志違い野郎(*兎萌視点*)
兎萌は必死の形相で階段を上っていた。松葉杖がもどかしくなって足だけで駆けようとするが、膝が引き攣ったような違和感に、躓いて転ぶ。
「ったくあのバカ。ほいほいチョコに釣られたんじゃないでしょうね!」
トイレに行った葵を見送ってから、大にしては遅すぎる時間が経った。鞄は机に引っかけたままだったし、あのバカ真面目が自分を置いて帰ってしまうわけがないとも分かっていた。
だからこそ、兎萌は待たずに教室を飛び出した。学年問わず、通りかかった生徒たちに片っ端から、金髪の男子を見なかったかと問いただし、ついに「一組の若狭と屋上の方へ向かった」という目撃証言を得た。
冗談じゃない。そこな王子様の先約は私だ。あんたの足じゃあ、ガラスの靴は入らない。
どうにか扉の前まで辿り着き、上がった息を整えていると、飽きる程耳に馴染んだ、しかし学校では聞くはずのない音がするのに気づいた。
足を滑らせるざあーっという音と、じゃっ! と踏み込む鋭い音。フットワークだ。雪解けの水によって強調されて、いやに耳を障ってくる。
だが、若狭が何かの格闘技をやっていたという話は聞いたことがない。
「(若狭、若狭ねえ…………あっ)」
兎萌はスマホを取り出してから、扉を開いた。イライラに任せて勢いよく開いてしまったものだから、大きな音を立て、それにロングヘアの下品な男が気付いた。
数コンマ遅れて、葵がこちらに顔を向ける。
「と、兎萌!?」
まったく、減点だ。そんな奴よりも早く私に気付いて然るべきでしょうに。なんなら階段を上る
「誰だよテメエ!」
「セコンドよ」
スマホのカメラを向けながら、兎萌はにぃ、と口角を吊り上げた。若狭の方に視線を向けると、あらあらまあまあ、とても他人様には見せられない御尊顔ですこと。
さて、いい機会だし。もう少し葵には頑張ってもらいたいところなのだけれど。
「どうぞ、続けて?」
「いやいやいや、止めてくれる流れじゃねえの、コレ!?」
「えー。そんな楽しそうなコトしてるのに、止めちゃうの?」
「これが楽しそうに見えるかっ!」
葵が子犬のように困った顔で吠えてきた。こっちは加点。意気は衰えていない。
兎萌は嬉しくなって、ロン毛くんに向かって声をかけた。
「ねえ、貴方。百目鬼さんのところの若狭雄斗くんでしょう」
「――ッ」
「えっ、知り合いなの?」
「ええ。一応彼も、キックボクサーよ」
そう伝えると、葵は「へえ、どうりで」と、若狭雄斗の足をしげしげと眺める。
そんな中を、舌打ちをしながら横切る影があった。
「あら、逃げるの?」
脚でドアにつっかえ棒をして、若狭姫芽璃のとうせんぼうをしてやる。
「あんたのために、弟くんがヤりあってくれてるんでしょう?」
「うっざ……あんたには関係ないでしょ」
「まあ、あんたがそれでいいなら、いいけど。どのみち、あんたじゃ無理だし」
「はあ?」
不快感を露わにして、若狭姫芽璃が詰め寄ってきた。
「葵の強さを理解できていないあんたじゃ、引き立て役にすらならないって言ってんのよ」
兎萌は長いため息を吐いた。全くこれだから、頭の上を盛るばっかりで中身がスッカスカの手合いは困る。花を咲かせたいなら、
まあ。分からないなら見てなさいな。
スマートホンの録画ボタンを停止して、ポケットに仕舞う。
「扉を開けた時点からカメラは回しているから、これで暴行と喫煙の証拠には十分なり得るわよね。でも黙っててあげる。だから若狭くん、その代わりに、もう少し付き合ってくれないかしら?」
「……はあ?」
若狭雄斗が、姉とそっくりの憎々しい顔で眉を顰めた。
「葵も、今日はパンチ解禁。相手も現役だってんなら、遠慮することはないわ」
「え、えっ?」
「……ったく、意味わっかんねえ。けどまあ? やっていいってんなら、ぶっ殺してやる!」
思ったよりも呑み込みが早かった若狭雄斗が、葵に飛びかかった。
だが葵の方も、明日葉とフグに鍛えられただけあって、躱す足捌きに躊躇いがない。恐怖に膝が軋まないのは、ボクサーにとって最も必要な胆力だ。
けれど、腕の方はどうかしら。
「ほらほら葵、パンチパンチ! 今朝、フグにやろうとしてたみたいに!」
「いや、無茶言うなって!」
焦ったように叫びながら、葵は若狭雄斗の攻撃を躱し続けていく。
少し、意地悪が過ぎたかもしれないと、ちょっぴり、反省。
仰る通り、無茶なのは重々承知。今朝の練習でのあなたは、パンチに踏み切ることができたんじゃあなくって、もう殴るしかないという切羽詰まった状況選択によるもの。もっと乱暴に言ってしまえば、錯乱状態に近い蛮行でしかない。
どうして人を殴ってはいけないのと問われれば、それは単純に秩序の問題だ。自分が自由に他人を攻撃していいのならば、同様に、相手からも自由に攻撃されていいということなのだから。それこそ道で突然殴りかかられて、ふら付こうものならば、あいつが弱っているなら俺も私も殴っておこうとハイエナに寄ってたかられて、あっという間に死体の出来上がり。
一方、どうして人を殴れないのとなれば、それは本能の問題になってくる。
子供を引っ叩いた親は、心ではなく、ちゃんと手のひらが痛いのだ。同様に、ろくな殴り方もできないような素人が人を殴ると、割とあっさり拳をいわしてしまう。
薄々それを感じているから、おつむの弱い奴らは、肩パンだの腹パンだのに逃げる。その方が楽だからで、顔は傷が残るから拙いなどというなんちゃって倫理などでは決してない。
怖いのだ。痛いのだ。自分が拳に乗せた質量が、そっくり返ってくることが。
「カマトトぶってんじゃないわよ、葵。そのブレーキを取っ払いなさい。『ぶっ殺せ』!」
「……あんた、物騒なこというのね」
すっかり興を削がれてしまっているらしい若狭姫芽璃に、兎萌は鼻白む。
「そうかしら? 言葉自体は、オトウトくんと同じでしょう」
ただ、意味が違うだけ。
かつて戦争では、死んできますと遺したらしい。さらに遡れば、死ぬことと見つけたり、なんて言葉まであったりする。こうした日本人に沁み込んだ精神の髄には、脱帽させられる。
ただ死ぬわけじゃない。飼いならされていれば、現代の社畜と変わらない。少なくとも彼らのような士は、自らを指して畜生とは称さない。
殴ることに抵抗を失くせば『
殴れないのか、殴らないのか、その意味は大きく違う。
殴ることしかできないのか、殴ることを選んだのかでは、全く違う。
「あまり自分を見くびらないであげて、葵!」
だから兎萌は、腹の底から咆哮した。
「――ぶちかませ!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます