早すぎた紹介

 昼からの合宿は俄然気合が入った。カツカレーだって平らげてやったし、夕飯の焼肉も、自腹で特盛皿を追加注文して腹にぶち込んだ。スパーで腹にもらった日にはカエルのように胃袋ごと吐き出してしまいそうだったが、視界の端でしあわせの兎を感じていたから、どうにでも堪えられた。


 いっそ、カエルでもいいかもしれないと、葵は思った。事実、自分は釈迦堂舞流戦という強暴な蛇に睨まれた、カエル同然なのだから。

 そうだ。カエルでいい。俺は高く飛ぶのだから。



「遅い! 相手が動いてから行動を決めるな。先に自分のかます技を決めておいて、それを実現できるように立ち回れ!」



 春近から怒号のように一喝された。

 彼は素手ステゴロの心得もあるらしく、そしてまたこれが、おそろしく強かった。


 ガードが開いたわずかな隙を容赦なく打ちのめされ、剣道の踏み込み足を応用した近距離からの鋭い膝蹴りによって、葵はとうとう、カエルのようにリングに潰れた。



「はあっ……はぁっ…………もう一本、お願いします」

「よし。立て」



 嬉しそうに、春近は舌なめずりをした。好青年風はどこへやら、鬼のようだった。

 葵は口の端の鉄臭さを乱雑に腕で拭い、負けじと歯を見せる。



「なんでそんなに強いんですか、春近さん。ズルいじゃないですか。俺、聞いたことありますよ。剣道は、薙刀相手とかじゃ、手も足も出ないって」



 あれにも勝てそうですね、なんて軽口を飛ばしてみるが、その程度の嫌味は、彼にとってはそよ風同然らしい。



「簡単な話さ。剣道対薙刀の試合は、脛当て着用に加え、薙刀の構えが半身である性質上、剣道における打突部位の小手・胴・突きが隠されてしまっているし、唯一の面も狙いづらい。だから、薙刀とって完全に有利な対面なんだよ。――一見、な」

「一見……?」



 目を丸くする葵に、春近は笑って、首を縦に振った。



「相手の面しか狙えない状況なんて、剣道対剣道でもざらにあるんだよ。小手は警戒されているし、胴なんて、相手の手元を上げなければそもそも狙うことはできないんだ。そう考えると、途端に条件はイーブンどころか、脛を狙ってよくなる分こちらが有利まである。要は、その状況に応じた戦い方ができるかどうかなんだよ」



 分かるよなと問う目に、葵は頷いた。



「『偏見』を、取っ払うんですね」

「その通り。もちろん、簡単なことじゃあない。『剣道三倍段』という言葉がある。今でこそ、拳一つの相手より三倍有利、なんて言われているが……元々は、槍なんかの長物と戦うためには、相手の三倍の段数を持つくらいに修練しろという意味の教えだったんだ」



 葵は感嘆のため息を漏らした。剣道三倍段という言葉自体は聞いたことがあるが、その本来の意味までは知らなかった。そして同時に、現在では「剣道が有利」という意味に変わってきている、ある種のふてぶてしさにも興味を抱いた。


 刀より槍が強かった時代。槍より騎馬が、騎馬より鉄砲が強かった時代。そうした苦境を乗り越えて、現代日本では、騎馬武者も鉄砲も存在しない。

 ずっと天敵そらを見上げて唱えていた言葉を、自信と誇りに変えてしまうなんて。



「なんすかそれ……サムライ、カッコ良すぎじゃねえすか」

「そう言ってもらえると嬉しいよ。さあ、続きを始めようか」



 構える春近に、葵もグローブを掲げた。


 脳味噌をフルに回転させる。春近から教えられた遠山の目付――すなわち、遠い山を見るように相手の全身を観察する意識で、目を凝らす。


 彼の、剣道の重心配分を取り入れたスタンスは、一般的なキックボクサーよりも半身が薄い。そのまま手を下ろして竹刀を添えれば剣道の構えになるんじゃないかというくらいに、正面に向けて腰が入っていた。いや、違うな。葵は首を振る。ボクシングの構えから下ろして剣道の構えになるのではなく、剣道の構えから腕を上げて、ボクシングの構えにしているのだ。


