第2話 迷子のポチの探し方 1

第二話 迷子のポチの探し方




 五月を目前にして、桜の木には散り残った桜に青々とした葉が茂り始めていた。上から下へ、ピンクから緑へとグラデーションを描いている。爽やかな風が散りゆく花びらを舞い上がらせる。そんな春の午後。あたしは額に汗を浮かべながら、学校前にある心臓破りの坂を駆け上がっていた。それも、両手にバナナとジリヒンジャーのお菓子がいっぱいに入ったスーパーの袋を持って。


「ったく! なっんで、あたしが、こんなことっ、しなきゃ、なん、ないの、よっ!」


 息切れしながらも、口からはついつい不満の言葉がこぼれる。歯を食いしばって、重たい荷物を持ち直した。


 あたしが何故こんな事をしているのか。それは全てあの男が原因だった。


 あの男――そう、「なんでも悩み相談室」の室長こと鈴木忍。


 半月前、あたしはスズ兄に連れられて「なんでも(以下略)」を訪れた。そこであたしは室長の助手になると言ってしまった。


 あの時、あたしの夢と希望に満ち溢れたハイスクールライフは終わりを告げたのだ。


 そして、助手とは名ばかりの単なるパシリとして、あの室長にこき使われる奴隷のような生活が始まった。


 奴は毎日毎日あたしを買い出しに行かせる。それも買い出しに行く店と帰ってくる時間を指定してくる。買い出しに行く店は学校から歩いて二十分かかるスーパーで、西館に到着する時間は三時半だ。


 六時間目のあとのホームルームが終わるのが三時ちょうどだから、歩いていったら間に合わない。つまり、走るしかない。走って往復大体二十五分。買い物を五分で済ませて、あたしはいつも三時半ちょうどに西館に滑り込むのだ。


 あたしが何故こんな仕打ちにも歯を食いしばって耐えているのか。そんなのはスズ兄と一緒に帰るため以外の何物でもない。


 あたしはスズ兄が一緒に入らないかと言ってくれた「なんでも」にどうしても入らなければならなかった。スズ兄がいるところならば、そこがたとえ地獄でもついていくと心に決めていたから。


 だが、そんなあたしの前に室長と言う名の試練が立ちはだかった。奴は綺麗なのは外見ばかりで、心の中はどす黒い。悪魔みたいにドSで、オタクで、バナナ中毒の変態野郎だ。最近では、初めて会ったときに美人だと思ってしまった自分が恨めしいほどである。


 そんな奴が最初に課してきた試練が、この鬼パシリだ。


「これは時間を守ることと体を鍛える訓練でもありマスから、心して取り組んで下サイね」


 などとほざいていたが、ただ単に自分がバナナを早く食べたいだけに決まっている。


「これに耐えられないようでは、室長助手は務まりマセンよ」


 キラキラと無駄に神々しい光を放って微笑む姿がなんとも憎い。いつか絶対泣かせてやる。


 室長の事は憎くて憎くて仕方がないが、これもスズ兄と少しでも長く一緒にいるため。あたしは涙を飲んで、この半月間、室長の言う事に従い続けている。


 ようやく学校の門をくぐり、体育館前にあるロッカーで靴を履き替え、グラウンドの脇にある西館へとラストスパートをかける。放課後なので、グラウンドでは野球部にサッカー部に陸上部などが練習に励んでいる。今頃スズ兄も道場で柔道の稽古に励んでいることだろう。あれ、今更だが、あたしは柔道部に入ればよかったのではないだろうか。


