第1話 「なんでも悩み相談室」の入り方 3
気がついたら放課後になっていた。後ろを振り返ると、そこには誰も居らず、いつものように空席だ。もしかして、さっきのは全部夢だったのだろうか。あの空席に夢を抱きすぎて、空想と現実がごっちゃになったのかもしれない。
あたしはもう空席について考えるのをやめ、帰る準備を始めた。すると、クラスの女の子達が嬉しそうな声で、キャーとか、かっこいいとか、コソコソ騒いでいるのが聞えてきた。その声に顔を上げて、彼女達の視線を追うと、そこにはスズ兄が立っていた。
目が合うと微笑みかけてくれて、手招きするスズ兄。あたしはすぐに鞄を持ってスズ兄の所へ駆けつける。
「スズ兄! どうしたの?」
「よう、翡翠。ちょっとおまえを連れて行きたいところがあるんだけど、今日大丈夫か?」
「え、う、うん! もちろん大丈夫だよ! 全然まったく何の用事もないよ!」
突然の嬉しい誘いにあたしはテンション高く答えた。全然まったく何の用事もないのはまったくの事実だ。
「でもスズ兄、今日部活は?」
「毎週火曜と日曜は休みなんだよ。それで、いつも火曜日に行ってるとこがあるんだ」
「そうなんだ~」
あたしはスズ兄の休日を頭の中のメモ帳にでっかくメモした。
「それで、お前も部活入りたいのがないなら、一緒にどうかと思ってさ」
「え? ってことは、その行きたい場所っていうのは部活なの?」
「うーん。正式には部活じゃないんだけど。まあ、似たようなものかな」
一体何なのだろう。部活じゃないけど部活みたいなものというのは。同好会とかだろうか。
あたしが少しの間考え込んでいると、スズ兄があたしの顔を覗き込んできて、「気が向かないなら無理にとは言わないけど」と少し心配そうに言った。
「い、行く行く! もちろん行くよ!」
「よかった。じゃあ、行くか」
「うん」
スズ兄のまばゆいばかりの微笑みがあたしの心を撃ち抜く。やばい、もうかっこよすぎるよスズ兄。スズ兄と一緒なら火の中水の中……もう天国でも地獄でも何処まででもついて行くんだから。
「この学校の西館なんだけど、翡翠行ったことある?」
「え」
スズ兄は廊下を歩きながら言った。西館――グラウンドの隅にぽつんと二階建ての建物があることは知っているけど、中に入ったことは無い。授業で使わないし、そもそも何の部屋が有るのかもよく知らない。
でも、一つ噂話があることは知っている。
「西館って……あの噂の」
「そう、幽霊が出るって噂の西館」
レッサーパンダが立つって噂の動物園、とでも言うように楽しそうなスズ兄の声。いやいや、ちょっと待ってスズ兄。幽霊が出る西館なんてそんな笑顔になるようなものじゃないはずだよ。
「もしかして、そこに行くんじゃ」
「翡翠は勘がいいな~」
勘がいいも何も、話の流れ的にそうとしか考えられない。
「あ、危ないよスズ兄、そんな、ゆ、ゆゆ幽霊が出るとこなんて」
何を隠そう、あたしは幽霊がこの世の何よりも苦手だ。幽霊はこの世のものではないが。
「翡翠は相変わらず怖がりだな~」
ええ、怖がりですとも。その通りだから考え直して、お願いします。
噂では、悩み事があるときに西館に入ると、あるはずのない教室が現れて、その中にいる幽霊に引きずり込まれるんだとか。ああ、想像しただけで恐ろしや。
「大丈夫だ、翡翠。俺がついてるから」
幽霊を想像しただけでグロッキーになっていたあたしの肩にスズ兄の温かい手が触れる。顔を上げると、スズ兄が春の木漏れ日の如く柔らかな微笑みでこちらを見ていた。思わず鼻血が出そうになる。一気に血行がよくなった。
そうだよ。スズ兄といられるなら、お化け屋敷だろうと廃病院だろうと西館だろうとどこへでも行ってやる。スズ兄さえいれば、あたしに怖いものなんて何一つありはしない。
「うん、行こう! スズ兄」
西館だろうが幽霊だろうがまとめてかかって来い、とばかりにあたしはファイティングポーズを決め、スズ兄と一緒に西館へと向かった。
北館校舎西側の非常階段を下りてすぐ、グラウンドの脇に古びたその建物は立っていた。
学校で唯一木造建築の西館はその存在自体がもう幽霊みたいだ。スズ兄の話では、昔は二階が図書室で一階が一年生の教室だったが、十年前から使われなくなったらしい。十年前、生徒数が増えたのをきっかけに北館を増築し、西館にあった教室や図書室は全てそちらに移されたのだ。
あとは取り壊すのを待つだけの建物だそうだが、例の幽霊のせいなのか、取り壊そうとすると必ず事故が起こり、三度目の事故で取り壊すのを諦めたらしい。
「ち、近くで見ると雰囲気あるね」
