宣戦布告
悪いことをして呼び出されたわけでもないのだから、緊張する必要はないはず。しかし、兎萌から言い渡された顧問の名前には動揺を隠せずにいた。
今朝のクラスメイトたちのものとは違い、しっかりとこちらに向けられた視線の数々に、それはそれで居心地の悪さを感じながら、目的の場所へと進む。
デスクへ向かっていた上野は、氷点下にまで冷えた目でこちらを一瞥すると、手を止め、こちらへ向き直った。自分のような『不良生徒』にも、きちんと相対はしてくれるらしい。
「なんでしょう」
「あ、あのっ、部活の入部届を持ってきました!」
紙を差し出すと、ざっくり目を通した上野が、驚愕に目を見開いた。
ああ、この人の目もこんなに開くことがあるのだなと思うと、緊張の糸が緩む。
「今朝、羽付さんが用紙を欲しいと言って来た時によもやと思いましたが。まさか、本当に貴方だったとはね」
そう言うなり、上野はがっくりと肩を落とした。
「梨郷さんのことといい、羽付さんはどうしてこう、問題児ばかりに目を付けるのかしら……」
その名前に聞き覚えはあった。ジムに連れられた時に会った、明日葉のことだ。
しかし、彼女から感じた雰囲気は、穏やかで品がある、いわば女性らしさそのもの。問題児などと呼ばれるようなイメージとは縁遠い、才媛のようだった。
だが、昨年卒業したということだから、顧問として顔を知っていて、かつ兎萌と関わりもあっただろう期間を鑑みると、辻褄は合う。
「あの、それって――」
明日葉らしき人物について尋ねようとしたが、出かかった言葉は、上野の「ともかく」という言葉に打ち消された。
「川樋さんは、二ヶ月で本当に結果を出せると思っているのですか?」
「それは……」
言葉に詰まった。根拠など何もなかった。あるとすれば、兎萌がかけてくれた「一ヶ月で十分」という言葉と、快く迎え入れてくれたジムの皆の存在だけである。
そんな葵の逡巡に、それ見たことかと言わんばかりに、上野の顎が上がる。
「いいですか。貴方がどういう認識をしているのかは知りませんが、勝てるわけがない。そう簡単にいくほど、世の中は甘くありませんよ」
彼女が言い放つと、周囲の空気が張り詰めた。
その瞬間、葵は自分が嵌められたことを察した。ハナから無理難題として突き付けられていたのだ。そしてそれを知っていただろう他の教師たちも、こちらの様子をじっと窺っている。
ここも真綿の中だ。学校ぐるみで異物を排除しようとしている。角が立たないよう、学校側の非にならないよう、こちらが自滅するのを待っている。
ぎゅっと目を瞑る。悔しさをブレザーの裾ごと握り締める。
「それは聞き捨てなりませんねえ」
突然、飄々と、それでいて凛とした声が職員室へと入場してきた。
まるで試合前にローブを脱ぐように、兎萌は羽織ったジャージを脱いで丸めると、職員室の外へ置いてきた鞄の下へと放り投げて。
「お言葉ですが、上野先生。『勝てるわけがない』なんてのは、私たちファイターに対しての侮辱です。どうか、取り消してください」
兎萌の言葉に、上野はわずかに気圧された様子だったが、すぐに不快感を露わにした。
「……では、勝てるというのですか?」
「さあ?」
「はあ?」
いよいよ声にも苛立ちを隠せなくなってきた彼女に、兎萌は続ける。
「彼次第ですから。それに、時の運って言うでしょう? 歴戦の選手が、
お前はどうよ、と問いかける銀河に、葵は強く頷いて返す。
「俺も、本気で取り組みます!」
「だから、世の中そう甘くは……っ!」
「その言葉、かなりの矛盾を孕んでいるって、お気づきですか?」
「いいえ、留年に関する話ですから、たまたま期限が年度末になっただけですもの!」
上野の冷徹な仮面が、勝ち誇った興奮に剥がれる。
しかし兎萌が指摘した『矛盾』は、葵にかけられた罠に対するものではなかったらしい。
「世の中は甘くない……嫌いなんですよねえ、ソレ。ええまあ仰ることは甚だ尤も。努力もせずに勝つことはできませんから、正しい言葉なのでしょうね」
「ほら、貴女だってそう思って――」
「けれどその言葉は、彼の努力を潰すためにあるものではないはずです」
「無駄な努力に終わると、忠告しているだけでしょう!」
眉を顰めた上野に、兎萌がにぃと歯を見せ、舌なめずりをしたようにも見えた。
「では、先生はどうですか?」
「……は?」
「先生の経歴は存じています。そこがいわゆる名門大学ではないことも、勤務先であるこの学校が名門高校でないことも。現在御付き合いされていると噂のあの先生とのことも。すべては、自分でも選ぶことの適うような甘い世界だからですか? ハッ、だったらせめて、自分の受け持つクラスの学力くらいどうにかしましょうよ。川樋くん以外に何人います? 御自分のクラスで、『甘い世界』で、赤点なんてものを出した指導力を疑うべきではありませんか。
キック部のこともそうです。学校の売名のため、わざわざ人数不足を無視する特例を作ってまで立ち上げた際、これまた評価のために顧問に就かれたのが上野先生ですが……あれから、顧問として一ミリでも、キックの勉強はしてくださいましたか? 練習場所であるうちのジムに、顔を出していただいたことさえありませんが」
次々と口を突いて出る暴論めいた指摘に、とうとう上野が絶句した。
そんな上野からつまらなさそうに目を背けた鬼が、こちらの肩に手を置いてきたものだから、葵は思わず飛び上がりそうになる。
「傍から見れば分の悪い賭けに思えるでしょう。けれどなかなかどうして、彼は本気ですよ」
そう言って、鬼はまた、牙を剥いた。
葵は彼女を頼もしく思う一方で、正直、やめてくれとも願っていた。お前が煽るのは勝手だが、腹いせに俺の評価を下げられるかもしれないのだ。最悪、留年撤回の条件さえ反故にされてしまってはどうにもならない。
気もそぞろに成り行きを見守っていると、不意に、太ももをひっ叩かれた。
「いきなり何すんあだだだだだっ!?」
飛び退ろうとした咄嗟の動きに付いていけなかった筋肉が、悲鳴を上げ、攣ってしまう。葵は立っていることもままならず、職員室の床にうずくまった。
すると兎萌は、やっぱり、と苦笑しながら傍に屈み、足を優しく伸ばしてくれながら、言葉を続けていった。
「葵は今朝、私――つまり五十一キロの重りを背負った状態で、同じ足跡しか踏んではいけないというルールの下、ジムの周りを十周してます。その後の雪かきに、ジム内の雑巾がけをほぼ一人で行い、高負荷の筋トレまでしてきました。それに一昨日は生スパーを見て――」
そこまで話したところで、彼女は「まあ、こっちはいっか」と切り上げる。
「少なくとも、未経験者の初日にさせるメニューではありませんでした。疑われるのであれば、ぜひ、動きやすい服装を着用の上、明朝五時半にうちのジム『アルカディアス』までお越しください。他の先生方でも構いませんよ? 歓迎します。池黒先生など、如何ですか?」
そんな誘いに、体育教師の池黒はおろか、誰もが口を噤むことしかできずにいた。
兎萌はにっこりと、唖然としたままの上野の手に、改めて入部届を載せ、
「結果を出せば留年撤回のお約束、忘れないでくださいね」
そう言い残して、、葵の手を引いて職員室を後にした。
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