朝練

 週末のうちにすっかり積もった雪は、アルカディアの月曜日を白く染めていた。


 早朝五時半ともなれば、道路の轍も少ない。車でさえ轍をなぞるように走らなければ辛いのだから、雪かきのために付けられた軒先の足跡以外に何もない歩道は、中々の悪路だ。ブーツが埋もれて脱げないよう苦戦しながらジムまで辿り着くと、すでに開錠を済ませていたらしい兎萌が手を振って迎えてくれた。



「おはよ、間に合ったわね。早起きは得意なの?」

「おはよう。得意っつーか、新聞配達もしていたし、スーパーのバイトも、土日には早番で入ったりすることもあったから、自然とな。フグは?」

「お兄ちゃんの家。朝一緒に来て、夜一緒に帰るの」



 そっか。まあ、犬だしな。笑いながら荷物を置く。


 拳を手のひらに打ち付け気合十分の兎萌の指示の下、朝練が始まった。これは本来のジムのコースには含まれていない。『キックボクシング部』ならではの裏メニューという扱いらしい。

 準備運動を済ませると、外に連れ出される。



「まずは雪かきか」



 意図を察したつもりだったが、しかし、兎萌はチッチッチ、と指を振った。



「こんな最高のシチュを独り占めしているんだよ? だのに、雪かきだなんて冗談じゃないわ」



 ちょっと屈んでみてと、言われるがままに中腰になると、彼女は松葉杖を放り投げて、こちらの背中に飛び乗ってきた。



「わわっ、わ! お前、急になにすんだ!」

「特訓よ、特訓。まずは私を背負ったまま、建物の周りを一周ね。その後は、一周目で付けた足跡を、寸分違わず踏むように走ること! ちなみに私を落としたら殺すから。さあ行けー!」



 騎手の振るう鞭のごとく、べちべちと肩を叩かれ、競走馬ジャスティス・バード(笑)はスタートを切った。


 葵ははじめ、甘く見ていた。兎萌のじゃれるような態度もあり、これはいわゆるアイスブレイクで、レクリエーションの延長のようなものだと思っていた。だが、幻想だった。


 体力が万全だから、一周目はまだいい。しかしそれが仇となる。女子を背負って舞い上がる男子の心理を的確に突いた――かは定かではないが、二周目からの縛りである、足跡を正確に踏まなければならないルールが地獄へと変わるのだ。


 調子に乗って歩幅を大きくしていたものをなぞらなければならないのは、存外難しい、狙いを定めて一歩、また一歩と飛べば遅いと鞭打たれ、遮二無二走って飛び移ろうとすれば、上がり切っていない足がみじめに雪を抉っていく。



「ほらほら、ペースが落ちてるぞー。腹筋を締めて、背中から足上げる! はい、膝、膝、膝!」

「お前、絶対、楽しんでるだろっ!」

「はいしどうどう、はいどうどう!」



 スパルタなジョッキーの命令に歯を食いしばる。息が荒くなってくるほど、吸い込む空気の冷たさに肺を苛まれる。一周百メートル強程度の距離が、こんなにも遠く感じる。



「はい十周終わり。お疲れ様」

「ぜぇ……ぜぇ……労うくらいなら、降りてくれねえ?」



 脚を抱える手を放しても、兎萌は首に手を回したままぶら下がって、離れようとしない。



「やだー」

「……当たってんぞ?」

「きゃーえっちー。パンツとどっちが良い?」

「こんの……っ、人が下手に出ていれば!」



 首元の手をがっちり掴んだ葵は、かじかんだ耳まで真っ赤になるほどの羞恥を振り切るように、思いっきり振り回して、ぶん投げた。



「きゃーっ!」



 雪の中にずぼっと埋まった彼女は、すぐに上体を起こすと、即席の雪玉で反撃をしてくる。



「女子を! ぶん投げるとか! 信じらんない! しかも怪我人を! あはははははっ!」



 もつれ込んだ雪合戦は、うっかり軌道の逸れた一球が、絶賛雪かき中のお隣さんのボアコードを掠めたことで幕を閉じた。除雪機を使っていたおかげか、当の被害者は犯行に気付くこともなく、これ幸いと、鳴りを潜めるようにジム内へ撤退。除雪用具を手に、さも初めから僕たちは真面目にやっていましたという風を装って誤魔化すことにした。


