母の手

 赤い垂れ幕が目印の店までやってくると、こちらの姿を発見した母が、車から降りて来た。



「ごめん母さん、待った?」

「ううん、今着いたところよ」



 普段の作業着姿とは違って、生前父からプレゼントされたという、落ち着いた色合いのシックなワンピースを纏った母は、息子の贔屓目に見ても綺麗だと思う。柄の花は、藤。その咲く様子を指す『花房』は『英』とも書き、主に藤などの品ある花に用いられる語であることから、すぐれて美しい、という意味もあるらしい。


 母・英子の名前にはそんな素敵な意味があるんだよと、幼い頃から寝物語のように父から聞かされていた。母もそんな父を英国紳士だと誉めそやすものだから、葵は反抗期とは無縁の環境にあった。



「いつもありがとう、母さん」

「なあに、急に?」



 変なの、と微笑む母を先導し、店に入る。すぐに目に入った厨房にはグラスが吊るされているなど、一見『辛味噌納豆』のラーメンを出すとは思えない洋風の内装だが、なかなかどうして、慣れてくるとこの雰囲気が落ち着くのである。


 雪灯かりまつりの影響もあったか、テーブル席は埋まっており、母子身を寄せ合ってカウンター席へ座ることとなった。


 注文した味噌ラーメンを待つあいだに、葵は、今日のことを正直に打ち明けた。学校でのこと、兎萌とのこと、アルカディアスでのこと。


 急な話だったにもかかわらず、母はじっと耳を傾けてくれていた。



「俺、キックがやりたい」

「そう。お母さんは賛成だな」



 返ってきたのは、優しい一言だった。


 わかっていた。母ならそう答えるだろうと。けれど、子供心に不安になった。時間はあるのかとか、お金はどうするんだとか、そもそも赤点をとるなんて! 父の月命日にそんな話を持ってくるなんて! と詰られてもおかしくはないのだから。


 許されているのに、舌は言い訳がましく落ち着かない。



「バイトはさ、新聞配達もマッ○スバリュも、有給でなんとかしてくれるってさ。一度も使ったことがなかったから、ぶっ続けで取っても、来月末まで時間取れるって。けど、きっと、その先もキックをやりたいと思うと、思う……だから、多分、どっちかを辞めることに――」



 そこまで捲し立てたところで、不意に頭を撫でられた。小さな手だった。細い指だった。

 けれど、強かった。



「葵が信じたことをしなさい。いつも言っているでしょう、お金のことは気にしなくていいの」

「母さん……」

「それとね。お母さんも、先生の仰ることが正しいと思ってしまうから。ほんとうはこんなこと、言うと怒られちゃいそうだけれど」



 そのまま頭を抱き寄せられ、母の額にこつんと触れ合う。



「お父さんの髪を、守ってくれてありがとう。そのために戦おうとしてくれて、ありがとう」



 視界が滲んだ。いつだってそうだ。両親に感謝をしているのはこっちなのに、どうあっても、それを上回る慈しみに抱き締められる。それがありがたくて、不甲斐なくて、嬉しくて、悔しくて、やっぱりありがたくて。



「練習は、いつから?」

「じゅうあけ、がらぁ!」



 落ち着くのを見計らったように運ばれたラーメンと、鼻水とを交互にすする。味がわからなくなったのは、生まれて初めてのことだった。


 帰宅後、仏壇の前で、父の遺影へ嬉しそうに話す母を見てしまったから、風呂の中でまた泣いた。これまでの自分をリセットするように、シャワーでうんと洗い流した。


 外でしんしんと降りしきっている雪に負けないように、お湯の温度を二度ほど上げてみた。



「これからの俺は『ジャスティス・バード』だ」



 そう口にしてみて、やっぱりねぇわ、と可笑しくなる。ごめん、兎萌。お前が正しい。

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