番外編 翡翠の誕生日
番外編 翡翠の誕生日
五月二十七日。朝起きると、外は雨だった。
雨が窓を叩く音と、目覚まし時計がジリジリ鳴る音を聞きながら、しばらくぼーっとする。今日は誕生日だ。
「るっせーぞ! いい加減その音どうにかしやがれ!」
部屋のドアが壊れそうな勢いで蹴り開けられた。朝から鬼のような形相で入ってきたのは、妹の
「わー! すいませんすいません、今止めます!」
あたしは慌てて目覚まし時計へ手を伸ばす。しかし、あたしの手が目覚まし時計のボタンに届く前に、爽花によって目覚まし時計は蹴り飛ばされ、壁に叩きつけられて大破した。ああ、これで今月に入って三つ目の目覚まし時計がお亡くなりになった。
「朝っぱらからイライラさせんな!」
額に青筋を浮かべてあたしを睨みつける爽花。水色のパジャマを着て、男の子みたいにベリーショートにカットされた髪に寝癖がついている。
「ひーちゃん、そーちゃん、何騒いでるのー?」
階段の下からお母さんが大きな声で二階の様子をうかがう。「早く下りてきなさいよー」と呼ぶ声に、あたしと爽花は同時に「はーい」と返事をした。
「ハモってんじゃねーよ、気持ちわりーな」
「べ、別にわざとじゃないし」
「ああん?」
「ごめんなさい、なんでもないです」
あたしはこの暴力的な妹に頭が上がらない。何故なら、全てを暴力でねじ伏せられるからだ。爽花はプロレスが大好きで、毎日のようにプロレスを見て技を研究している。特に格闘技を習っているわけでもないくせに、相当な数の技を覚え込んでいて、細い体に似合わぬ筋力で大人の男性をも絞め上げる力を持っている。ちなみに、それを会得するまでの練習台にされたあたしは、無駄に防御力と回避力だけが上がった。
爽花の後に続いて階段を下り、リビングに入るとそこにはもう朝ご飯が並べられていた。
「あれ? コーンフレークは?」
食卓に並んでいるのは食パンとベーコンエッグにコーヒー牛乳だ。いつもならあたし専用にコーンフレークが用意されているはずなのに。
「あ、ごめんね~、ひーちゃん。昨日パパンが夜中に小腹が空いたって、ひーちゃんのコーンフレーク食べちゃったのよ~。今日は食パンで我慢してね~」
「え~!」
「なんだ翡翠、なんか文句あんのかコラ」
突然背後からかけられた声に振り向くと、そこには相変わらず威圧感バリバリのお父さんが立っていた。お父さんは普通の美容師のはずなのだが、必要以上の筋肉を体に蓄えており、ボディービルダーのようにムキムキマッチョだ。ピチピチの白いタンクトップにパッツンパッツンのジーパンをいつも履いている。自分の筋肉が大好きで他人に見せたくて仕方がないらしい。美容院のお客さんの中には、まれにお父さんの筋肉に惚れて常連になった人もいるとかいないとか。
爽花の暴力的なところや乱暴な言葉遣いはすべてこの父親譲りである。
「ママンが頭下げてるってのに、お前はそれでもコーンフレークが食いたいとでも言うつもりか? ああ?」
お父さんの大きな手があたしの頭をがっしり掴んで、ぐるんぐるん回してくる。掴まれた頭は痛いし、目が回る。
「あああ~! いたいいたい! ごめんなさい! パンでいいから!」
「パンでいいから……じゃねーだろ。パンをいただけますかお母様だろ」
「ぱ、パンをいただけますか、お母様」
「あらあら、ひーちゃんったらかしこまっちゃって」
お父さんはお母さんのことが自分の筋肉以上に大好きで、お母さんを困らせるものは娘だろうがなんだろうが容赦ない。
お母さんはいつもニコニコしていてとても優しい。あたしもお母さんのことが大好きだ。ただ、お母さんは人一倍鈍感で、あたしがお父さんと爽花から並々ならぬ暴力を受けていても、ただじゃれ合っているだけだと未だに勘違いしている。
お母さんの笑顔のおかげでお父さんの頭ぐりぐりの刑から逃れたあたしは、ようやく席についてパンを一口かじった。時計を見ると朝の七時三十分。今日はまだまだ余裕だ。
「あれ? この時計遅れてない?」