 怪我でうまく踏ん張れない兎萌には、スコップタイプでの玄関前の除雪を頼み、葵はスノーダンプを引きずって右へ左へと奔走した。


 門から玄関までで構わないという指示に、爽やかを装って、いやいやお代官様敷地内全部やりますようぇっへっへと揉み手をしてみたが、魂胆はバレていて、明日からの雪上ランニングを中止にすることはできなかった。帰ったらてるてる坊主を作ってやると心に決めた。


 除雪を終えてジムに入り、事前に点けておいてくれていたヒーターの温かさに一息をついたのも束の間、更衣室で昨夜購入したウェアに着替えてくるよう言われた。


 練習場へ戻ると、既に準備を整えていた兎萌から、笑顔で雑巾とバケツを渡される。



「着替えんの早えーな」

「コートの中に来てたからねー。楽よ?」

「ああ、水泳の授業の日みたいなもんか」



 素直に参考にしようと思った。ランニングに加え、雪かきというそこそこの重労働をしたため、着て来た下着が汗でびしょ濡れだったからだ。それがウェア一着で済むのはありがたい。


 手負いの女王の雑巾がけは器用なもので、右足を大きく伸ばして前進した姿勢から、ふっと膝を抱え込むように巻き込むと、腹の真下から再び蹴り出すことを繰り返して、効率的にこなしていく。曰く、左足は添えるだけ、らしい。



「葵くん、どうしたのかなあ? 怪我してる私の方が早いぞお?」



 と、煽りをまき散らす余裕っぷりは、ごっちん、という音に霧散した。


 壁までの距離は見計らっていたものの、サンドバッグの位置までは考えていなかったのだろうか。硬い砂袋へ強かに鼻っ柱を打ち付けた兎萌は、涙目でじたばたともんどりうっていた。



「~~~~~!!」

「お前、実はバカだろ」

「うるさい」



 投げつけられた雑巾をキャッチし、一緒にすすいで片付ける。


 掃除を終え、柱に取り付けられた神棚に一礼してから、鏡の前での筋トレへと移行し、よく見る縄跳びから、スクワット、腕立て、腹筋といった基礎トレーニングを流していく。縄跳び以降のメニューは、隣で兎萌も実践してくれていた。何も支えのないところで片足のスクワットができることには、さすがに驚いた。兎萌と出会ってから、衝撃映像ばかりだ。


 髪を結って露わになったうなじに噴き出る、真剣の証に見惚れていると、不意に伸びて来た腕から、頭を小突かれた。



「なによそ見してんのよ。そんな腹筋じゃあどこにも効かせられないわよ」

「そうなのか? 学校の体力測定とか、こんな感じだろ」

「アレは体力測定であって、筋力測定ではないもの」

「屁理屈だあ……」

「もちろん、低負荷で回数をこなすやり方もあるから、一概にあっちが間違いとは言わないけれどね。ただ、私たちがやりたいのは、鍛え上げる方だから」



 疑いの眼差しに、兎萌は苦笑しながら体を起こし、葵のあばらの下あたりに手を置いた。



「筋肉が鍛えられるのは、伸縮の動作による刺激あってのものよ。今やっている上体起こしは、ここの腹筋上部が主に鍛えられるの。ほら、ここにぎゅうっと意識を向けた状態で、その筋肉だけを使うイメージでやってみて」



 言われるがままに上体を起こしてみて、驚いた。これまで腹筋だと思ってやってきたものより何倍もキツい。それでいて、腹に効いている感覚もまた、何倍にも膨れ上がっている。