 いや、でもどっちみちスズ兄が「なんでも」にいる事に変わりはない。柔道部も「なんでも」も両方やるなんて、スズ兄じゃないあたしには無理だ。


 あたしは柔道部に転身するという考えを諦め、西館のドアを足で蹴り開けた。はしたない行為だとは思うが、両手が塞がっているのだから仕方がない。


 暗くて床の軋む廊下にももう慣れたものだ。


「あ、翡翠さん、こんにちは」


「翡翠ちゃん頑張ってェ~あと五秒よォ~ん」


 いつものように「なんでも」の部屋の前で幽霊の佐藤さんと田中さんが出迎えてくれる。


 苦手だった幽霊も二人のおかげでもう見慣れてしまった。半月前まではありえないと思っていたことが、今では自然に受け入れられてしまう。慣れというものは恐ろしい。


 あたしは「なんでも」の部屋の戸を肘で少し開けてから、開いた隙間を足で更にこじ開ける。


「はーい、三時半ジャストー」


 部屋の中に入ると、電波時計を手に持ち、満足げに微笑む室長の姿があった。「はい、三笠ちゃん拍手ー」と室長が言うと、青木先輩が無言かつ無表情で拍手だけしてくれる。


「待ってマシタよ」


 室長がいそいそとあたしのもとへやって来て、あたしの手から袋を二つ受け取る。そして、袋を机の上に置くと、すぐにバナナをもぎ取って皮をめくり、パクリと一口かぶりついた。


「は~、幸せデス」


 うっとりと目を細める黒髪美人。普通の人が見たらきっと卒倒しそうなくらい綺麗なことは確かだ。だけど、そんな美人にもあたしは既に見慣れてしまっているのだ。もうあたしには、この人のこの顔がバナナ中毒者にしか見えない。


 室長はバナナを絶えず食べ続けていると言っても過言ではない。バナナが手元に無い時の室長の不機嫌さは尋常じゃない。舌打ちと溜め息から始まり、次には計測不可能なスピードで貧乏ゆすりが繰り出される。これはもう速過ぎて目に見えない。でも、座っている椅子から振動が伝わってくるのだ。終いには、「バナナー!」と叫んで暴れ始める。これを中毒者と言わずして何と呼ぼうか。


 そして、半月間一緒にいてあたしが見た室長の姿は、バナナを食べているか、ジリヒンジャーのDVDを見るか、カードやフィギュアを愛でるか、ゲームをするか、寝ているかのみである。


 もちろん、ここに相談者が来たことなんて一度もない。


「もはやただのオカルト研究会か、バナナ愛好会か、ジリヒンジャーの会だ」


「なに独りごと言ってるんデスか、翡翠クン。ボケッとしてないでさっさと変装してきて下サイ」


 室長はバナナを一本食べ終えると、次にはジリヒンジャーのお菓子の箱に手を伸ばしていた。


「毎回毎回、着替える必要なんてあるんですか~? どうせ誰も来やしないのに」


「継続は力なりデスよ」


「変装を継続することでどんな力になるって言うんですか」


「いずれ訪れるピンチを乗り切るための、なんかアレな力になりマス」


「何ですか、なんかアレな力って」


「アレはあれ、コレはこれデショ」


「いや、意味わかんねーよ」


 室長はまたバナナの皮をむき始めている。


 そうだ。室長の言葉に大した意味も、まともな答えもないのはいつものことだった。あたしは大人しく、いつものように変装することにした。



 この部屋に入って左手奥には隣の部屋へ続く戸がある。その戸を開けて隣の部屋へ足を踏み入れると、そこには数え切れないほどの変装道具がズラズラリと用意されてあった。初めてこれを見たときは、想像以上に多彩な変装用小道具に驚いたものだ。


 星塚高校の制服も男女とも様々なサイズが取り揃えられており、旧制服の学ランやセーラー服まである。衣装は制服だけでなく、他にもコスプレ常套服のチャイナドレスやナース服にメイド服、医者に警官にパイロットにプロレスラーと一体いつ何の目的で使うのかさっぱり見当がつかないものまで揃っている。


 カツラの種類も豊富で、ちょんまげから金髪縦ロールまでどんな髪形も出来そうだ。眼鏡やサングラスの類も数多く、その中に鈴木忍がつけていた大きな黒縁眼鏡もあった。


 他にも付け髭や付け黒子、付け歯まである。もちろん化粧道具も一通り揃っている。


 この部屋を見ただけで、彼らが如何に変装に力を入れているかが分かるというものだった。


「うーん、今日はどれにしようかなあ」


 かく言うあたしも、変装を少しも楽しんでいないというわけでもない。


 初めて変装した日、あたしは悩みに悩んだ挙句、男装することにした。スズ兄が女の子で青木先輩が男の子になっているんだから、あたしも単純に性別を変えた変装がいいのかと思ったからだ。