 だからこそ、一見、片手で顔を庇う構えオンガード・ポジションをとらない春近は、的として大きいように感じる。


 だけどそれは錯覚。むしろ相手の思うつぼだろう。


――先に自分のかます技を決めておいて、それを実現できるように立ち回れ!


 思い返す。教えを反芻する。



「(決めた!)」



 イメージする。間合いを詰めて、攻撃を躱しつつ、側面からフックを叩きこむ自分を。

 気合一閃、葵は飛び込んだ。


 しかしあっさりと、その鼻先をグローブに掠められてしまう。



「……あ、れっ?」



 ひっくり返りながら、葵はぽかーんと口を開けていた。今、何をされた?

 駆け寄ってくれた兎萌に脳震盪のチェックをしてもらいながら、春近に訊ねる。



「カウンターですか」

「正確には少し違うね。今のは、剣道でいう『出端技』だ。おそらく葵くんの思っているカウンターは、剣道でいえば『返し技』に近いだろう」

「違いがまるで分かりません……」



 白旗を揚げる。兎萌がけらけらと笑っていた。



「ボクシングのカウンターはね、練習の時、まずは相手のパンチを受け止めることから始めるのよ。一旦受けて、攻撃を返すから、カウンター。これの『受け止める手』を出すタイミングでパンチを打つと、いわゆるクロスカウンターになるんだけど……」



 そう言ってから、兎萌は一瞬難しい顔になって、「……なんでしたっけ」と春近に助けを求めた。



「カウンターにしろクロスカウンターにしろ、相手の攻撃を見てから叩くことには変わりがないんだ。一方、剣道の出端技では、相手の『攻撃をしようという意志』そのものを叩く。だから先行制圧であって、対処じゃないんだよ」

「……なあ兎萌、まるで言っていることが分からないんだが?」

「……ごめん、私も同感」



 二人して呆気に取られていると、春近が困ったように笑って、顎に指を当てた。



「そうだな。例えば視線の動きだとか、相手の呼吸が一瞬止まったりだとか、フットワークのつま先がこちらに伸びる瞬間だとか。『あ、来た!』ではなくて、『来るっ!』という気配とでも言おうか……」

「まあ、結果的に端から見えているのはクロスカウンターも出端技もそう変わらないから、イメージが湧きにくいのも仕方ないだろうな」



 やってきた勇魚が、そう言って笑い飛ばした。



「葵くんは、キャッチゲームはしたことあるか? 棒とか、重りを付けた紐なんかを落としてもらって、どのくらい早く掴めるか、というアレだ」

「ああ、やったことあります。難しいですよね」

「なら、棒が落とされる前に掴んでしまったことは?」

「ありますあります……あ」



 なるほどそういうことかと、葵は手を打った。

 あの時は確かに、棒そのものよりも、落とす担当の人間の指や手に注目していたように思う。



「ってことは、めっちゃ難しそうですね……」



 がっくりと肩を落とす。見極めることもそうだが、見極められたとして、掴めるかどうかはまた別の話だなんて。

 けれど頼もしいことに、春近と勇魚は揃って「そうでもないぞ」と言い切った。



「簡単に習得できる技はないという点では正解だけれど、気負うことはないよ」

「それにカウンターのパンチは、相手が攻撃しようとした一瞬の体の緊張を突くから、軽い当たりでも重いダメージを与えられたりするんだ。葵くんならできる。頑張れよ」

「春近さん、勇魚さん……俺、二人になら抱かれてもいいっす!」

「へーい? やっぱさっきので頭打ったかしらー?」



 兎萌に頭を小突かれた。正直、春近の出端パンチよりも、今の小突きの方が痛かった。

 そんな風に笑い合っている中、不意にフグの一声がしたかと思うと、入り口の扉が開いた。



「畏れ入ります、羽付勇魚さんはどちらでしょうか」

「はい、私ですが……」

「って、母さん!?」



 聞き覚えのある声だとは思ったが、予想だにしていない来訪者だった。


 母は作業着姿のままで、両手で大きなエコバッグを持ち、勇魚に深々と頭を下げた。



「どうしたの母さん。今、仕事帰り?」

「ううん、休憩中に抜けさせてもらったの。このあとまた、職場に戻るところ」

「そんな。仕事中わざわざ……ありがとうございます。改めまして、羽付勇魚です」



 渡されたバッグには、飲み物やカイロなどがぎっしり詰まっていた。



「こんなにたくさん! お気遣い、申し訳ありません」

「いえ、こちらこそ。愚息がお世話になっております。夫に似て意地っ張りな子ですが、どうかよろしくお願いします」

「か、母さん!」

「お任せください。確かに彼は意地っ張りで、負けん気が強いところがありますね」

「勇魚さんまで……」



 葵は見悶えた。身内が介入する状況でからかわれるのは、どうもむず痒くてたまらない。


 おめおめと逃げ帰ってきた自分に、兎萌が肘で追撃をかけてくる。



「何恥ずかしがってんのよ。素敵なお母さんじゃない」

「べ、別に恥ずかしがってなんかねーし?」

「なら、尚更しゃんとしなさい。あんたが今考えるべきことは、しっかり勝って、留年を取り消させることだよ。お母さんのためにも」



 そう言って目を細くする兎萌に、葵は頷いて返す。

 なぜだか不思議と、全身をよじりたくなるような気恥ずかしさも消えていた。


 そんなこちらに視線を向けた母が、松葉杖に気付いて「兎萌さんですね」と声をかけてくる。



「葵を、キックに誘ってくださって、ありがとうございます」



 そう言ってまた深く頭を垂れる母に、兎萌はテンパって、わたわたと頭を下げ返す。



「何照れてんだよ」

「ばっ、照れてないが!」



 母がいる手前、いつものように一撃をぶち込んで来ることは憚られるようで、兎萌は悔しそうに下唇を噛んでいる。

 それがまた、いじらしくて可愛いと思った。



「なあ母さん。報告があるんだ」

「ん? なにかしら」

「俺、こいつと付き合うことになった」



 にわかに静まり返る空気の中、母がはっと息を呑むのがはっきりと聞こえる。

 不意に、耳元で兎萌が叫んだ。



「ふぁあえええっ!?」

「うわうっさ……」



 突然のことで反応が遅れたが、とりあえず、耳を手で塞いでおく。まるで貝を当てがったときのように、耳の中でキーンと甲高い残響が渦巻いている。



「え、えっ、もう話しちゃうの!?」

「駄目……か?」

「ダメじゃないけど、ダメじゃないんだけど! 告白して半日で親御さんにご挨拶とか急展開過ぎるでしょうが! だいたい、デートだってしないし? ……しかもそれって、やっぱり大会が終わるまでお預けになるだろうし?」



 そこまで言ってから、はたと何かに気付いたらしい兎萌が、鬼の首を取ったかのように快哉を叫んだ。



「そ、そう、大会よ! 私、弱い男が嫌いだし。女にかまけて勝負を落とすとか論外だし。だから……その、つまり、せめて大会で勝ってから言え、バーカ!」

「ひっでえ、そこまで言うか?」

「うるしゃいバーカ!」



 真っ赤な頬を膨らませて、ぽかぽかと手を――もとい、ボコスカと掌底を叩きこんでくる兎萌を受け止める。


 ふと、母の方を見やると、よかったねえよかったねえと目尻を拭う、優しい笑い顔があった。

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