セコンドの意味

 何という言葉をかければいいか分からず、ようやく葵が口を開けたのは、校門を出た後でのことだった。



「俺が言うのもなんだけど、良かったのか? お前まで先生にケンカ売ることはねえだろ」

「んー、そうねー」



 空を睨んで何やら言葉を探した兎萌は、あ、そうだ、と手を打った。



「葵はさ、ボクシングで選手に付いている人が、どうして『セコンド』って言うか知ってる?」

「えっ? そう言われてみれば、分かんねえな」

「セコンドって、数字を数えるときの、ファースト、セカンド……のセカンドと同じ意味なの」



 今の大ヒント、と付け加えて、自販機の前で足を止める。



「じゃあ、二番目って意味なのか?」



 兎萌は電子マネーのパネルに財布を押し当て、選んだあたたかいお茶のペットボトルをこちらへ放って来た。



「正解。昔はさ、次に出場する選手がコーナーサイドにいたから、セコンドって呼ばれるようになったんだって」

「その口ぶりだと、今じゃあ違うんだよな」

「そうね、一応ライセンス制になってるかな。といっても、ある程度ジムの裁量で申請できるから、キックに真剣な人なら、ほとんど問題なく取れるんだけどね」



 もう一本購入したお茶をジャージの袖で持ち、温かくなった口の中の空気を、ほう、と空に遊ばせながら、私も持ってるんだよ、と言った。



「もひとつ問題。ライセンスの規則にはね、『セコンドは、試合に臨んで、ボクサーを補助し、また、ボクサーに対して助言を与えることができる。』ってあるの。この意味、分かる?」



 職員室での気迫はどこへ行ったのかと思う程の無邪気な表情で、こてっと小首を傾けて訊ねる彼女に、葵は対照的に難しい顔で首を傾げた。


 セコンドの規則自体を口の中で反芻しても、まあそうだろうな、という感想を抱くだけで、その裏に秘められた意味といわれても、咄嗟には見えてこない。



「……すまん、降参」



 素直に白旗を上げると、兎萌はかっかっか、と某ご老公のように笑った。



「正解はね、『試合に臨んで』の部分。試合に臨んだボクサーを補助、ではなくて、セコンド自身がボクサーと共に試合に臨む、という文章になってるんだよ」

「ボクサーと、一緒に……」

「そ! 葵の試合には、女子フライ級王者の私も、王者の私も! 一緒に出るってワケ」

「何故二回言うかね、君は」

「だってだって、SANAさんに勝ったのが嬉しかったんだもん! もっと言うと、お兄ちゃんはミドル級王者で、世界大会出場経験あり。明日葉さんも、経験一年目でアマチュアの東日本大会で優勝した実力者。そんなわけで、葵には、割と頼もしい布陣が付いてるんだぞ?」



 笑顔で差し出された、袖からちょこん突き出た大きな拳に目を疑う。頭では、それが女の子の小さな拳だと分かっていながら、葵はぽかーんと、あっぱ口を開けていることしかできない。



「だから私も、先生の敵に回っただけのこと。以上、文句ある?」

「ははっ……そりゃ、頼もしいこって」

「こちらこそだよ。二人三脚で繋いだ私の脚は、片方がコレなんだから。ちゃんと支えてよ?」



 くしゃっとはにかむ笑顔を向けられると、不思議な安心感があった。まるで昔から、彼女とタッグを組んでいたような錯覚さえ覚える。



「つっても俺、あのキザ眼鏡相手に、ビギナーズラックも当たらなかったぞ?」

「そりゃそうよ。あんたはまだ未経験者。新人ビギナーですらないもの」

「そういう問題なのか……?」

「そういう問題なのよ。戦う作法を知らずにやってのけるのは映画の中だけ」



 そう言って笑うと、兎萌は勢いよく尻を叩いてきた。


 ふつふつと、滾って来るものを感じる。冬の寒さと朝練の疲労で震える脚が、ぴたりと鳴りを潜め、きちんと地に足ついたような気さえした。まるで筋肉痛も吹き飛ぶようで、これから行うトレーニングにも、俄然気合が入ってくる。


 ジムに辿り着いた葵は、自販機横のゴミ箱に空のペットボトルを突っ込んで、兎萌の背中を追いかけた。しかし、扉を開いたところで彼女が足を止めていて、後ずさる。



「どうした?」



 訊ねると、兎萌が中を指で示した。今朝もでっぷりと寝そべっていたフグが、ジムの中に向かって、威嚇するように喉を鳴らしている。


 二人で顔を見合わせる。こういうことはするのかと訊くと、兎萌は、これまでにこんなことはなかったと言う。番犬として置かれているのに、番犬らしい行動に疑問を抱かれるとは。そんな一抹の同情をフグに寄せながら、靴を脱いで中に入る。



 受付前の客用椅子に、鋭い目つきをした短髪の青年が腕を組んでいるのが見えた。


 制服であることを見る限り、学生なのだろう。しかしどこか老成したような、じっと機会を窺う獰猛な狼にも似た雰囲気は、こちらが背中を見せた瞬間に牙を立てて来るようだ。勇魚ほど大柄ではないが、引き締まった筋肉は実力の裏打ちであることを感じさせる。


 一昨日にはいなかったはずだ。彼がフグの警戒対象なのかもしれないと、横目でこっそり窺っていると、ふと、目が合った。しかし青年はすぐに興味なさそうに目を流す。


 その先で、青年の顔の動きが止まった。獲物は――



「待っていたぞ。羽付兎萌」



 喉が鎖骨の下にあるのではないかと思う程の、堂々たる低い声が響く。


 その声に、兄の勇魚を探そうと別方向に顔を向けていた兎萌が、はっとして振り返った。


 彼女が思わず手を離した松葉杖が、カラン、と音を立てて倒れる。



「えっと、誰?」



 おそるおそる耳打ちすると、兎萌はぎゅっと眉間に皺を寄せて、絞り出すように言った。



釈迦堂しゃかどう舞流戦まるた――通称『二殺拳キラービー』。現在、男子高校生最強と呼び声の高い実力者よ」

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