2月14日

 週末の快晴によってジム前の雪が融け、じゅくじゅくに水を含んでしまっていたため、週明けの朝練は、烏帽子山で行われることとなった。


 ジムからぐるっとを回り込み、烏帽子山八幡宮正面の石段から腿上げで駆け上る。継ぎ目なしのものでは日本一の大きさを誇るという大鳥居を過ぎ、烏帽子山公園の方へと息を整えながら歩くと、幹の欠けた桜があった。


 桜の根元に建てられた案内板にあった、不思議な文言に、腿上げを続けながら留まる。



「輪廻の桜……?」

「あーそれ。なんか厨二心くすぐられるワードよねえ」



 兎萌が、わきわきと松葉杖を震わせて言った。



「親の桜の中に、子の桜が根付いたんですって。だから、輪廻転生の象徴ってことで、そう呼ばれているの」



 へえ、と葵は白い息を吐く。大空には大空の、大地には大地の、自然の神秘がある。まだまだ知らないことばかりだと、改めて思い知らされるようだ。



「どうして、ここに根付こうと思ったんだろうな」



 思いを巡らせていると、兎萌が可笑しそうに笑った。



「葵なら、きっと分かるんじゃないかな」

「俺が? 何で」

「髪」



 二文字だけ口にしてはにかむ彼女に、葵はハッとした。どうして父の髪を守ろうと思ったのか。どうして、父の髪でいたいと思ったのか。



「そっ、か」



 不思議と、すんなり納得できた。神話の神々も案外人間臭いらしいが、自然の一つ一つも八百万の神といわれるくらいだから、きっとそんなものなのだろう。


 最後の階段を上り切り、公園の駐車場まで出たところで、ちょうど、フグの散歩をしていた勇魚と出会った。



「お兄ちゃん、ナイスタイミング! フグのご飯は?」

「いいや、まだだが?」



 それなら良かったと、鼻を膨らませながら兎萌がポケットから袋を取り出す。



「何だそれ」

「茹でたささみだよ。フグの朝ご飯」

「何で持ってるんだよ……」

「そりゃあ、この時間、ここを散歩するって分かっているから用意したに決まってるじゃない」



 そう言うと、千本桜の広場の方へ移動しながら、彼女はこちらの手を引っ張り上げ、もぞもぞと何かをし始めた。


 よく見ると、鶏ささみはパン食い競争のパンのように、ひもで括られている。そこから伸びた部分の紐をこちらの前腕に巻いているのだ。



「あのう、兎萌さん……? 何をされているのでしょう?」

「餌をあんたに付けてんの。あ、ちょっと動かないで。この辺でやるから」



 そう言って、今度は腿の横当たりにも取り付けられた。


 両腕、両腿、両脇腹と計六つのささ身が体に張り付けられた頃、さすがに葵にもこれから起こることが予想できた。視線で勇魚に救いを求めるが、彼は「懐かしいなあ」としみじみ頷いているばかりで取り合ってくれない。



「じゃあ葵、構えて。六つの餌のうち、一つでも取られたら負けだから、頑張って逃げなさい」

「ちょい待ち。フグってシェバードなんだよな?」

「大丈夫大丈夫、躾はしてあるから。体に噛みつかないと取れないような時には、取らないようにしてくれるわ」

「ええー……」



 にわかには信じられない。明日の地方紙に載る未来しか見えないぞ。



「フグが保健所行きにならないよう、気を付けてね――時間は一分。はいスタート!」

「物騒なこと言うなよぉぉぉ!?」



 パンと打ち鳴らされた手を合図に、勇魚の手から離れたフグが、満面の笑顔で突進してきた。


 ハッハッと息せい切って、「かまってくれるの!?」と尻尾をぶんぶん振り回す様子は、今の葵には、獲物を狙うケモノの歓喜にしか見えない。


 フグは普段寝そべっている姿からは想像もつかないスピードでグリップを利かせ、鋭角に跳躍して襲いかかってきた。おいお前、そんなに早く動けたのかよ。


 慌てて構えのポーズを左右切り替え、右腕を引く。ガチン、と空中で歯を打ち鳴らした狩人は、そのまま颯爽と脇をすり抜けていった。


 振り返ると、すでにこちらの足元目がけて爆走してくるのが見える。足を上げて躱そうと試みたが、フグは爆竹のようにたやすく軌道を変え、桜の樹の陰から回り込むと、居ついたままの脇腹目がけて飛んできた。


 避けることしかできないというのは、精神的にきついものがある。人の拳であればまだパリングなりブロッキングなりもできるが、オーストラリアンシェパードの牙相手にそれができるのかと考えれば、途端に恐怖心が勝る。動物虐待のニュースなどはよく見るが、誰も、狼やライオン相手にそうしないのと同じだ。


 いや、むしろ虐待覚悟で突っ込むしかないだろうか。


――危ない時こそ前に前に!


 兎萌コーチもそう言っていたじゃないか。葵は、意を決した。



「うおおおおおお!!」



 人間様の一矢を食らいやがれと、パンチを打つために右拳を振りかぶる。しかしその瞬間、ぼーっと無防備に突き出していた左腕のささみを、颯爽と掻っ攫われてしまった。



「なっ――」

「あははははっ! ひっどーい! フグを殴ろうとしたあ!」



 餌を確保した勝者は、腹を抱えて笑っている兎萌のところまで戻ると、これまた嬉しそうに尻尾を振って、食べていい? 食べていい? とすり寄る。その頭を兎萌が撫で、餌を括った紐を外してやると、フグははふはふと動き回りながらささみを貪り始めた。



「ぜえ……ぜえ……、こ、殺されるかと思った……」

「腰が抜けなかっただけ上々よ」



 ささみを外してくれながら慰められるが、葵はどうも釈然としないでいた。こんな無茶ぶり、誰がクリアできるっていうのだろう。



「そんな顔しないでよ。ごめんってば。でも、良いトレーニングになるでしょう?」

「まあ、そりゃあ……」

「お詫びにご褒美をあげるから。今日の放課後、空けといてね」

「へ?」



 思わず、浮かせかけた足が止まる。ここ数日は完全に練習のために時間を使っているというから、わざわざ言われなくてもそのつもりだったのだが。

 どういうことなのか訊ねようとした言葉は、フグをわっしわっしと撫で回しに行ってしまった兎萌の背中に届かないまま、公園を吹き抜けていった風に消えた。











「は、俺……?」



 放課後、まずはトイレを済ませようと席を立った葵は、用を済ませたところで、隣のクラスの女子から呼び止められた。



「うん。ちょっと、屋上まで来てほしいなって」



 相手は、学年でも指折りに可愛いと噂の人物だった。確か名前は、若狭と言ったか。


 葵は顔に出さないよう、内心で毒づいた。厄介なのに目を付けられた。


――問題は、そんな野球部くんに告白をしては連敗中っていう、隣のクラスの美少女お嬢様。


 彼女こそ、裏で生徒たちをそそのかし、兎萌をハブにすることに躍起になっていた張本人である。大方、あいつと行動を共にしている自分が目障りになったのだろう。


 ぶっちゃけ、隣のクラスなんだから、放っておいて欲しいのだが。



「ダメ、かな?」



 ふるふると潤ませた上目遣いでこちらを窺ってくる。一体どこからどうやって、そんな鬱陶しいテクニックを仕入れてくるのか。女子の不思議だ。



「俺、用事があるんだけど……ここじゃ駄目かな?」

「あまり他の人に見られたくなくって。分かるでしょう?」



 ビンゴ。そりゃあ分かるとも。こちとら、焼きそばパンを買うのに校舎裏まで引きずられたこともある人間なのだから。


――今日の放課後、空けといてね。


 兎萌には申し訳ないが、後々面倒になっては事だ。葵は大人しく、若狭に続いて階段を上ることにした。



「鍵はどうしたの?」

「鍵? 開いてたよ?」



 はい、嘘。職員室で借りなければ入手できない鍵を持ってきたならば、そのような解答にはならない。そしてもう一つ、今現在その鍵付き扉は「開いて」いる。これから開けるのではなく、既に開いている。何のために? 決まっている。いじめの準備だ。


