川樋・ホーリーホック・B・葵

「ごほん。さて、どうする。初めてなら、マスパの方がいいだろうか?」



 リングの上で軽く跳ねながら、勇魚が兎萌に訊ねる。



「本人がやる分にはマスだろうけど、見るだけならフルスパでいいんじゃない?」

「なんだ、そのマスとかフルとか……」



 葵は助けを求めた。失礼ながら、未知の単語という以上に困惑していた。マスを、だの、フル○ンだの、勇魚が反応しそうな語感を孕みながら、彼がきちんと真剣な表情をしていたからである。本当に失礼ながら、ファーストインプレッションとは恐ろしいものだ。



「あーね、そこからだよね、ごめん。マスパってのは、マススパーリングって言って、ごくごく軽いスパーリングのこと。次にフルスパ。フルスパーリングね。文字通り、フルパワーで行うスパーで、ガチスパって言う人もいるかな」



 ではマスは初心者向けメニューなのかとも思ったが、彼女曰く、そうでもないらしい。ゆったりとしながらも、動きの中で正確な攻撃動作を出すトレーニングとして重要であり、フルスパの方で見た目が烈しくても結果が出せない選手は、マスでボロがでることが多いのだという。



「へえ、早ければいいってもんでもないのか」

「そ、基本が大事ってこと。――はじまるよ」



 兎萌がにぃ、と歯を見せた。はじめて見る、ファイターの顔をした彼女に、彼女らは己がリングに上がっていなくても常に一人の戦士であるという事実をまざまざと魅せつけられて、見惚れそうになる。


 レフェリー役の明日葉が発した合図で、相手が動いた。腕を顔の横に構えた体勢オンガード・ポジションのまま、鋭い踏み込みで距離を詰めていく。ジャブ見せからの、前足で放つ流れるようなミドルキック。


 速い。葵は瞬きをも許されずに見つめていた。


 完全に決まったと思われたミドルを、勇魚は恐れることも無く、返した手のひらで軽く掬い上げ、右のストレートで反撃していく。しかし、グローブに防がれる。しかしそれも計算の内だったようで、相手の蹴り足が戻り切る前に、ふくらはぎカーフ太ももロー脇腹ミドルと怒涛のキックラッシュをかましていく。


 だが相手もプロ。即座に間合いをとって仕切り直し、逆に勇魚の体勢が整う前にパンチの急襲を見舞う。対する勇魚は、放たれる連打を冷静に手のひらでカットし、悉く受け流していく。


 ワン、ツー、スリー、そしてついに縮まった距離からのフック――



「(さすがに避けきれねえ……っ!)」



 葵は息を呑んだ。神速のグローブが勇魚の頭部にめり込むビジョンが見えた。



 はずだった。フックによって腕が外回りになる一瞬の隙を見逃さず、勇魚が最小の動作で放ったカウンターが、相手の腕の内側から相手の顎を捉えた。


 ダメージをもろに受け止めた相手の顔がぶるんっと波打ち、そのまま自身のパンチの勢いに振り回されるように、きりもみで膝から崩れ落ちる。


 テンカウントからの、決着宣言。そこでようやく、葵は呼吸を思い出した。制服のシャツが、汗でびっしょりと濡れているのが分かる。



「すげぇ……けど、意外だ。勇魚さんはもっと荒々しい戦い方をするのかと思ってた」

「人それぞれよ。お兄ちゃんの場合は、いかに相手の攻撃を流して疲労を蓄積させ、いかに速く正確に隙を突くか、がスタイルなの。こんな神経質な戦い方、私にはむーりー」



 兎萌が大仰に肩を竦めてみせると、私もねと、明日葉が苦笑した。



「こっちの攻撃は吸い込まれる上に、KOクラスの大技も軽々と放つ。名前の通り『ウィング・ホエール』、羽付き勇魚クジラって呼ばれているのよ」

「やめろやめろぅ。照れるだろう、ハッハッハ!」



 腰に手を当ててまんざらでもない彼の足下から「ほんと勇魚って心はガキだよなあ」と、大の字に不貞寝した文句が打ち上げられていた。それをうるへーと受け流し、勇魚がリングの端までやってくる。



「さて、葵くん。今見せたのはほんの一部だが、どうだった?」

「えーっ……と……」

「ほら、困ってるじゃないですか。勧誘のためのデモンストレーションなのに、秒殺KOで怖がらせるんですから」



 明日葉の苦笑に、勇魚はロープを潜ろうとした態勢のままで落っこちた。

 周囲からどっと笑いが起きる。小学生たちからも先生バカだーと野次が飛んでいた。



「ははっ。いえ十分でした。楽しそうだな、やってみたいなって、思います」



 つられて笑いながらも、素直な感想を述べたつもりだったが、しかし、兎萌は明日葉と丸い目を見合わせている。



「へ? 俺、なんかマズいこと言った?」

「いやあんた……目の前でKO見ても楽しそうって、いい性格してるじゃない」

「ふふっ、そうね。こっちからスカウトしたいくらい」



 認められているのか子供扱いされているのか判断に苦しむ。


 気を取り直した勇魚に連れられて、受付スペースで書類を書くことになった。兎萌の口から、葵をジムに連れてくることになった経緯が告げられると、一枚噛ませろと乗り気の様子だったのはありがたい。


