その声は相変わらず重低音だ。部屋中に漂う違和感。嘘だ嘘だ。青木先輩がこんな声のはずがない。いや、でも青木先輩もスズ兄のように男女両方の声が出せる人なのかもしれない。……それにしても、ひどい声だ。


「ん?」青木先輩の外見と声のギャップに気を取られ過ぎて気付かなかったが、よく見ると青木先輩の後ろの人影が青木先輩の腕を後ろで操っている。「ちょっと室長ー!」


「あ、バレちゃいマシタ?」


 青木先輩の後ろからひょこっと顔を出した室長の口の動きに合わせて聞こえてくる声は、先ほどの重低音だった。


「うわ、なんですか室長、声変わり?」


「そんなわけないデショ。実は、コレで声を変えていたんデス」


 そう言って、室長はカッターシャツの襟に装着していた校章を取り外した。声がいつもの調子に戻っている。


「それって、校章じゃないですか。室長がちゃんと校章をつけてるなんて意外」


「これはただの校章じゃありマセン。裏に小さなマイクとスピーカーが内蔵されていて、マイクで拾った声を変化させて同時にスピーカーから発音させることができるボイスチェンジャーになっているんデスよ」


 室長は校章の裏を見せて説明してくれる。「ボイスチェンジャー?」試しにマイクに向かってそう言うと、あたしの声もおじさんみたいな声になった。「おお!」有名な推理漫画に出てくる体は子供、頭脳は大人の少年探偵が使っている便利アイテムみたいだ。


「凄いデショ」


「でも、なんでこんなものを室長が持ってるんです?」


「ある人にいただいたんデス」


「ある人って?」校章型のボイスチェンジャーを弄りながら訊ねる。側面についているダイヤルを回すと声が高くなった。「すごい、いろんな声が出せるんですね!」


「ええ」室長はあたしから校章を取り上げて、ダイヤルを調節した。「こうすると、翡翠クンの声デスね」そう言った声は本当にあたしの声そのものだ。なんだか気持ち悪い。


「これを作ったのは、この学校の科学部部長である赤坂博士あかさか ひろしという方デス。先ほど偶然お会いして、これを下サルというので戴いてきたんデスよ」


「へえー、こんな凄いもの作れる人がいるなんて、さすが星高ですね。進学校なだけあるな~」


「作ろうと思った動機はとても進学校の生徒とは思えマセンけど」室長は微笑んで言った。「まあ、使い方次第では優れものにもなるデショウね」


「今のところ、あたしへのいたずらにしか使ってないところを見ると、大した使い道はなさそうですね」


 あたしは声を変えて遊んでいる室長に呆れた視線を投げて、再び変装部屋へと向かった。変装部屋でいつものように変装を済ませる。今日はツインテールの元気っ娘風だ。スカートも短めでブラウスの袖を肘下まで捲くる。


 あたしが部屋を出るのと入れ替わりに、スズ兄が変装部屋へ入った。少しして変装部屋から出てきたのはいつも通りの可愛いスズ姉だ。今日も癒される。


「はい、翡翠」


「え?」突然目の前に突き出されたスズ姉の拳に首をかしげると、そっと拳が開いて中から赤いリボンが出てきた。「ああ!」


 制服のリボンだ。あたしも慌てて自分がつけているリボンを外し、スズ姉に差し出す。


「ありがとう、スズ姉! 大事にするよ!」


 瞳を輝かせて言うと、スズ姉はあたしのリボンをつけながら、にっこり微笑んだ。もう眩しすぎる。その笑顔だけで星塚町一帯の電力が賄えそうなほど眩しい。



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