余震
決意を新たにしたものの、葵は相変わらずぼっこぼこに伸されていた。
今日は明日葉が不在のため、勇魚が相手をしてくれることになったのだが、これがもう、やりづらいことこの上ないのだ。初日に一度目の当たりにしているとはいえ、この体躯とあの性格からは信じられないような繊細な動きで、こちらのディフェンスを掻い潜って来る。
彼はあまりフェイントの類を使用しないスタイルのようで、ジャブは必ず体に突き刺してくる。そうして相手の腕なり肩なりを揺るがすと、ジャブを放った右拳のまま二発目のストレートを繰り出してくるのが、対処するのに苦労した。
大きく削り取る一撃よりも、確実にぶち当てるスピード重視のインパクト。それは確かに大技より威力が劣るが、例えば誰かが振り返った拍子に偶然当たる肘のようなもので、うずくまるには十分なダメージである。
「はあ、はあ……勇魚さん。なんでそんなにテクニカルにパンチが打てるんですか」
「ちょいと秘密があってな。ポイントは、足だ」
「足っすかー」
リングに大の字になったまま、天井を見上げる。自分もフットワークには気を配れるようになってきたつもりだったが、勇魚の動き方は読みにくい。まるで忍者のようだ。
「もっと頑張るんじゃなかったのかよー。へーい、葵くんのっ! ちょっとイイトコ見ってみったいっ!」
「無茶ぶりだあ」
もう一時間近くぶっ通しでスパーリングをしているのだから、少しは休ませて欲しい。
最近は、翌朝の筋肉痛こそ徐々に薄れてきたものの、練習直後の帰り道などは、未だにしんどいものがあった。
そんなある日、ジムに着いて着替えようとしていたところに、バイト先であったスーパーの上長から連絡があった。病欠による急な欠員が出た上に、上長自身は組合の会議に参加する用向きがあり、葵の勤務していた部門の人手がなくなってしまうというヘルプ要請だ。
一日くらいならと快諾し、久しぶりに野菜と戯れる。以前までなら、二連休など挟もうものなら明けの仕事が怠くて仕方がなかったが、今日は不思議と身体が軽い。
これも、キックを始めたおかげなのだろうか。
「お疲れさまでしたー」
退勤の打刻をして店を出ると、ちょうど、駐車場に滑り込むヘッドライトが二つ。閉店時間を勘違いした客かと思い葵は身構えたが、それは上長の車だった。
「良かった。間に合ったみたいだな」
「マネージャー? お疲れ様です。どうしたんですか、こんな時間に」
驚く葵に、窓から身を乗り出した上長が頭を掻いた。
「急なお願いをしちまったからな。これ、お詫びのお土産」
そう言って、袋を差し出してくる。鶴岡市に本店を構える老舗菓子店の名前が見えた。
「そんな、わざわざすみません。こちらこそ、俺の我儘で休み頂いていて……」
「いいってことよ。若いうちにガンガン挑戦しておけ。むしろ川樋には強くなってもらって、万引き犯や悪質クレーマーをバッタバッタ薙ぎ倒してもらうからな」
「そんな対応してたら一瞬で店潰れますよ……」
呆れかえって苦笑する葵に、上長はがははと盛大に哄笑してからアクセルを踏んだ。
葵は、小さくなっていくテールランプの反射さえ見えなくなるまで、その場で頭を下げる。
ありがたくて、少し鼻水が出てきた。
歩き出したところで、ふと、飲み物のボトルを忘れてきたことに気が付いた。まだ管理者の残る店に引き返したが、そこの事務室や更衣室にはなかった。もちろん、飲んだ記憶がないからバックヤードにもない。となると、ジムの方の更衣室だろう。
十時にもなればほとんどの家の電気が消える山形の夜の静けさの中で、しんしんと歩く。
辿り着いたジムには、明かりが灯ってくれていた。
玄関の前まで進んだところで、違和感を抱き、ドアノブにかけた手が止まる。
ミットを叩く音がする。それ自体は不思議な事ではないが、玄関から確認できる靴はたった二つだった。それも片方は、兎萌の穿いている学生靴である。
「(兎萌がスパーリングをしている……?)」
足音を忍ばせて回り込み、ジムの壁の下側に取り付けられた換気用の小窓から、中の様子を窺う。我ながら不審者のようだと思ったが、そんな可笑しな考えは、すぐに吹き飛んだ。
リング上で、兎萌がミットに怒涛のラッシュを打ち込んでいた。
まだ安静が必要な軸足でのフットワークは捨て、腰の回転だけで生み出す威力は、それだけでも十分、明日葉らに張り合えるのではないかというほどに感じる。
怪我を知らなければ、手負いの獣とはとても思わないだろう。
しかし、やはりどうしても全盛期の勘が働いてしまうのか、足を踏み出そうとしてバランスを崩した兎萌は、脚を庇うようにしながら、リングに頭から倒れ込んだ。
