サムライ

 藪を突く勇気も出ないまま、迎えた週末の早朝。


 合宿といっても簡易的なもので、食事こそ外部に頼る必要はあるものの、更衣室のベンチを取り払えば寝床も確保できるため、ほぼジム内で完結できるらしかった。


 件の人物は、明日葉とともにジムへやってきた。



「おはようございます。梨郷さんと、駅前でばったり会いまして」

「和楽足くんも行き先がここだって言うんで、びっくりしちゃいました」



 同級生なんです、と微笑む明日葉の隣で、長い袋を抱えた誠実そうな好青年が、爽やかな笑顔を浮かべている。


 兎萌が肩が外れんばかりに松葉杖を振って彼らを迎えた。



「はーるーちーかーさーん!」

「あまり騒ぐなよ、兎萌ちゃん。まだ怪我が治りきっていないんだろう」

「転んだら支えてくださいな」

「断る。竹刀は杖にするものじゃないからな」

「竹刀じゃなくて、春近さんがよ!」



 じゃれつく兎萌を慣れた身のこなしで掻い潜った春近が、葵に気付いた。



「君が川樋くんだね。勇魚従兄さんから話は聞いてるよ。俺は和楽足春近だ、よろしく」

「うっす……川樋葵です。よろしくお願いします」

「少し硬いね、葵くん。ちょっと失礼するよ」



 そう言って、彼はおもむろに両手のひとさし指を立てると、葵の額とへその下あたりに押し当て、次に腰を骨盤ごと掴んで引き寄せた。


 ほんの、わずかな調整。それだけで、葵は自分の重心のバランスや、呼吸までもが楽になったような気がした。



「えっ、今の、何をしたんですか。魔法!?」

「ははっ、面白いことをいうね。君の体を、武道でいう『自然体』に近づけたんだよ」

「自然体……? それって、楽な姿勢ってことじゃないんですか」



 首を傾げると、春近は顎に指を当て、少し考えてから、言った。



「よくある誤解だね。そのままでいることが楽な姿勢と、そこからパッと動くのに楽な姿勢との違い、といえば分かるかな。葵くんも、キックの時には何となく構えていると思うけれど、そのままずっと腕を上げていろと言われたら、ぶっちゃけキツイだろう?」

「腕が、ぷるぷるしてきそうですね。あと肩も凝りそう」

「その通り。いずれはその姿勢を自然にとれることが望ましいんだけど、はじめのうちは、努めて自然体を作らないとダメなんだよ」



 字面にすると矛盾しているような気がして、少し可笑しかったが、現に体がうずうずし始めている今、説得力はあった。


 兎萌が話す矛盾的理論は、まさに春近の武術的見地から来ているのだと確信した。


 感心を噛みしめるように口の中で反芻していると、兎萌が顔を覗き込んでくる。



「どう? 羽付兄妹が太鼓判を押す、最強の助っ人とのファーストインプレッションは」

「ああ。何か、全く知らないことばかりで、刺激がありそうだ」

「でしょ。これが対釈迦堂舞流戦の秘密兵器! 今日から葵には、剣道とキックを混ぜながら、みっちり詰め込んでもらうからね」



 そう言って、兎萌が握りこぶしを胸に打ち込んできた。


 いつもより五割り増しくらいに強化された基礎トレーニングを、隣で一緒に行っている春近のポーカーフェイスに対抗心をめらめらと燃やしながら、意地で食らいつく。


 初日の午前からハードだったが、覚悟の上だ。

 覚悟の上だった……のだが。



「うっぷ」



 一斉にテーブルに置かれたどんぶりと、ぷはあ、の大合唱の中、葵は一人、青い顔で胃を抱えていた。ここは辛味噌ラーメンの名店で、平日でさえ行列ができることもあるため、早朝練習の直後に並ばされて、今に至る。


 葵と、運動量を抑えている分摂取カロリーも控えめにしている兎萌を除く合宿参加者たちは、基礎練とはいえ厳しいトレーニング後であることをものともせず、ボリュームのあるラーメンを平らげていく。


 まさか明日葉までもが、男性陣と同じペースでスープを飲み干すとは思わなんだ。



「かあーっ! やっぱ修行の時はこれに限るな!」

「「ですねえ!」」



 勇魚の歓声に、明日葉らも顔を綻ばせる。


 葵は、隣で半チャーハンをつついている兎萌に耳打ちした。



「なあ……これ、恒例なの?」

「そうね。春近さんの父方のお爺さんが剣道の師範をされているんだけど、そのお爺さんの教えなのよ。『食って動くから体が燃える。薪をくべねば走られぬ』ってね」

「ひえー。タフだな」

「ちなみに毎年の感じで行くと、今日の昼はカツカレー」

「まじかよ」



 食べざかりの男子高校生であることを天に感謝する。おそらくこの調子であれば、合宿中の食事は三食ともヘビィなのだろう。不安を吐露すると、兎萌が「大丈夫、明日葉さんも一年でアレだから」と指さして笑った。しかし出会った当初ならともかく、かのバーサーカースタイルと対峙した後でなら、「アレ」でも納得できてしまうのが怖ろしい。人を見た目で判断するのはやめようと、葵は心に誓った。


