第5話 恋愛方程式の解き方 1

第五話 恋愛方程式の解き方




 どうしても解けない問題があった。


 昔から数字に強く、幼稚園の頃からお菓子を買うときも消費税の計算をしていた。小学生で既に微分積分ができた。中学生ではセンター試験の問題を解いていた。同学年の人たちが苦労しても解けないような難問も、秋月薫あきづき かおるにとっては基礎的な足し算引き算となんら変わらぬほど容易いものであった。


 そんな薫にも解けない問題がある。


「あれー、かおるんじゃん! いらっしゃい」


 茶色いレンガ風の壁面に赤い屋根の家。チャイムを鳴らそうとした薫の背後から、鈴の音のように可愛らしい声が響いた。慌ててチャイムから手を離し、声のした方向を振り向く。


「り、凛花りんかちゃん」


 そこには、薫のいとこである秋月凛花の姿があった。胸元まで伸びた亜麻色の髪を耳にかけ、少しつり上がった大きな目をぱちくりさせている。服装は七分丈のパンツに白黒チェックの薄い長袖パーカーだ。その手にはコンビニの袋が握られている。どうやらコンビニからの帰りだったらしい。


「おか、おかえり」


 薫は予想外の出会いに焦って、なんだか少し恥ずかしくなってしまった。俯きがちにチラチラと凛花の様子を窺う。凛花は「ただいまー」と微笑みながら、こげ茶色の門を開けて、薫に道を開けた。「どうぞー」


 薫は少し吃りながら礼を言い、中へ入る。「おじゃまします」と家の扉を開けて、今度は薫が凛花に道を開けた。


「ありがとー」凛花は笑顔で言って玄関で靴を脱いだ。薫も続いて靴を脱ぐ。


「ちょっとコレ冷蔵庫入れてくるから、かおるん先に居間で寛いでてー。お茶持ってくしー」


 コンビニ袋の中身はアイスクリームのようだった。薫はしおらしく返事をして先に居間へ入る。もうこの家には小さい頃から何度も通っているので、部屋の配置は我が家と同じくらいよくわかっている。居間に入ってすぐ目に入ってきた人物の姿に「あ」と小さく声を上げる。


「よう、薫。来てたのか、チャイムくらい鳴らして入って来いよなー」


 居間でテレビを見ていたらしい秋月りょうが、上半身を捻ってこちらを向いている。凛花と同じ色の髪が短くツンツンと攻撃的にハネており、顔立ちも凛花と似ていて少しつり目だ。凛花と似ているのも当然、彼は凛花の双子の兄なのだから。


「来てたのか、じゃねーよ。いらっしゃいだろーが。つーかチャイムくらいでうだうだ言ってんじゃねー。そもそも、勝手に入ったんじゃなくて凛花ちゃんが開けてくれたんだっつーの。テメーに会いに来たとでも思ってんのかコラ。いつまでもこっち見てねェでニュースでも見て、ちったァその軽い脳みそに知識でも詰め込んだらどうなんだ?」


 さきほどまでの凛花との会話を聞いていた人が見たなら、唖然とするような勢いで、薫は凌に罵声を浴びせた。ソファーに座っている凌を思い切り見下す目線も加えて。だが、今の言葉は薫の本心ではない。というより、真逆とも言える。


 薫は凌の事が好きだ。


 好き過ぎて、どう接していいのか分からずこんなツンデレどころかツンツンな態度をとってしまうのである。凌はそんな薫の様子にも慣れたもので、「はいはい」と軽く受け流して素直にテレビ画面へと視線を戻す。凌の視線が自分から逸れると、薫はホッと安心しながらも少し寂しい気持ちになる。


 こっちを向いて欲しい。もっとかまって欲しい。でも、こっちを向かれても困る。かまわれても困る。そして暴言を吐いてしまう。全ては薫の内気な恋心の裏返しによる暴言なのである。


「ちょっと凌ー!」


 突然響いた声とともに居間の扉がバシン、と音を立てて開かれる。薫はその声にびくんと肩を震わせた。凛花だ。


「あんた、また私のプリン食べたでしょー!」


 凛花はすごい剣幕で凌に駆け寄り、胸倉を掴む。


「はあ? 何言ってんだよ、アレ名前書いてなかったし、俺のだろー」


 凌がそう反論すると、凛花は「プリンは全部私のものよ!」と理不尽に返した。凌からは「なんだそれー!」と当然の抗議の声が上がる。


「あ、あああの! 凛花ちゃん!」


 薫は勇気と声を絞り出して、凛花に自分が手に持っていたものを差し出す。


「コレ、凛花ちゃんが好きなケーキ屋さんのプリン。お、お土産に」


「えー! かおるんってば、さすが! 気が利くんだからー」


 凛花はさっきまでの不機嫌さは何処へ行ったのかというほどあっさり機嫌を直して、薫の持っているプリンの箱に飛びつく。そして、薫の髪を撫で回した。「かおるん、ありがとー!」


 凛花に感謝される事が嬉しくて、頭を撫でられるのが少し恥ずかしくて、薫は顔が熱くなった。それでも、そっと凛花の顔を覗き見ると、そこにある嬉しそうな笑顔におもわずキュンとしてしまう。