ミットを下ろし、勇魚が眉尻を下げる。
「医者から杖無しで歩いていいと言われて嬉しいのは分かるが、やはり、無理はしないほうがいいんじゃないか」
状態を起こした兎萌が、それに反抗するような乱暴さで、汗を拭う。
「だって、葵が頑張ってるのに、私だけぼさっとなんかしてらんないじゃん!」
「気持ちは分かる。だが駄目だ。もう少し松葉杖生活を続けること。これはトレーナーとしての指示だ」
「ぐっ……分かった。普段はそうするから! パンチだけ、パンチだけでいいから! お願いお兄ちゃん、この通り!」
なりふり構わずの半泣き顔で拝み倒す彼女から、葵はそっと視線を外した。
最寄りのコンビニで栄養ドリンクと、プラス三円で袋を買い、そこに先ほどもらったお菓子から半分ほどを移し入れて、袋をジムのドアノブにかける。
その日、星を数えて帰る足取りは、ずっしりと重みを感じていた。
きっと、冬の澄んだ空に見るあの煌めきを、人類は太古からDNAに記憶しているんだろう。
雪のぱらつくだけのビミョーな曇天模様に、葵は昨夜見上げた星空を思い出していた。ドカ雪でないだけ喜ぶべきなのだろうが、空が曇っているだけで、気持ちは気合とは裏腹に沈みがちである。
玄関で靴を脱いで練習場所に入ると、そこには仁王立ちの脹れっ面があった。
目が合って、瞬き二つ。ややあって彼女は「ん」と不機嫌そうに唸り、袋を差し出してきた。
昨夜更衣室に忘れてきた、マイボトルだ。
「サンキュ。バタバタしてて、出しっぱにしていたみたいでさ」
「………………」
「えっと、兎萌?」
「…………見た?」
「……パンツを?」
「殺すわよ」
蹴り姫様はお冠で、とても女の子が見せてはいけない顔をなさっていた。
葵は仕方なしのため息を吐いてコートを脱ぎ、彼女の憤怒の形相を隠すように引っかけた。
「わぷっ」
「まだ少し、目が腫れてんぞ」
「やだ、うそっ!?」
「嘘」
「うじゃー!!」
コートを引っぺがして牙を剥いてくる猫のような怒り顔。こっちの方が、安心する。
べしべしと振り回されるコートから逃げ切り、ついでに話題も逸らしきって、朝練に取り掛かった。
筋トレも終盤に差し掛かり、兎萌に負荷をかけてもらっての追い込みをしているところで、不意に受付の電話が鳴った。
兎萌は誰からのものか見当が付いていないらしく、怪訝な表情で電話へと向かう。
「はい『南陽アルカディアス』です。――――あ、
突然、彼女の声がツートーンほど上がった。
思いがけない声色に、つい、葵は耳をそばだててしまう。
「おはようございます。朝早くにどうしたんですか? ――お兄ちゃんはまだですけど――え、春近さんが? はい、はいっ! いえいえこちらこそ! お待ちしてます。それじゃ!」
最後まで声のほがらかさが右肩上がりになっていった兎萌は、そうっとフックを押し込むと、受話器を置いて振り返った。
こんなとき、浮かべている満面の笑顔は、眩しすぎて目に痛い。
「葵、良い情報! お兄ちゃんが合宿を計画してて、あんたに最強の助っ人が来るわ!」
「最強の、助っ人?」
「そう。
従兄弟という言葉に、葵の頭が、記憶の海から心当たりをサルベージする。
――今のは剣道をやってる従兄からの受け売りだから。
たしか、喫茶店で『常在戦場』の心構えについて教えてもらった時のことだったか。
だが、合点はいったものの、腑には落ちてくれやしなかった。
「剣道、か。けど、俺がやるのはキックだよな?」
「当然。けど、やって損はないよ。前に葵、お兄ちゃんのファイトスタイルが好きって言ってたでしょう?」
どうにか絞り出した抵抗の言葉も、あっさり棄却されてしまった。別に、自分に何が足りないのかは彼女たちの方が詳しいのだから、ダメ元であるのは重々承知している。
嫉妬と焦燥でぐちゃぐちゃになっている葵の内心には、玄関のドアが開いて一瞬そよいだ寒風も、焼け石に水だ。
フグを繋いでいる勇魚に、兎萌が松葉杖で器用にスキップをして飛びつく。
「もうお兄ちゃん! 合宿どころか、春近さんに声をかけてるなんて、私聞いてないよ」
「今日話すつもりだったんだよ。それにしても春近め、やっぱり律儀にジムの方へ電話かけて来たか……ほんと、真面目だな」
苦笑する勇魚と、相変わらずだねーなんて笑う兎萌とが、笑顔で「週末に合宿するよ」と伝えてきたのに対し、葵は、曖昧に頷くことしかできなかった。
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