テレビのリモコンでチャンネルを変えていた爽花が言った。あたしがテレビを見ると、左上に表示されている時間は八時十五分。
「あら~、大変。もうこんな時間だったのね~。ひーちゃん、そーちゃん、急がないと遅刻じゃな~い?」
お母さんのそんな呑気な言葉を最後まで聞くことなく、あたしと爽花は競うように階段を駆け上がり、それぞれの部屋へ飛び込んで制服に着替えた。
いつもならスズ兄と一緒に登校している時間だが、今日はスズ兄が柔道部の朝練で先に行ってしまったので時計が遅れていることにも気付かなかったのだ。
「八時十五分って、八時十五分って、やばいよやばいよ、完璧遅刻じゃんか!」
ぶつぶつ言いながらブラウスのボタンをとめていると、最後の一つをとめようとしてボタンをかけ違えていたことに気がついた。
「あー! もう、こんな時に限って!」
急いでボタンをかけ直し、スカートをはいてリボンをつけて、鞄を引っ掴んで階段を駆け降りる。
「ひーちゃん、お弁当~」
「ありがとう、いってきます!」
お母さんが玄関まで持ってきてくれたお弁当を受け取って、靴を履きながらドアを開ける。家の前に止めている自転車に乗ろうと思ったら、鍵を部屋に置き忘れていることに気付いた。
「あーもう!」
靴を脱ぐのが面倒だったので、玄関から「爽花ー! あたしの部屋から自転車の鍵とってー!」そう叫ぶと、二階からすごい勢いで自転車の鍵が投げつけられた。あたしはそれを見事に顔面でキャッチして額に鍵の跡が赤く残った。「あ、ありがと……」落ちた鍵を拾い上げて、自転車に差し込む。
自転車のかごに鞄を突っ込み、サドルにまたがると車体が沈んだ。「ん?」ペダルを漕ぐといつもより重くて、なかなか進まない。これは、どう考えてもパンクしている。
「うっそだー!」
嘘じゃなかった。降りて確かめると、前輪がベッコベコにへこんでいる。あたしの心も相当へこんだ。もう、学校に行くのやめようかな。なんか今日はずっと良いことがない。きっと星占いも十二位に違いない。
「何つっ立ってんだ、早く学校行けよ!」
爽花が中学校の制服で玄関から出てきてあたしの背中をばしんっと叩いた。中学校は家から歩いて五分の所にある。爽花はまだ間に合うだろう。だが、星塚高校は徒歩で二十分かかる。只今の時刻八時二十三分。もう完全に遅刻だ。
なんか泣きたくなってきた。なんで誕生日早々これほどまでについていないのか。もうこれは、今日は学校を休めと神様が言っているんじゃないだろうか。
真剣に学校を休むことを検討していたあたしだが、やっぱり遅刻してでも学校に行くことにした。一度休んでしまうと、もう二度と学校に行けなくなってしまうような気がした。あの地味に過酷な学校生活を乗り切るためには、張りつめた糸を緩めてはいけないのだ。
「よし」あたしは大きく息を吸い、鞄を肩にかけて走り出した。全速力で走ればホームルームは無理でも、一時間目にはなんとか間に合うだろう。
室長も認めるあたしの俊足は、日々のパシリではなくこういうところで役立つべきなのだ。全速力で住宅街を走りぬけ、学校前の心臓破りの坂も息を切らせて駆けあがった。必死に走ったおかげで、思った通りに一時間目には間に合うことができた。
今日はさすがに室長にモーニングコールをしてやる暇なんてない。一時間目の後の休み時間にでも起こしてやるか、そう思いながらあたしは一時間目の授業を受けたのだった。
放課後。あたしはいつもの五倍ぐったりして放課後を迎えていた。本当に今日は厄日だ。
一時間目の英語の授業では予習していなかったところを当てられるし、二時間目の国語では宿題を家に忘れてくるし、三時間目の数学では抜き打ちテストで散々な結果になるし、四時間目の音楽ではリコーダーを忘れるし、五時間目の体育ではハードルで思いっきりずっこけるし、六時間目の日本史では教科書を忘れて立たされた。
おまけにいつものおつかいでは、スーパーに行く途中が工事中で遠回りしなくちゃいけなかったり、スーパーでバナナが全部売り切れていたりと、いろいろな不運に見舞われた。
