楽園の空
約束の週末、待ち合わせ場所の駅前に立っていると、ラインの通知から少しして、勇魚の運転する車がやってきた。
挨拶とともに兎萌が助手席から飛び出して来て、後部座席のドアを開けてくれる。
葵は目を瞬かせた。ピンクだった。もこもこだった。昨日の明日葉の私服をもこいちとして表すならば、目の前にいる誰かさんはもこさんかもこよんくらいあるだろう。
「何か……変?」
こちらの視線に気づいて、しなを作って見せるものだから、もうお前誰だよ状態だった。
「変じゃないのが変なんだよぉ!!」
薄めにピンクがかかったボアブルゾンのコートがふわっふわで、スカートまで履いちゃってまあ。ブーツももこもこのやつじゃん。え、なにそれ。女の子が履くやつじゃん。
晴天に恵まれた空模様の中、車の白がレフ版のようになって、きらきらして見える。
「なんなんだよ、もっとこう……キックに人生捧げて来たからそういうのに縁がないみたいな感じで来いよォ……クソダサジャージとかで来いよォ……」
「いやあ、私は一度飛んでるから服装関係ないし? 膝締め付けられるとだるいから、当面パンツはイヤだし? それに、縁がないのは本当よ。ゴリラだし」
「理由だけは可愛げがねえんだよな! うん知ってた!」
こちらの複雑な心境などおかまいなしに、早速女の子らしからぬ力を発揮して車に押し込んでくれた兎萌は、そのまま「奥につめて」と自分も後部座席に乗り込んできた。
ちょこんとお澄まし顔で居住まいを正す頬を、指でつつく。
「お前助手席に乗ってなかった?」
「だって。葵に話しかけるとき、いちいち首回すのめんどいじゃん」
「……ええと、勇魚さんはいいんすか?」
「手を出したら殺すがな。あと君にお義兄さんと呼ばれる筋合いはなぁぁい!」
言ってねえよ。そんなツッコミも空しく、車は走り出した。バイパスに一度乗ってから、山路へ逸れていく。スカイパークまでの交通量があるためか、意外にも除雪は行き届いていた。
「フグは?」
「今日はおるすばーん。あ、見て見て、今奥になんかいた! カモシカかな!」
「どこ――わぷっ」
ほらあそこ、と背中にのしかかられる。車内の消臭剤の香りとは別のものが、髪と一緒にしなだれてきた。窓に押し付けられながら、これが噂の壁ドンかーいやそんなわけねーよなあはははははと、葵は必死で平静を保った。結局、件の動物は見つからなかった。
駐車場は十分一山の展望台というだけあって、置賜盆地を見渡せる絶景だった。雪が融ける頃には、夜景スポットとしても重宝されそうなくらいに。
「秋になると、霧が多くなって雲海も見られるんだよ。竹田城にだって負けないんだから」
「へえ。季節によって表情が変わるんだな」
雪の銀世界と、幻想の霧による銀世界、見え方がどう変わるかと思うと、胸が躍った。
この時期、さすがにこれ以上は車で登れないということで、フライト場所へは施設からの送迎のスノーモービルで向かうことになった。
「ようこそ、川樋くん。お待ちしておりました」
テイクオフ場所へ着くと、ヘルメットを着けた快活そうな女性が声をかけてきた。
「えっ、どうして俺の名前を……?」
「
「奥さん!?」
驚いて振り返ると、そこでは勇魚が照れくさそうに鼻を掻いていた。
「まさか結婚していたとは思いませんでしたよ。指輪付けてませんし」
「キックの時には危険だからな。だが、その、今は……な!」
そう言って、ドヤ顔で見せてきた左手には、きちんと指輪が通されていた。すごく幸せそうである。幸せそうなんだが……正直、男のもじもじする様は目に余るものがあった。
「というわけで、勇魚の妻の衣流香です。よろしく」
「よ、よろしくお願いします」
衝撃の事実を受け止めきれないまま、兎萌に続いてヘルメットの装着をしてもらう。
「あの、俺初めてなんですけど。こんな高さから大丈夫なんですかね」
「大丈夫ですよ。体験コースはタンデムといって、教官との二人乗りで行いますから」
その言葉に、葵は少し緊張の糸がほぐれた。
しかし、まだ高所への恐怖感が残っている。装備は万全、プロ同乗の上であっても、そうそう打ち消せるものではない。怖いものは怖いのだ。
ふと、そこであることに気付く。
「二人乗り、ですよね」
「はい」
「それは衣流香さんとですよね? なんであいつもヘルメット被ってるんですか?」
「えっ?」
「えっ?」
想定していたものと全く答えが返ってきた。葵が兎萌の方を指さしたまま固まっていると、衣流香はもう、と呆れたように頬を膨らませる。
「兎萌ちゃん、何も言ってないの?」
「あー、うん。別に言う必要ないかなー、って」
「えっ、と……ドウイウコトデス?」
戸惑う葵に、ドッキリの仕掛人様は舌ペロとピースサインをくれた。
「私、というかうちの家族、インストラクターの資格持ってます。どや」
