入部届の提出先

 忙しなく支度を済ませ、ジム内の設備で急拵えされたインスタント味噌汁と、兎萌が事前に買ってくれていたコンビニおにぎりを胃に詰め込んだところでも、まだ時間はさしてひっ迫してもいないように見えた。


 しかし、外に出て歩くこと数分、彼女の勧めが正解であったことを思い知らされた。



「なんじゃ、こりゃあ……」

「この辺りの除雪は後回しにされるからねー」



 歩道が見事に悪路と化していたのだ。雪国ともなると、市の税金で除雪車が運用される。まだ暗い明け方のうちから走り回るダンプの音と、近所を通過する際の地響きは冬の風物詩の一つといっても差し支えない。


 だが、この除雪作業にはどうにもならない問題がある。かいた雪を捨てる場所だ。ある程度規模の大きい道路は、路肩に押し固められた天然資材のガードレールと洒落込むことも可能だが、近所の道では一車線道路と化し、譲り合いによって渋滞が発生する。


 毎年のことでタイヤ等万全の準備を十一月中に済ませるような山形民でさえも、下手に雪の塊を踏んでハンドルを取られることがないよう、おっかなびっくり走るから、尚更だった。



「さっきから何をプルプルしてんのよ。そんなに雪道怖いわけ?」



 そう言って、兎萌がふくらはぎの筋肉をつま先で突いてくる。



「やめろやめろ。分かっててやってんだろお前!」

「ふひひ、バレたか」



 悪びれもなく舌を出した悪魔は、物理的な攻撃は引き下げてくれた。



「それにしても残念だったわね」

「何が?」

「だって、お兄ちゃんが来てなかったら、私のシャワーを覗けたかもしれないじゃない」

「なっ……誰が覗くかバーカ!」



 あの筋金入りの妹大好きな勇魚のことだから、冗談でも覗こうなどと言った日にはどうなるか、想像しただけでもゾッとしない。


 だが何より、仮に、そう仮にだ。自分が兎萌に気があったとして。



「あんな真剣な目をして筋トレしてるのを見て、直後に覗こうなんて気は起こせねえよ」



 何でもかんでも下心に結び付けられるほど、男だって情緒がないわけじゃあない。


 どうせ、そうやって一歩引き続けて、チャンスを逃し続けていくんだろうけれど。



「へえ、直後じゃなかったらいいんだ?」

「お前はほんっと口が減らねえよな!」



 どうにか辿り着いた昇降口でスマホを開くと、ちょうど、普段登校している時間とぴったりだった。自分の筋疲労も含め、諸々を計算に入れた出発時間だったのだろう。



「お前の言った通り、か。先輩様々だな」

「だっしょー? 慣れないトレーニングの影響で時間配分をミスするのは、誰もが通る道なのよ。あ、私職員室に寄ってから行くから。また教室でね」



 彼女と別れて、一人教室に向かうと、葵はざわざわと淀んだ空気に包まれた。


 自分の席にまで移動する間中、四方八方からの視線を感じる。直接触れてくることのない、生温かい真綿のようだ。表立って口にすることは失礼だから憚っていますよと言わんばかりに声を潜め、目を合わせないようにしながらも、他人の心を締め付けることには余念がない。


 せめてもう三つくらいは声量ボリュームを落とせと思いながら、始業の準備を装いつつ耳をそばだてる。


 本日の陽キャラ様たちの餌は、自分が上野先生から留年を言い渡されたことと、今朝、『蹴り姫』と一緒に登校してきたこと。二品も甘い蜜があるものだから、さぞご機嫌な様子の彼らに、川樋が他校の生徒とケンカしたのを見た、というスイーツが運び込まれ、ああだから暴力系同士仲が良くなったのか、などと舌鼓を打っている。



「(ケンカなんて呼べるような代物じゃあなかったけどな……)」



 目撃されていたことよりも、眼鏡の優男に文字通り手も足も出なかったことに胸が締まる。

 スクールカーストの没落っぷりというわだいへ群がる彼らの食事会は、所用を済ませた兎萌が戻って来たことに感付いた誰かの「蹴り姫だ」という一言でお開きになった。


 席についた彼女に対して、誰も真偽を確かめようとすらしない。そうやって、直接は詮索してこない周囲の態度は、馬鹿馬鹿しくもあり、ありがたくもあった。厨房プライベートにまで立ち入られたら、咄嗟に包丁で応戦してしまいそうだから。