 だが、あたしは男装した自分の姿を鏡で見て、完成度の低さに自分で呆れた。男子の制服を着て、髪の短いカツラをかぶっただけの姿は、本当にただの男装だ。男の子のフリをしている女の子だと見破れない人などいないだろうと言うほどに分かりやすい男装だった。所詮学園祭レベルという奴だ。


 疑う余地がないほど見事に性別が入れ替わっているスズ兄と青木先輩を見た後の、自分の男装姿は見るに耐えないものがあった。


 そうあたしが思ったとおり、あたしの姿を見た室長は一言。


「なんデスか、その完成度の低い男装は」


 と遠慮も配慮もない言葉を吐き捨てた。


 その言いように腹は立ったが、室長の両隣にいる可愛いスズ姉とかっこいい青木先輩を見ると、言い返す言葉など見つかるはずもない。


「翡翠クンは華奢で背も低いんデスから、男装なんてできるわけないデショ」


「でも、スズ兄だって背が高いのに女装できてるじゃないですか」


 スズ兄は身長が百七十センチある。女の子の身長となるとかなり大きい。


「菘は背が高くてもごつくはありマセンから、誤魔化そうと思えば誤魔化せるんデスよ」


 確かに、スズ姉の身長は高いがスレンダーでモデルさんみたいだ。


「それに、菘は校内で有名人デスから、男のままだと変装しても高確率でバレてしまいマス。でも、性別が変わっていれば大抵の人は気がつきマセンから」


 女装一つにも実はちゃんとした理由があったんだな、とあたしは納得してしまった。青木先輩も髪の色は目立つが、男の子にしか見えないので本来は女子生徒である青木三笠とはなかなか結びつかないだろう。身長も百六十五センチあるらしいから、男の子でも問題ない。


 室長は性別こそ変わってはいないが、美しすぎる顔を普段は黒縁ダサオタク眼鏡で隠し、髪の色を真っ白にすることによって印象を見事に白髪ダサオタク眼鏡にしたてあげている。おかげで、黒髪美人と同一人物とは到底思えない。


 室長の身長はスズ兄より三センチほど高いらしいが、その体型と顔の美人さなら女装しても男と気づかれないに違いない。ただ、声はスズ兄のように女声がでるわけじゃないから、喋ったらすぐ気づかれるだろうけど。


 そんな三人に対してあたしはと言うと、女子の平均より少し低めの百五十五センチの身長に、いたって普通の女子の体型。そして未だに小学生と間違えられるほどの童顔。男子の制服を着て髪形を多少変えたぐらいじゃ男の子に見えるわけもない。


「いっそ小学生の格好でもしたらどうデスか? ほら、ランドセルもありマスよ」


 そう言った室長の楽しそうな顔が嫌味たらしくて忘れられない。


「高校に小学生がいる方がおかしいでしょ」


 あたしは憎き室長の顔を思い浮かべながら、口を尖らせて呟く。そして、両耳の横で長い髪をみつあみにしているカツラを装着し、丸い瓶底眼鏡をかけた。傍から見れば度のきつそうな眼鏡だが、本当はまったく度の入っていないただのガラスだ。


 最初に男装に失敗して以来、あたしは無難な変装をするようになった。そして室長は聞いてもいないのにあたしの変装に毎回文句を付けてくる。そんなわけで、あたしは毎回違う変装を試していつか室長を納得させてやろうと目論んでいたりする。


 今日はみつあみ眼鏡の文学少女風だ。スカートは膝下十センチと長めで、オプションとして文学小説を二冊ほど小脇に抱えてみる。特に意味はない。


 今回はなかなかいい具合にキャラが出ている変装だ。今日こそはあの室長も文句の付け所がないだろう。鏡で自分の姿を見たあたしは、そう確信して変装部屋を出た。


「室長、今日のは文句ないでしょう!」


 そう言って相談室へ入ると、そこにはさっきまでと同じようにバナナを食べている室長と、室長の前にある机にお茶を出す青木先輩、そして、これまで見たことのないものがいた。


「だ、誰ですか……っていうか、何ですかそれ」


 あたしは思わずそれを指差していた。


「迷える子羊サンデス」


 室長はあたしの方を振り返るでもなく、その「迷える子羊」と向かい合ったまま言った。



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