 たまらず、十回で悲鳴を上げた。



「ぐっ、腹……攣りそ……」

「ね、効くでしょ?」



 へその上あたりぴくぴくと引き攣っていて、体を起こそうと捻ろうものなら最後、死にも等しい激痛とコンニチハするだろうことが分かった。



「……御見それしました」



 マットに体を投げ出す。正直舐めていた。今までやっていた筋トレは何だったんだ。



「ネットとかじゃ、平気で二十回×三セットとか書いてあるけど、正気の沙汰じゃねえな」



 そりゃダイエットも挫折するわとぼやくと、兎萌もつられて笑った。



「あれは出来る人用のレップ数だからねー。今度、現役ビルダーさんやトレーナーさんの動画とか見てみるといいわよ。あれだけ鍛えた人たちが、たった十回で汗をかいて、息切れするくらいの負荷がかかるなんてザラなのに、素人が三セットなんて出来なくて当たり前だって分かるから。逆に言えば、素人なりの最大負荷をかけられるってことなんだけどね」

「そっかー……じゃあさ、例えば、シャドウとかあるだろ、シッシシシッ! ってさ。あれも実は、速いパンチを出しまくるだけじゃダメってこととか、あったり?」

「へえ、いいところに気が付くじゃない」

「――当たらずとも遠からず、ってところだな」



 野太い声がしたかと思うと、ドアが開き、勇魚が入って来た。手に持ったリードの先で、早速フグが寝っ転がっている。



「おはよう。筋トレ中だったか。頑張っているようだな」

「おはようございます。それで、当たらずとも、ってのは?」



 勇魚はコートを受け付けの椅子に放り投げて、サンドバッグの前までやって来た。



「シャドウの意味は分かるな? ならばそれが何の影なのかといえば、相手だ。これを俺たちは仮想敵と呼ぶんだが……さて、そこで葵くんに質問だ。それは『誰』だ?」

「えっ、誰? えっ、と。その人によって違います、よね」

「その通り。想定した相手によっても変われば、対する自分のファイトスタイルによっても変わってくる。もちろん、ラッシュを叩きこむことが正解の場合もある。だが毎度毎度、その場からほとんど動かないようなステップに翻弄されて、簡単にラッシュを決めさせてくれる相手の影なんぞと戦っているシャドウは、シャドウとは呼ばん」



 そう言うと、勇魚は右足を閃かせ、サンドバッグを大きく揺らした。



「描いた相手や戦況によっては、この一撃だけで終了することもある。稀だがな」

「へえ、奥深いんですね」

「実戦あってこそのイメージトレーニングだ。やってみたい気持ちはあるだろうが、まずは、打ち倒すべき仮想敵のイメージを掴むこと。それまではチャンバラになるだけだから、禁止な」



 実力と経験が伴った上での、重みのある言葉だった。事実今しがた、兎萌から筋トレの固定観念を塗り替えられたばかりだったから、なおさらである。



「ところでお前たち、時間は大丈夫なのか?」



 時計を指さす勇魚に、兎萌が「やだ、いけない!」と飛び起きた。時刻は七時。一度家に帰ってゆっくり朝食にありついたとしても十分な時間である。



「まだそんなに焦る時間じゃないだろ?」

「何言ってんのよ、掃除して、シャワー浴びて、髪乾かして……全ッッッ然足りないんだから!」



 くわ、とこの世の終わりを目にしたかのような恐ろしい形相で叫んだ兎萌は、松葉杖を拾うのもそこそこに、ケンケンで駆けていき――マットに頭から突っ込んだ。



「~~~~~~~~~~!!」

「……やっぱお前、バカだろ」

「うるしゃいっ!」



 もぞもぞじたばたと動く手を取り、起こしてやると、腹部に一発入れられた。何故に。

 新生活初日の朝は、やけに騒々しく、痛い幕開けだった。

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