「どや、じゃねえよ。足は大丈夫なのか?」
「ふっふっふ。南陽スカイパークはね、車椅子用フライトの始まりの地なのですよ!」
どこかで聞いたことがあるような道具紹介のメロディを口ずさみながら、兎萌が奥の方を指し示す。そこには、空飛ぶゴンドラがあった。
「タンデムするだけなら必要ないんだけどね、今日はどうしても、私も一緒に飛んでおきたかったから。んで、そうなると葵には、本来インストラクターが乗る位置になっちゃうわけで、そういった諸々の準備も兼ねて、衣流香お義姉さんに来てもらったってわけ」
操縦は私がするから安心してと、言葉とは裏腹にわざと不安をあおるようなしたり顔を残して、彼女はよたよたと、松葉杖なしの足取りで車椅子グライダーに乗り込んだ。
葵は衣流香の指示に従って、グライダーに近づく。車椅子の背もたれ後ろにハーネスが付いており、全体的に車椅子に抱きつくような形で乗り込むようだ。
「ブレークコードの端っこ――そうそれ、その手すりみたいになっているとこ。そこ持ってて。翼に繋がるロープには触らないようにね、それで私が操縦するから」
真剣な声色の兎萌に、これから本格的に空を飛ぶのだということを悟る。
葵は、いつの間に高くまで上ってきていた太陽を仰いで、祈った。
「ええと……心の準備が整うまで、もう少し待っていてもらっていいか?」
「なあに、日和ってんの? まあ、この時間はほぼ貸し切り状態にしてもらっているし、ちょっと世間話でもしましょうか」
「世間話?」
「葵は、好きな人とかいるの?」
「す、すすすっ!?」
そこでテンパったのが運の尽きだった。お茶目に「えいっ♪」と言いながら切られたスタートを、素人が勝手に止めることなどできようはずもなく、
「おんぎゃあああああああああ――――――――――――!?」
体が浮いていく感覚に悲鳴を上げる。思ったよりも速度が出ていて、雪の中の枯れ木が漫画の強調線のように眼下を流れていくのに、ぎゅっと目を瞑った。
「大丈夫。ゆっくり三つ深呼吸してから、瞼を開いてみて」
風が語り掛けてくるような優しい囁きに、震える胸で深呼吸をする。高所なだけあって、やはり空気は幾分か冷たく、薄い。三度目の呼吸ともなると、体の方も順応しようとしているようで、いくらか落ち着いてきた。
意を決して、そっと目を開ける。
「これが……
町がきらめいていた。白竜湖も、バイパス沿いのスーパーの広場も、そこから入ったところの龍上海や、先日行った喫茶店も、はっきり見える。隣が烏帽子山だから、春先にフライトすれば、あの辺りに千本桜の絨毯が見られるのだろう。自宅を空から見るのも新鮮だった。
ここに来るまでの展望台や、フライト直前の斜面からの景色は知っていたが、それら『眺める景色』とはまた一線を画す、『見下ろす景色』の美しさ。一面に広がる光のさざ波という、冬場だからこその絶景は、まるで神秘的な海の中を泳いでいるようでもあった。
グライダーは上昇気流を受け、流れるように空を舞う。ふと、鳥が飛んでいるのを見て、葵は自分がそれよりも高い場所にいることを知った。
鳥に憧れた人類が、鳥よりも高い場所で風を受けている。
国道十三号の伸びる先を、どこまでも目で追えそうな気さえする。その先のどこまででも、飛んでいけそうな気になってくる。
たっぷりとフライトを味わってから、葵たちはランディングポイントへと到達した。着陸した車椅子グライダーの下へ、車で先回りしていたらしい勇魚夫妻がやって来る。
「すっげえな! 最高だった! これが空からの――テッペンからの景色か!」
ハーネスを外してもらうが早いか、興奮のあまりに飛びついてしまったが、それを兎萌は大手を拡げて受け止めてくれた。
「そうよ。あんたはいつか、この景色を見るようになるの。鳥瞰だとか、雲の上からだとか、そんなシケたことはナシ。もっと、もっともっと高いところに登り詰めるの」
「ああ。その時も、お前と一緒だ!」
「言うじゃない。釈迦堂舞流戦に負けるようなら、置いていっちゃうけど?」
挑発的に細める目を、しっかりと見据え返す。セコンドとして試されているのだ。お前は私が付くに値する
答えは決まっている。ついさっき、空の中で確信した。
「上等! 兎萌が傍にいるなら、負ける気はしねえよ!」
「なっ……」
兎萌の顔が真っ赤になった。レギンスを穿いているとはいえ、山の上にスカートでいるせいだろうか。もっとも、そんなわけがないことはちょっと考えれば、あるいは背後での勇魚の小言と衣流香の笑い声が聞こえていれば分かることなのだろうが。
初フライトの景色と、垣間見た未来に興奮しきった葵には、全く届いていなかった。
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