狂戦士

 葵は耳を疑った。ちょっと待て。基本練習で垣間見せた鬼コーチの顔を指して、真剣な明日葉にゴリラ呼ばわりは失礼という類の意味じゃあないのか。


 緊張と好奇心で早速汗ばみながら、場所を空けてもらったリングに立つ。


 兎萌がこちらに、ミットを二つとヘッドギアを放り込んできた。



「本当なら、受け手側が導いて打たせるんだけど、今日は変則ね。あんたがミットを付けて、明日葉さんのパンチを全部パリングしなさい。さっきやったの、覚えてるでしょ?」

「ああ、相手の攻撃を受け流すんだよな」



 手のひらで弾くように攻撃の軌道を逸らす防御法を、教わった通りにエアーで示すと、兎萌はうむりと大仰に頷いて見せた。どこぞの仙人か。



「明日葉さーん! とりあえず初回はキックなしで、でもヤっちゃっていいですんでー!」



 元気に不穏なことを伝える兎萌に、明日葉が親指を立てて見せた。



「(い、嫌な予感しかしねえ……)」



 果たして、葵の懸念はすぐに現実のものとなった。


 兎萌がゴングを鳴らした瞬間、明日葉の目の色が波のようにすうっと引き、代わりにギラついた野性の獣が押し寄せたのだ。葵の知識の中で例えるのならば、漫画に出てくるような、死と隣り合わせの世界ですり減った、獰猛な兵士の眼に似ている。


 車のハンドルを握ると性格が変わる人間などがいることは知っているが、キックの世界にも、グローブを付け、ゴングがスイッチとなって豹変するタイプがいるらしい。


 とぐろを巻くようにステップを整えてから、一瞬で繰り出してきたパンチを受けることに成功し、安堵したのも束の間、すぐに二の太刀が振り払われる。


 ワン、ツー、いずれも防ぎ、葵は腰が引けるままに後退。その距離を猛然と埋めてくる明日葉の追撃には、どうにか頭の真横にミットを差し込むことに成功したが、パリングどころかブロックすらままならず、葵は衝撃に大きくよろめいた。


 まるで大鎌で首を刈られるような気分だった。この細身のどこにそんなパワーがあるのか不思議なほどである。それこそ、威力だけなら舞流戦にも劣らないだろう。



「もっと前に出なさい! 危ない時こそ前に前に!」



 兎萌の声に、どうにか踏ん張りながら立ち回る。


 はじめは無茶な要求だと思ったが、何発も受けているうちに、少しはコツを掴んできたような気がする。逃げ回りながらパンチを払うより、半歩踏み込んで、相手の手首や肘など、根元から弾き飛ばした方が安全であるし、何よりその後にフットワークの自由が利く。


 棘のロープが張られたリング端から、少しずつリング中央へと、状況を仕切り直していく。



 気持ちに余裕が生まれると、明日葉の動きもだいぶ視認できるようになってきた。ジャブとストレートとでは軌道こそ似ているが、その根元である肩に注目すると、けっこう『攻撃の意思』に差があるらしい。


――例えば顔を狙う時には、常に相手の脳髄を狙うイメージでやってみてね。


 首刈の鎌に感じた由縁はそこなのだ。相手を牽制し、あるいは崩すためのジャブと、当たれば必殺の一撃となるべくして放つストレートでは、どうしても『出し方』に差が出てくる。


 どうにか捌ける。そう、葵の頬に笑みが漏れた。



 その時だった。鏡映しのように、明日葉までもが笑みを漏らしたのだ。



「えっ――?」



 空気が変わったことで、葵の脳がぐちゃぐちゃに混乱し、警鐘を鳴らす。ついさっきまで感じていた、明日葉の戦闘狂めいた圧力が一気に消え失せたのだ。


 凪だった。さついの香りはしているのに、こうげきの気配がまるで感じられない。


 思わず、足が止まる。警戒態勢が鈍ってしまう。


 その刹那、蜃気楼に風が吹いたように、明日葉の体が揺らいだように見えた。それが攻撃を放ったからであると気付いたが、時すでに遅し。ミットが掠った程度ではグローブの勢いは止まらず、葵はもろに一発をもらって、リングに倒れ込んだ。


 ゴングが鳴り、憑き物が落ちたように普段の表情になった明日葉が手を差し伸べてくれるものだから、葵は体を起こしてもらいながら、ただただ目を白黒させていた。



 リングを降りると兎萌の愉快そうな顔が迎えてくれた。



「ほいお疲れー。どうだった?」

「何が起こったか分かんなかった……色々と」

「あははっ、でしょうねえ」



 ミットと交換でボトルを受け取り、スポーツドリンクで喉を潤す。動いた後だからか、薄めたものでも体に沁みた。



「最後のアレ、何ですか?」

「最後のアレ?」



 明日葉は無意識だったのか、思い当たる節がないようだった。そこでまた、兎萌が「でしょうねえ」と含みを持たせて笑う。



「訊いても分からないわよ。私たちから見ればバーサーカータイプだけれど、本人にとっては普通だからね。アレを言葉にするならば、そうね……『本気マジになった』ってところかしら」