 薫は凛花の事が好きだ。


 好き過ぎて、上手く話すことが出来ない。正面から目を見ることも、吃らずに話すことも出来ない。だからいつも伏し目がちに、蚊の鳴くような声で喋ってしまう。それでも、凛花はいつもちゃんと薫の声を拾ってくれて、凛花自身は薫の何倍もの声量で話したり笑ったりしてくれる。


 凛花を前にして子犬のように震える薫が、周囲の目には、凛花の大声に薫が萎縮しているのではないかと映るらしいが、そういうわけではない。全ては薫の内気な恋心による歓喜の震えなのである。


 そう、薫は真剣に凌と凛花の二人が好きだ。それも困った事にどちらとも恋愛感情の好きなのである。


 この問題だけが、薫にはどうしても解けない。



     *   *   *



 六月といえば、雨。そして、ジューンブライドである。六月に結婚式を挙げると花嫁は幸せになれるという噂の、あのジューンブライド。世間では、この言い伝えのために雨の多いこの時期にわざわざ結婚式を挙げるカップルが大勢いるのだそうだ。現に、今朝のニュースでも芸能人の結婚報道が三件もあった。これで今月に入って六件目だ。いい加減、雨と同じくらい鬱陶しい。


 そんな世間のお熱いカップルの結婚騒動に触発されているのか、六月は星塚高校内でも恋愛ごとが大いに盛り上がる時期のようだった。なかでも、入学して二ヶ月が過ぎてそろそろ新生活にも慣れ、人間関係も安定してき始めたこの時期、一年生で大量のカップルが誕生していた。


 あたしも最近知ったことなのだが、この高校には恋愛に関するジンクスがいくつかあるらしい。その内の一つが、一年生の体育祭までに恋人が出来ないと高校の三年間恋人が出来ない、というものだ。


 そのジンクスが本当なのだとしたら、よっぽどの運命に逸早くぶち当たった人か、手の早い男子もしくは尻軽な女子でなければ、高校生の間に恋人を作ることは出来ないという事なのだろう。


 少なくともあたしには、出会ってたかが二ヶ月やそこらで付き合いたいと思える人間なんて一人もいない。体育祭までに告白する予定もなければ、告白される気配もない。そもそも、告白するという行為自体があたしからしてみれば浅はかなものなのである。


 告白とは、相手に自分の気持ちを伝えるだけではなく、相手と自分の間に築かれたそれまでの関係を打ち破り、その上に新たな関係を築くきっかけを作るものだ。うまくいけば良好な関係を築きなおすことも出来るのだろうが、失敗すればそれまでの関係が壊れて後にはぎこちなさだけが残るという可能性も十二分にありえるわけである。そんな危険な賭けをみすみすやってのけるあたしではない。


 ましてや、幼馴染であり憧れの人でもあるスズ兄に関してはことに慎重に慎重を重ねなければならない。星塚高校に通う女子なら誰もが一度は夢見る生徒会長の高遠菘。そんな彼の幼馴染というこの絶好のポジション。あたしは、ただ家が隣で幼馴染というだけで、スズ兄と一緒に登下校の毎日を送れてしまう幸せ者なのだ。


 誰もが羨むこの関係をそう簡単に崩すわけにはいかない。だから、たかがジンクス如きのために焦ってスズ兄に告白するなんてことは笑止千万の愚行なのである。


 それにしても、この校内の盛り上がりぶりは異常だ。


 皆がどれだけ芸能人に触発されているのか、呪いの様なジンクスに踊らされているのか知らないが、そこまで必死になって恋人を作る必要が一体何処にあるというのだろう。そう首を傾げたくなるほど、少し耳を澄ませば、やれ誰が誰の事が好きだ、やれ誰と誰が付き合った、などという恋話が聞えてくる。


 もう、うんざりだ。窓の外で降りしきる雨の音を聞きながら、あたしは鼻から息を吐いた。耳から入ってくる恋話を鼻から吐き出すかのように。雨も、恋話に浮き足立った教室も、そんな教室で二ヶ月経った今も一人で昼食をとっている自分も、うんざりだ。


 我ながら、よくこんな状況を耐え抜いているな、と思う。賑やかな教室の片隅で一人きりで食事をとる事の虚しさは並大抵のものではない。ときどき本気で泣きたくなる事もあった。家に帰りたいと思ったこともしばしば。そんな状況にも、悲しいかな、人は慣れてしまうものなのだ。


 高校に入ってあたしが学んだ事の一つは、何事も慣れが肝心、ということだろうか。


 そういうわけなので、きっとこのうんざりした空気にもその内慣れてくるはずだ。それまで頑張ろう、そうやってあたしは自分自身を励ました。


「あ、ねえ、あれ見て」


 少し離れた席から聞こえてきた声に、あたしは自分に向けられた言葉ではないと知りつつも、声の主が指差した方向をそっと窺い見た。指差されていたのは、廊下から教室の戸に手をかけて中を覗き込んでいる一人の女子生徒だった。一見普通の女子生徒のようだが、何か違和感がある。