 しかし、記入するためのペンを借りたところで、葵はふと手を止めた。



「ええと、その……お金とかって、おいくら万円かかりますでしょうか?」

「そうさな、まずは入会金、事務手数料、スポーツ保険と合わせてちょうど一万ってとこだな」



 紙をひっくり返し、料金の欄を示される。男性・女性・高校生・キッズ、さらには通う頻度によっても細かく定められていた。勇魚の言葉と照らし合わせると、自分は高校生のフル会員という枠での契約になるらしい。



「ちょっとお兄ちゃん、お金周りを説明しないで入会申し込みを書かせないでよ。捕まっても知らないからね」

「不要だったからな。大会に出場するためには登録が必要だから書類を書いてもらうが、事情が事情だ。一ヶ月の体験ということで、実費は俺が負担する。必要な道具分もな」

「そんな、申し訳ないですよ」

「なあに、グローブやウェアなんかを合わせても、安く済ませようと思えばもう一万で足りるからな。ごたごたが片付いてから、少しずつ返してもらえばいい」



 ただし、と勇魚は腕を組んだ。



「兎萌に手を出したら百倍請求すっぞオルラァン?」

「ほんとあんたシスコンだよな……」



 リング上の雄姿だけであれば素直に尊敬できるというのに。今さらになって、この人に頼むことへの一抹の不安が脳裏を過る。


 しかし、別に遊び感覚でここへ連れてきてもらったわけでもない。


――葵と私で、先生たちの鼻を明かしてやりましょうよ!


 彼女に託したわけではなく、相乗りすると決めたのだから。



「やっぱり俺、ちゃんと会費は払います!」



 誓い上げるように、名前を記載した。フルネームで、めいっぱい丁寧な字で刻み込む。



「川樋・ホーリーホック・B・葵?」



 手元を覗き込んできた兎萌が、へえ、ミドルネームってちゃんとあるんだ、と物珍しさに顔を綻ばせた。



「普段は使わないけどな」


「ホーリーホック。タチアオイのことね」

「うっす。父さんが、大の水戸黄門好きで。俺が正義の象徴になり、悪を懲らしめられるようにって、付けたらしいです」

「そう言われると、あんたの綺麗な髪も、印籠の箔の色に見えて来たわね。じゃあこの、Bは?」

「父さんの苗字の、バードだよ。婿入りだから、本当は母さんの苗字だけで良かったらしいんだけど、なんでも昔、ここ南陽市を『アルカディア』と称した詩人がいたらしくてさ。その人の苗字もバードだからって、残すことにしたんだと」

「聞いたことあるわね。イザベラ・バードだっけ? ……ん? ってことは、葵は、我らが『南陽アルカディアス』の申し子だったってわけね!」

「いや、ないない」



 おどけたような兎萌の言葉には否定でツッコんだが、葵にはどこか、誇らしく思えた。

 これまで『周囲と違う人間』として腫れものに触るようにされ、せいぜいスーパーのバイトで、金髪である理由を示すためにネームに刻むくらいしか価値のなかった自分の名前を、そして大好きだった父のことを、受け入れてもらえていることが、ただ嬉しかった。



「そうか。なら、葵くんのリングネームは『ジャスティス・バード』だな!」

「リングネーム名乗るなんてまだ早すぎるし! 付けるにしても魔裟斗さんや武蔵さんみたいな……って、葵も目を輝かせない! ほんっと、男子の感性って分かんない!」



 その後はジム内での販売もしているという道具一式の紹介を受けた。コンビニで金を下ろしてこようとしたが、金銭の話は母親にちゃんと相談してこいと、週末の時間を与えられた。ちょうど、バイト先への相談もしたかったところだったから、厚意に甘えさせてもらった。


 帰り際、玄関のフグに声をかけたら、尻尾が降り返されたことに感動しつつ、外に出る。


 はらりはらりと降り始めたやや大粒の雪は、数時間前の自分であれば不穏な先行きを重ねていたかもしれないが、今なら、母への報告も、雪の舞うように軽やかな心境でできるだろう。


 懸念があるとすれば、相談もなしに万単位のお金を使う決断をしたことだろうか。なんて、今さらながらちょっぴり後ろめたい気持ちを抱えるように身を縮めながら、すっかり暗くなった寒空の下を、待ち合わせ場所まで走ることにした。

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