「えっ、それって最初からじゃあないのか?」



 葵は驚いたが、兎萌は指を振って否定した。



「真剣のマジと本気のマジは違うのよ。ほら、マラソン選手だって、最初からラストスパートの走りをするわけじゃないけれど、序盤の手を抜いているわけじゃないでしょう?」

「言われてみれば、そうだな」

「開始直後から葵が感じていたのは、ただの気迫。バーサーカータイプの本当に恐ろしいところは、目に見えていた気迫の威圧感が引いた後なのよ。そこはリング上で、嵐が去ってなんかいやしないのに、ほとんどの人が、嵐を見失ってしまうの」



 天然モノのミスディレクションねと、兎萌は言った。



「さっきから人のことをバーサーカーバーサーカーって、酷くないかしら」

「ええ……明日葉さん、そこでカマトトぶります?」



 二人は冗談を交わして笑い合う。ここで、いや実際アレはバーサーカーっすよ、と口にする度胸は、葵にはなかった。


 口元に手を当て、まだ笑いの余韻を残しながら、明日葉がこちらを見た。



「けれど、どんどん感覚を掴んでいく葵くんに妬けちゃったのは、本当よ」

「マジすか」

「ほらそこ鼻の下伸ばさない。まだまだなんだからね」



 横槍が入れられた。美人に褒められる喜びを少しくらい噛みしめさせて欲しい。



「ともあれ、時期は早いけど時間もないし、これから暫く、葵はスパーで攻撃禁止ね」

「時間がないのに禁止なのか?」

「時間がないからこそ、よ。防御は一番大事なの」



 指を振って訂正する兎萌に、明日葉が腕を組んで大きく頷いた。



「そもそも武術のはじまりは、状況的弱者が強者に蹂躙されないためのものなのよ。今では競技の側面が強くなって、半ば形骸化してきているけれど……、比較的近年に生まれた截拳道なんかも、その文字からして、困難や暴力、つまり拳をさえぎる人生みちという意味があるの」

「もち、競技的にも重要よ。今はヘッドギア付けさせてるから平気だけど、試合でパンチを防ぎ損ねて出血した場合、本人は戦えるつもりでも、ドクターストップっていう事実上の失格宣言をされてしまうことがあるんだから」



 経験があるのか、彼女たちの肩越しに、何人かのジム生が頷いていた。



「が、頑張ります……」



 その日はそれから、バーサークモードを憚ることなく解放させた明日葉によってしばき倒され、兎萌から終了を告げられる頃には、満身創痍になっていた。


 体じゅうが真っ赤に腫れ、グローブが掠めたところなどはミミズ腫れができている。更衣室でシャワーを浴びようものなら、針が降り注いだかのように痛んだ。



 ふらふらの足取りでは雪道が不安だと、兎萌が付き添ってくれながらジムを後にする。



「松葉杖付いてる女子に送られるってどうなんだ……」

「なにを言うかと思えばあーた。そういうのは、一丁前になってから言いなさいな」



 けらけらと一蹴される。


 気が収まらないならばと要求されたコンビニの肉まんを献上すると、半分に割ったものを渡された。喫煙所から外れたところの壁に並んで寄りかかって、ほかほかの肉まんに噛りつくと、じゅわっと肉汁が、食堂から胃まで伝っていくのが分かった。


 人生で一番美味しいと感じられた。きっと、戦うということは命にかかわることだから、自分の中の本能が求めているのかもしれない。


 包み紙をくしゃくしゃに丸めながら、ふと、兎萌が思いついたように言った。



「葵って、パラグライダーはやったことある?」

「スカイパークの? 言われてみれば、やったことねえなあ」



 ここ南陽市は、スカイスポーツのメッカとしても知られている。山形市から国道13号に乗って南下してくると、山から下るように南陽が見渡せる場所に出るのだが、右手の市街地側ではなく、左手を望んだ時に見えるのが、見事な山々である。


 県立の自然公園に整備された『南陽スカイパーク』では、標高五百メートルの十分一山と、連なった七百メートルの高ツムジ山からの体験コースも開かれており、市街地から山を仰げば、いつだって赤や緑の点が舞っている様子が見受けられる。


 だが、南陽市民だからといって、経験があるわけじゃあない。



「じゃあ、行こっか。先週から解禁されたのよ」

「度胸試しってやつだな」



 少し高いところは苦手だったから、腰が引けそうになる。しかし兎萌は、「試すんじゃないよ」と、ポケットに肉まんのゴミを突っ込みながら、言った。



「イメージの構築。私たちはテッペン目指すんだから、まずは南陽全体をテッペンから見下ろそうってわけ」



 約束ねと笑って、うんと伸びをした彼女は、すぐに今夜の晩ご飯に思いを巡らせながら壁から腰を浮かせた。その大物らしさに、葵も思わず笑った。むしろこういう時、女子って「肉まん食べたから晩ご飯いらない」とか言うもんじゃないのか、お前は。

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