「だよな~。俺も一年の時に肝試しで来たときは、わくわくしたもんな~」
「ええ⁉ スズ兄、肝試ししたの? なんかいた⁉」
「ああ、いたね」
「な、何が……⁉」
「それは見てのお楽しみだよな~」
ハッハッハ、と笑うスズ兄の爽やか笑顔は、この建物とあまりに不似合いで、なんだか余計に不安を煽った。
「じゃあ、行くか」
なんのためらいもなく古びたドアを押し開けて、西館の中へ入っていくスズ兄。あたしも置いていかれないように、ぴったりとスズ兄の後ろにくっつく。
校舎の中に足を踏み入れた途端、床がみしっと軋んだ。うわわ、やっぱりやばいよこの校舎。なんで立ち入り禁止になっていないのだろう。
まだ昼間だというのに、校舎の中は薄暗くて足元がよく見えない。あたしははぐれないように、スズ兄のブレザーの裾を掴んでなんとかついていく。
廊下に窓がいくつかあるのを発見し、あたしはガラリと窓を一つ開けてみた。硬くて開かないかと思っていたすりガラスの窓は意外にあっさりと開いた。
窓から外に植えてある木々の間を縫って、春の陽気な日光と爽やかな風が入り込んでくる。
光であらわになった床や壁、天井には、埃も蜘蛛の巣もなく、きれいに掃除がされてあった。誰かが最近ここを使ったのだろうか。
「翡翠、ここだ」
ふと気づくと、スズ兄が廊下の突き当たりにある教室の前に立っていた。あたしは少し明るくなった廊下を駆け足でスズ兄のもとへ急ぐ。
「こ、ここって……?」
スズ兄は部屋のドアにかかっている小さな木の表札みたいなものを指差した。暗くてよく見えないが、目を凝らしてよく見てみると、「なんでも悩み相談室」と書かれていた。
「ここは悩める奴がやってくる『なんでも悩み相談室』だ」
「『なんでも悩み相談室』?」
あたしは意味がよく分からなくて首を傾げた。悩み相談室ということは、スクールカウンセラーさんが居る所なのだろうか。でも、確か、北館の三階にカウンセラー室があると、この間もらったプリントに書いてあったはずだ。
「いらっしゃい」
「あらあら、菘くんじゃな~い。久しぶりねェ」
どこからともなくボソボソとした声が聞こえてきて、あたしは素早く辺りを見回した。
「な、なに⁉ 誰⁉」
「佐藤さんと田中さんだ。大丈夫、いい人たちだから」
「え? でも、誰もいないよ」
「まあまあ、失礼な子ねェ~、ここにいるじゃない。コ・コ・に!」
「上を見てごらん、お嬢さん」
「え?」
あたしは声に言われるまま上を見た。
「っぎゃああああ!」
天井にへばりつくようにして、佐藤さんと田中さんとやらはそこにいた。佐藤さんは学ランを着ていて、田中さんはセーラー服を着ている。どちらの制服にも胸ポケットにこの星塚高校の校章が入っている。今はブレザーの制服だが、この学ランとセーラー服は昔のこの高校の制服だったのだろうか。
それにしても、二人はどう考えても人には出来ないことをしていた。まず天井にへばりついているという事。そして、頭が逆さまになって首と繋がっている事だ。
グロテスクすぎる。しかも、首と制服にはなんだかリアルな血の痕がついていたりする。
「く、くくくく首ィィ‼」
思わず指をさして叫び、あたしはスズ兄の後ろに隠れた。
「あ、田中、頭の向き逆だよ」
「あらあらァ、そういう佐藤くんこそォ」
「ほんとだ」
そう言うと、二人は両手で頭を掴み、自分の頭をくるっと一回転させて正常な位置に戻した。
「ごめんよ、お嬢さん。驚かせたね」
「さっきまで頭でキャッチボールしてたからァ。慌てて頭をつけたら上下間違えちゃったァ~。てへ」
「『てへ』って古っ!」とは、さすがにつっこめなかった。
「こ、これが噂の……ゆゆ幽霊⁉」
「まあ、そういうことになるな」
スズ兄は平然と言って、佐藤さんと田中さんに挨拶している。一体ここは何がどうなっているというのだろうか。何もかもがおかしくてどこからどうつっこんで良いのかも分からない。
「佐藤さん、田中さん、こいつは如月翡翠。これからここに来る事になるからよろしく頼むよ」
「わかったよ。よろしく、翡翠さん」
「なになにィ~? 菘くんとはどういう関係なのォ~?」
いやいや、よろしくされても困るんですけど。というか、一体どうしたら幽霊とよろしくするような展開になるんだ。というか、むしろそっちがスズ兄とどういう関係なんですか。
ああ、激しく混乱してきた。とりあえず今日はこの辺で一旦家に帰って、明日もう一度チャレンジしよう。
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