 電気ヒーターで中途半端に熱された陰気と、やがて教室に入って来た担任教師の冷ややかな視線を意識しないようにしながら、今日も息を潜めて授業を受ける。



 放課後、兎萌に誘われて、鞄を持ってから教室から連れ出された。ジムに行くのかと思ったが、彼女の足は昇降口とは反対方向へと向かっていく。


 道すがら、兎萌が思い出したように口を開いた。



「事情聞いてから改めて意識すると、あんた本当に避けられてんのねー」

「陰キャなのは本当だからなあ。つうかお前こそ、最近クラスの奴らから余所余所しい感じされてるじゃねえか。退院してきた頃なんか人気者だったろ、みんなに心配されてさ」



 訊ねると、兎萌は一度目を伏せてから、苦々しく笑った。



「退院した後にさ、隣のクラスの……あー、名前忘れた。ほら、野球部のエースくん」

「ああ、あのイケメンな。郷屋だっけ?」

「そそ、そんな名前。んで彼が『怪我した私を支えたい』って、告白してきたわけ。手伝ってもらえるのは嬉しいけれど、私、自分より強い人が好きだから付き合うのはムリ、って言ったのよ。それでも食い下がるから、これに耐えられたら考えるって、一発ケリ入れちゃって」

「あー、それでそいつから逆恨みされた、と」



 今朝の『食事会』の中で、暴力系という言葉が聴こえたのはそのせいか。


 だが、兎萌は首を横に振った。



「野球部くんは潔く引いてくれたわ。そもそも提案したの向こうだしね。問題は、そんな野球部くんに告白をしては連敗中っていう、隣のクラスの美少女お嬢様。名前忘れたけど」

「若狭さん、な。お前ほんと覚える気ねえな」



 なるほど、そっちの筋からだったか。女子のトラブルは怖ろしいとは聞いていたが、厄介なのに目を付けられたようだ。


 元々『蹴り姫』という二つ名は、キックボクシングで活躍する兎萌への敬意によって付けられたものだった。顔立ち良く、気前も良く、ストイックで格好いいと、男女問わずに声をかけられていた。


 それが、どうだ。自分の好きな男がフリーに留まっているならばむしろ僥倖だろうに、よく分からない嫉妬で他者を落とす女。それに便乗する女子たちと、異を唱えることのできない男子たち。圧倒的な人数での悪意の真綿で絞めることは、キック一発と、どちらが暴力的だろう。



「おーい、着いたぞー、ボサっとすんなー?」



 我に返る。兎萌がくりっと丸い目で、こちらの顔を窺っていた。クラスメイトから手のひら返しに遭っているというのに、微塵も気にしていないような澄んだ瞳。受け止めた上で叩き壊し、蹴り砕き、無数の塵芥として銀河に吸収しているような、強い光があった。


 兎萌は「自分より強い男が好き」だと言った。その壁を超えるには、一体どれほどの辛酸を嘗めればいいだろうか。



「あんたって、睫毛も金色なのね。つか二重。うらやましー」



 葵は照れて視線から逃げた。



「べ、別に二重くらい作りゃあいいだろ。そういうの、あるんだろ?」

「あんなの付けながらキックとかむーりー。あ、あんたもピアスとか禁止だからね」

「頼まれてもしねえよ」



 ちょうど通りかかった進路指導の先生が「キック関係なく禁止だぞー」と苦笑気味に釘を刺して部屋に入っていった。


 そこで葵は、自分がいる場所に気が付いた。



「え、職員室? えっ?」



 困惑していると、兎萌が鞄のクリアファイルから一枚の紙を取り出して、押し付けてくる。



「はいこれ、入部届。名前はもう書いておいたから、あとは提出するだけね」

「それはいいんだけど……顧問は誰?」

「上野先生」

「はあっ!?」



 ほらほら行った、と尻を蹴られて、つんのめりながら職員室へ突入することとなった葵は、何事かと好奇の視線を向ける教職員たちの目に囲まれることとなった。

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