ビター・スウィート・アンド・マッスル

 拳に、重たい衝撃が走った。手首、肘、肩と稲妻のように駆け抜けたそれは、心臓に到達してどくんと跳ねさせる。


 吹き飛んで顔を押さえる若狭雄斗を尻目に、葵は呆然と、手のひらを見つめていた。

 この感覚は知っている。もっとも、あの時よりは数段実感が劣るが、これは。



「舞流戦をぶん殴った時の感触だ……」

「正解」



 いつのまに近くへやってきていた兎萌が、肩にそっと手を置いてきた。



「おまっ、釈迦堂さんを殴った、だと?」



 若狭雄斗は尻もちをついたまま、弱々しく後退った。その顔にはもう、下卑た薄笑いはない。



「何者なんだよ……おい姉ちゃん! こいつがキック始めて二週間とか嘘だろ!? そんな新人がありえるはずねえ!」



 詰め寄られて狼狽える姉の代わりに、兎萌が「残念だけれど、本当よ」と告げてやると、若狭雄斗は何度も何度も首を振りながら、ついに屋上から飛び出して行ってしまった。



「吸殻忘れてるわよー」



 慌てて後を追おうとする姉の背中に、兎萌がゴミを放り投げる。しかし彼女は拾うこともしないで、踵を返した。


 台風一過。どっと疲れの出た葵は、そのままへたりこんだ。尻が少し濡れたが、今はそんなこと、どうでもよかった。



「あーあー、へたりこんじゃって。そんなんじゃ、舞流戦には届かないぞー?」

「無茶言うなよ。意思を持って戦うのと、よく分かんないトラブルに巻き込まれてテンパるのとじゃあ話が別だろ」



 そこまで愚痴ってから、ふと、葵は首を傾げた。



「あー……未経験者とルーキーの違いってこういうことか」

「分かってきたじゃない」



 微笑みながら、兎萌が隣に腰を下ろす。濡れるぞ。どうせジムで着替えるし。それだけのやりとりをして、沈黙が流れた。


 冬の寒気で透き通った空には、穏やかに雲が流れている。



「なあ」

「ん?」

「ここまで階段上るの大変だったろ。どうして来てくれたんだ?」



 ぼやっと空に問いかけても、答えはない。

 自分でも、何て答えて欲しかったか分からなくて、葵もまた、押し黙った。



「だって、約束したから」



 ぶっきらぼうな声に首を向けると、目の前に可愛らしい箱が付き出された。


 丁寧だが、なんとなく市販のものではないと見て取れる、シンプルなラッピング。うさぎのシールで留められているリボンの傍らに、『葵へ』と書いてあった。

 心なしか、受け取る手が恭しくなる。


 促されるままに包みを開くと、ブラックとホワイト、交互に詰められたチョコが並んでいた。



「作ってくれたのか」

「まあ、チョコ溶かしてプロテインを混ぜただけだけど?」



 気恥ずかしそうに、ツンと横を向く唇が愛らしい。


 ホワイトチョコを一つつまむと、ほんのりバナナの香りが追いかけてきた。



「すげえ美味いな、これ」



 二つ目に手を伸ばそうとしたところで、ふと、葵は手を止めた。


 自分の手が震えていることに気が付いた。



「なあに、震えるほど嬉しかったの?」

「いや……」



 イエスと答えられたのなら少しは格好もつけられたのだろうが、葵の心境は違った。

 兎萌からのチョコにとくとくと震えているのは心臓であり、手じゃあない。



「……俺、人を殴った」



 今さらながらに湧いてきた実感に、背骨が抜けたような錯覚を覚える。

 そんな腰抜けの手のひらを、兎萌はそっと包み込んでくれた。



「その恐怖をちゃんと抱えられるなら、一流よ」



 そう言って微笑んでから、彼女は「しゃーないわねえ」とチョコを一粒、唇でつまみあげ、



「ほれ。こっち向いて」



 キスをするように、口移しをしてきた。



「な、ななななな――」

「あー、落とした! ひっどーい!」

「いや、あの、すまん! じゃなくって、今の何!? 手で良かったじゃん!」



 飛び上がった拍子に転がったチョコをよそに、葵はわたわたと弁解する。



「だってほら、手は、あいつらのタバコの吸い殻拾っちゃってばっちいから」

「反対の手!」

「松葉杖持ってますし」

「いや置けよ!」

「うるさい。いいから落としたやつも這いつくばって食べなさい!」



 ぎゃあぎゃあと取っ組み合いのようになりながら、落としたチョコを押し付け合う。


 転げ回ったことで制服がびしゃびしゃに汚れ、原因を説明された母からしこたまお説教をされるまで、あと四時間のことである。

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