本当に最悪の誕生日だ。
いつものスーパーより三十分ほど歩いたところにあるスーパーまでバナナを買いに行った帰り、バナナとお菓子が詰まったエコバックはいつもよりずっと重く感じた。
時間はもう五時近い。室長はバナナ分が足りなくてもう干からびているかもしれない。下手したらスズ兄の部活が終わってしまいそうな時間だ。これでスズ兄が先に帰っていたらどうしよう。
そう考えると、なんだか一気に今日一日の不幸が蘇って悲しい気分になった。じわっと目の奥が熱くなる。なんで今日はこんなに嫌な日なんだろう。もう半年分くらいの嫌なことが一気に起こったような日だ。今日は誕生日だというのに。良いことの一つや二つあったって誰も文句は言わないはずだ。
「室長は干からびてても良いから。せめて、スズ兄は待っていてくれてますように」
あたしはずずっと鼻水をすすって、荷物を持ちなおした。
学校に到着して、いつものように上履きに履き替える。その時にロッカーのすぐ近くにある体育館一階の柔道場を少しのぞいてみた。もう柔道部の活動は終わっているようで、誰も残っていない。
ああ、スズ兄帰っちゃったかも。
おさまっていた涙がまた溢れだす。これだけ嫌なことが続いているんだ。いつもは待っていてくれるスズ兄だって今日は帰っちゃっているかもしれない。
「スズ兄ぃ~」
あたしはもう半泣き状態で、トボトボとグラウンド側を歩いた。
「スズ兄がもし帰っちゃってたら……あー、全部あのバナナ野郎のせいだ~」
バナナを買うためにこんなに遅くなってしまったのだから。今日という今日は室長にキレてやる。
そう意気込んで、あたしは涙を拭い、鼻水をすすった。大きく深呼吸を数回繰り返し、いつものように西館のドアを足で開ける。廊下をずんずん進んでいくが、いつもひょっこり顔を出す田中さんと佐藤さんも出てこない。やけに静かな廊下を歩きながら、だんだん嫌な予感がしてくる。
早足で廊下を抜けて、突き当たりの「なんでも悩み相談室」のドアを開け放つと、そこにはあの見慣れた黒髪美人も、無口で無表情な青木先輩も、あたしが今一番会いたいスズ兄も、誰もいなかった。
「うそ……なんで?」
呆然としながら部屋に足を踏み入れ、どさりとバナナとお菓子の入ったエコバックを机に置く。
誰もいない。静まり返った部屋。電気もついていなければカーテンも閉め切られている暗闇。埃臭くて寂しい匂い。その全てがあたしを虚しい気持ちにさせた。
室長も青木先輩も、スズ兄もみんなあたしを置いて帰っちゃったんだ。
今日一日、あたしがどれだけ大変だったかも知らないで。
あたしがどれだけ苦労してバナナを買ってきてやったかも知らないで。
あたしがどれだけ室長を殴ってやりたいと思っていたかも知らないで。
あたしがどれだけスズ兄に会いたいと思っていたかも知らないで。
あたしがどれだけ寂しいかも知らないで。
独りだと悟り、堪え切れずに嗚咽が漏れたその時だった。突然変装部屋の戸が派手に開け放たれて、パンパンパンっ! と破裂音がして電気がついた。
「翡翠クン、お誕生日おめでとうございマース!」
「おめでとう、翡翠!」
「ハッピーバースデー☆ 翡翠ちゃん」
「翡翠さん、誕生日おめでとう」
「……へ?」
目の前には煙を上げるクラッカーを持った室長と青木先輩とスズ兄がいた。ついでに田中さんと佐藤さんもいた。
「って、あれ……翡翠クン、もしかして泣いてマス?」
「ひ、翡翠? どうしたんだ! どこか怪我でもしたのか⁉」
スズ兄は慌てて駆け寄ってきてあたしの肩に両手を置いた。スズ兄だ。ずっと会いたかったスズ兄がちゃんといる。
「今日は買い出しもずいぶん遅かったデスもんね、何かありマシタか?」
室長も心配そうに寄ってきた。だが、その手はちゃっかりあたしが買ってきたバナナへと伸びている。
「ううん、なんでも、ない。なんでもないよ」