「あの子って橋本君の彼女じゃない? ホラ、あのネクタイ」


 なるほど。違和感の正体は彼女がつけている藍色のネクタイだ。本来、女子は赤いリボンをつけているはずなのだが、彼女は男子の制服につけるはずのネクタイをしている。そして、彼女の視線の先には橋本君が居た。彼女に気づき、立ち上がった橋本君の首元にはネクタイは絞められていない。


「ホントだー、橋本君のネクタイしてるっぽい! なんでー?」


「あんた知らないの? 星高のジンクスで、彼氏が彼女にネクタイを上げると長続きするってヤツよ」


 「長続き」とはなんとも中途半端なジンクスだ。長続きというのは具体的にいつまでなのだろうか。ジンクスなのだから、どうせなら「永遠に結ばれる」くらい言って欲しいものだ。


 それにしても、そんなジンクスがあったとは知らなかった。そう言われてよく見てみれば、クラスの中にも外にも、また上級生にも、ネクタイをしていない男子や男子のネクタイをする女子の姿がぽつぽつ見受けられる。制服検査の時に怒られないのだろうか、と少し気になった。


 月初めの月曜日、つまり今日は全校一斉に制服検査が行われるのだ。全体としては衣替えできているか、校章がついているかなどが見られる。男子はベルトやネクタイ、シャツをズボンの中にしまっているかなどが細かくチェックされる。女子はリボンやスカート丈の長さなどをチェックされる。ついでに、染髪、化粧、ピアス、マニキュア、刺青などが無いかのチェックも入る。


 それをどうやって乗りきるのだろうかと思っていた矢先、彼女はネクタイを解き、橋本君の首元にネクタイを締めなおした。なるほど、こうして一時返還することで検査を乗り切っていたのか。おそらくこれは他のカップルでも同様の事が行われているのだろう。


 そういえば今朝、鈴木忍にいつものようにモーニングコールをした時、「今日は休みマス」と言っていたが、あれは制服検査から逃れるためだったのではないだろうか。


 踵を踏み潰した上履きに、だぼだぼのズボン。ベルトも確か学校指定の物ではなかった。シャツはだらしなく出ていてネクタイもしていない。おまけに両耳にピアスをつけており、こともあろうか髪色は綿雲の如く真っ白だ。どこをどうみても校則違反だらけである。


「ん?」あたしは食べ終わったお弁当箱を片付けながら、今頭に浮かべた鈴木忍の姿をもう一度よく観察してみた。そして、あることに気づいてしまった。


 鈴木忍は、ネクタイをしていない。


 この事実が一体何を意味するのか。あたしは少しの間考え込んで、いや、それはないな、と当然浮かんでくる考えを排除した。


 あの白髪ダサオタク眼鏡に彼女なんているわけが無い。


 自分で自分の言葉に納得するように頷く。そうそう、あの黒髪イケメンの室長ならともかく、白髪ダサオタク眼鏡の鈴木忍なんかに……。そこまで考えて、あたしの脳内で室長と鈴木忍が並べられた。


 いや、待てよ。あたしは何か大事なことを忘れてはいないか。じっくりと脳内で見比べている内に、二つの顔の間にはっきりとイコールが入った。


 そうだ、室長と鈴木忍は同一人物だった。


 そういえば、室長の方はネクタイをしていただろうか。脳内に浮かんだ室長の意地悪な微笑みから下を思い出そうとするが、ぼんやりとしか出てこない。あんなに毎日毎日顔を合わせているというのに、ネクタイをしていたかどうかさえも思い出せないなんて。


 しばらく考え込んでいると、眉間に皺が寄ってきた。不愉快な室長の顔をずっと思い浮かべていたせいかもしれない。


 眉間の皺を揉みほぐしながら、もう室長がネクタイをしていたか、していなかったかなんてどうでもよくなってきていた。たとえネクタイをしていなかったとしても、どうせ面倒くさいだの、失くしただの、というくだらない理由に違いない。仮に彼女にネクタイを上げたのだとしても、そんなことはあたしには何の関係もないし、どうでもいい事なのだ。


 そう思った直後、とんでもない事に気がついた。そうだ、スズ兄は、スズ兄はネクタイをしていただろうか。これはあたしにとって何よりも重大な問題だ。もし、スズ兄がネクタイをしていなかったら。もし、ネクタイを上げるような彼女がスズ兄にいるのだとしたら。想像するだけで、血の気が引いていく。


 あわあわと、動揺しながらスズ兄の顔を思い浮かべる。ふんわりと微笑む優しいスズ兄の顔が浮かんだ。少しだけホッとする。その首元にネクタイがあったかどうかを必死に思い出す。


 だ、だめだ。こっちも室長の時と同じくぼんやりとしか思い出せない。毎日毎日目に焼き付けるように見ていたはずのスズ兄なのに。何故こんな肝心な時にあたしの記憶力はここまで乏しいのか。


 絶望に近い気分で、頭を抱えて机に突っ伏す。そうだ、今から二年生の教室までいってスズ兄のネクタイを確認すればいいんだ。そう思い立った瞬間、虚しくも昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いたのだった。



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