 手慣れた様子で開けられた扉の先は、まだ雪が残っているものの、週末のおかげで思っていたより綺麗になっていた。

 そんな中、フェンスにもたれかかって煙草を咥えている男が一人。男にしては長めの髪の奥に、ピアスが覗いている。葵は頭を抱えた。自分の金髪が許されず、アレは許されるのか。



「ええと、彼は?」

「弟だよ。一個違いなの」



 ふうん、と生返事を返す。目が合うと、弟クンはにたにたと厭らしく歯を剥いてきた。

 何発殴られるだろうか。そう考えながら、葵は自分が、存外楽観視していることに気が付いて、少し可笑しくなった。兎萌や、舞流戦や、明日葉や、フグと比べれば、気が楽だ。



「今日、呼び出した理由は、分かってる……よね?」

「うん。まあ」

「良かったあ。じゃあこれ、受け取ってください!」



 若狭はそう言って、後ろに回していた手を、差し出してきた。

 葵は目を疑う。赤い包みラッピングされた、手のひら大の箱。リボンがハート型に結ばれたそれは、全く予想していなかったものだった。



「……えっ、プレゼント?」

「もう、分かってたく・せ・に。今日はバレンタインだよ?」

「いや、俺には縁のない日だし……つうか、そもそも、どうして俺に?」

「だって川樋くん、なんか最近カッコよくなったよね。筋肉とか、付いてきてさ。金髪も、ハーフのモデルさんみたいで、すごくイイよね」

「はいぃ……?」



 確かに、烈しくしごかれたおかげで、随分腹回りがすっきりしてきたのは自分でも気づいていた。筋肉も付いてきているせいか、体重の数値だけは微々たる減少しかしていないことは半ばショックだったが、そこは兎萌からも、数字で追いかけるなと釘を刺されている。



「川樋くん。私と付き合ってください」



 そんな、自分の頑張りを、他の人からも認めてもらえるのは――



「ごめんなさい」



 反吐が出るくらい気持ちが悪かった。


 いやいやいや、ねえだろ。つい先日まで陰キャラに触るような扱いをしてきておいて、キックを始めたことを知っても粗暴者扱いをしてきておいて。これかよ。いやねえわ。だいたい後ろの弟クンは何だよ。ここであんたみたいなのを選ぼうとするのは、動画サイトの広告に出てくる主人公くらいだわ。毛が無くなったくらいで付き合えるんならテメエがジョモ○ン持ってこい。痩せただけで付き合えるってんなら、付き合ってから一緒に運動でも誘ってみやがれ。


 胸糞悪い。雛鳥のように結果だけついばむことは一丁前で。そのくせ餌には文句を垂れて。


 葵は拳を握り締め、ぐっと胸やけを堪えた。思い返すのは、一緒にぶちかまそうと誘ってくれた兎萌や、バイトよりもキックに打ち込めと許してくれた母。


 そして、俺にこの髪をくれた父だ。



「ちっ、なーんだ。ざっけやがって。シラケるわー」



 不意に、底冷えのするような低音へと化けた若狭の声に、葵は驚いて顔を上げる。



「あのクソキック女のお気に入りを弄べば、あいつに身の程を分からせてやれると思ったのに。やっぱバカと一緒にいるのはバカかあ」



 一切取り繕わない品のない笑みを貼り付けた若狭は、弟から煙草を一本受け取って火を点けると、「あああ!」という苛立ちと一緒に煙を吐き捨てた。



「ユウト、やっちゃっていいよ」

「りょー」



 選手交代した弟が、気怠そうに踵を擦りながらやってくる。

 やがてこちらの目の前までやってくると、上から下まで、舐め回すようにガンをくれてから、ふうっ、と顔に煙草の煙を吹きかけてきた。



「今からお前殺すから――な!」



 振り抜かれたパンチに、葵は反射的に飛び退いた。

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