 朝食後、ジムに戻ってきた葵は、他のメンバーが各々ミット打ちなりスパーなりを始めている隅の方で、兎萌と春近に指示を仰いでいた。



「方針はシンプルよ。キック一辺倒の釈迦堂くんに、知識範囲外の技をぶつける」

「ぶつけるって、どうやって?」



 葵の問いに、春近は二本の指を立てた。



「今回の合宿中、葵くんには足捌きと、攻撃における剣道特有の考え方。この二つを重点的に覚えてもらう」



 彼は葵と正対するように右足を前に出して立ち、どこからでもかかってきてくれ、と促す。



「えっ、グローブなしですか」

「構わないよ。さあ」



 相変わらずの爽やかスマイルに、葵は逡巡した。何か算段があるのだろうが、万が一にでも事故が起きてしまっては拙いのではないか。

 そんな心を見透かすように、春近の眼がすう、と細くなった。それにも葵はまた迷った。


 これまで、勇魚も、明日葉も、舞流戦も、拳統王も、そして若狭・弟も。程度の違いこそあれど、みんな一様に『狩人』のような、ギラついた闘志が特徴的だった。


 しかし春近のそれは全くの真逆。正対しているという事実さえ伏せれば、敵意を察せなくても不思議ではないような、穏やかな目の色をしている。最も近いのは、本気になって凪いだ時の明日葉だろうか。


 思考が読めない。ええい、ままよ。


 葵は距離を詰め、右ストレートを伸ばした。明日葉から指導を受けた通りに、頭蓋の中までを射抜くように意識した、渾身の一撃である。

 しかし、グローブが春近の顔を捉える寸前、その体が消えた。文字通り瞬きの間に、後方へと飛び退っていたのだ。


 バックステップ、あるいはステップアウトと呼ばれる回避テクニックはキックにも存在するが、それよりもずっと速く、飛距離も大きいように見える。



一の太刀たんぱつで、終わりかい?」

「ぐっ……」



 挑発され、葵は無我夢中で拳を振るった。しかし、飛び退ったのと同じ速さで左右に回り込まれ、とうとうストレートの裏側を取られてしまった。肩越しに敵の体があっては追撃ができず、慌てて春近に向き直す――そこで一気に間合いを詰められ、鼻先すれすれに現れた春近の顔につんのめった葵は、たまらず尻もちをついた。


 兎萌が「さすが春近さん」と囃し立てるのが、癪に障る。


 葵は不貞腐れて、起き上がらずにそっぽを向いた。



「大丈夫か? 変なところを打ってはいないよな」

「……別に、大丈夫です。すみません」



 練習所のマットは柔らかいから、怪我もない。葵は春近が差し伸べてくれた手を取ることなく、一人で立ち上がった。



「平気そうなら、解説に入ろうか」



 そう言って、春近は剣道における足捌きのギミックを、実演して見せた。


 曰く、後ろ足を引いたり、両足をほぼ同時にスライドさせるようなボクシングのステップとは異なり、剣道では常に『蹴り足』というものが重視されるらしい。進行方向とは逆の足――つまり、後ろに飛びたいなら前足を、前に出たいなら後ろ足が蹴り足となる。


 一般的な剣道の説明においては、例えば前に進むときは『右足を出して、左足を引き付ける』とあったりするが、本当のところは『左足を蹴るから右足が前に出て、蹴った左足が自然と付いてくる』のが正しいようだ。


 跳ねるのではなく、地面を滑るように。見様見真似でやってみるだけでも、感覚の違いに驚いた。これならリングロープ付近に追い詰められてもワタワタと逃げ回らなくて済むし、ダッキングと組み合わせることで、攻撃を掻い潜りながら死角に入ることさえできそうだ。



「ね。すごいでしょ、葵! よく、ネットなんかでは『剣道は竹刀を持たないと最弱』なんて言われるけれど、そんなことないんだよ」



 まるで自分のことのように、兎萌が誇らしげに胸を反らす。



「……あ、ああ。そうだな」

「あんた大丈夫? 顔青いけど、調子悪い?」



 気遣うように覗き込んだ上目遣いがいたたまれなくなって、葵は不愛想に目を逸らした。



「別に……平気だよ」

「いいや、一度切り上げよう。爺さん式の大食い稽古は初めてなんだろう? 自覚していないだけで、体に負担がかかっている可能性はある。俺も最初はそうだった」



 春近が心配げに、そういった。爽やかな上に、優しいときた。



「それじゃあ一度、腹ごなしに軽く歩こうか。どうせなら必勝祈願も兼ねて、熊野大社にでも足を伸ばしたいところだけれど――おーい、勇魚従兄さん!」



 完敗だった。


――俺は絶対あいつに勝ちたい。羽付兎萌を、釈迦堂舞流戦に渡したくない。


 自分にそんな資格はあるのだろうか。舞流戦が兎萌を連れて行こうとしたとき、異を唱えていいのは春近だけじゃなかろうか。兎萌が舞流戦の申し出に毅然としていられたのも、彼の存在があってこそなのではないだろうか。


 少なくとも自分は、手前のミスで点数を落とし、手前のエゴで金髪を残し、お情けでキックに誘われて、それこそ言ってしまえば、舞流戦との戦いだって勢いだ。



「……どの口が、言うんだよ」



 一人勝手に舞い上がっていた情けなさに、葵は拳を握りしめた。

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