あたしはカーディガンの袖に涙を染み込ませて、スズ兄を安心させるように笑った。スズ兄は「本当か? 大丈夫か?」となおも心配そうにあたしの様子を気にしてくれたけど、あたしがどこも怪我をしていないことを確かめると、ほっと安心したように微笑んだ。その笑顔を見た途端、今日一日の不幸が全部吹っ飛ぶ気がした。
「それより、なんでみんなして隠れてたんですか? びっくりしたじゃないですか」
「翡翠クンを驚かせようと思いマシテ」
「翡翠、今日誕生日だろ? だから『なんでも』で誕生日パーティーしようと思ってさ」
「プレゼントだってありマスよ。三笠ちゃん」
室長が青木先輩に目配せをすると、青木先輩は変装部屋から大きな箱を抱えて戻ってきた。机の上に置かれたその箱は教室に並ぶ机とほぼ同じ面積もあって、ピンクのリボンが掛けられている。
「開けてみろよ」
スズ兄が柔らかく微笑んで箱を指差す。あたしはそっと箱を持ち上げた。すると、そこには大きなバースデーケーキがあった。たっぷりの生クリームでデコレーションされたケーキの真ん中にはチョコレートで描かれたあたしの似顔絵と「HAPPY BIRTHDAY ひすい」の文字。
「このケーキは『なんでも』メンバーから翡翠クンにデス。ちなみにケーキは三笠ちゃん作で、『HAPPY BIRTHDAY』は私が書きマシタ」
ただ文字を書いただけの室長は得意げに言った。
「似顔絵は俺が描いたんだ。結構似てるだろ」
スズ兄は少し照れくさそうに言った。
「うん、うん! ありがとう、みんな!」
あたしは嬉しくて、ケーキを食べるのがもったいなくてしょうがなかった。そう思ったのはケーキを準備してくれた皆も同じだったみたいで、食べる前に記念写真を撮ることにした。皆でケーキの周りに集まって思いっきり腕を天井に向けて伸ばし、カメラを構える。
「いくよー、はいチーズ」
カシャッ
「なんでも」にたまたまあった使い捨てカメラで撮ったこの写真は最高の思い出になった。「なんでも」メンバーで初めて撮った写真であり、初めて家族やスズ兄以外の人たちと誕生日パーティーをした記念写真だ。
なかなか思うように友達もできないし、クラスに馴染めない高校生活は楽しいことばかりじゃないけれど。朝からずっと嫌なことばっかりだった十六歳の誕生日だけど。それでもやっぱり逃げずに顔を上げれば、そこにいてくれる人たちがいる。
一緒に笑って、写真を撮って、食べて、騒いで、祝ってくれる人たちがいるんだ。
独りなんかじゃない。
そう思うだけで、今日一日の嫌なことなんて一瞬でリセットされてしまう。
地味に過酷な高校生活だって、なんとか乗り越えられる気がしてきてしまう。
また目の奥がじわっと熱くなった。今度は嬉しくて、口元が緩む。涙があふれる前にあたしは口いっぱいにケーキを頬張った。
「おいし~! もう、美味しすぎて涙出ちゃうよ」
そう言って笑うと、みんなも当然のように微笑み返してくれる。
「全部食べても良いんだぞ~」
「うん!」
「太りマスよー」
「今日だけ特別なんですー!」
「良いなァ~私もケーキ食べたァ~い」
「食べることは生きてるものの特権だよ。翡翠さん、いっぱい食べるんだよ」
「……なんか、一気に食べづらくなったわ」
賑やかな誕生日パーティー。いつまでも続けばいいと思うほど、幸せでいっぱいのひととき。
バナナとジリヒンオタクの意地悪な室長に、ロボットみたいな青木先輩、幽霊の田中さんと佐藤さん。優しくて癒されるスズ兄以外は変な人ばっかりだけど、この「なんでも」のみんなに会えてよかった。「なんでも」の仲間でよかった。心からそう思えた日だった。
後日、バースデーケーキを囲んで撮った記念写真は田中さんと佐藤さんの影響でとんでもなく怖い感じの心霊写真になって現像された。写真屋さんもドン引きの心霊写真だった。その上、使い捨てカメラに入っていたその他の写真もよくわからない心霊写真になっていた。恐ろしくてとてもじゃないが全部を直視できなかった。
そうして、思い出の写真は即お寺で焼かれることになったのでした。おしまい。
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