南陽アルカディアス

 兎萌のホームであるジム『南陽アルカディアス』は、駅からほど近いところにあった。


 アパートの一階部分をぶち抜いたような無骨な玄関と、その奥に繋がった、体育館を縮めたようなデザインの建物。なまじ屋根を曲線形のつくりにしているため、武道場と表現するにはやや浮いた状態のくせに、玄関にはジム名を掘った木彫りの看板が掛けられている。しかし、前述したように、ジム名はカタカナ。さらに、建物の大きさより余裕をもって仕切られたのだろう土地を囲むのは、日本風デザインのコンクリート塀ときた。


 雪に自然封鎖された自転車小屋を通りすぎたところで、ついに耐えきれず「と、特徴的な建物だな」と口にすると、兎萌は気に障った様子もなく「お兄ちゃんのセンス。超ビミョーでしょ」と言ってのけた。


 玄関の扉を開くと、ストーブの温かい空気に出迎えられた。下駄箱の隣に敷かれたクッションの上で、大型犬がでっぷりと横たわっている。



「ただいま、フグ」



 兎萌が声をかけると、犬は寝転がったまま器用に尻尾を振って返した。



「でけえな」

「オーストラリアンシェパードなの。うちの番犬」

「こいつがぁ?」



 初対面の自分が入ってきても眉一つ動かさない犬に、番が務まるとは到底思えなかったが、そんなことよりも緊張の方が勝っていた葵は、先に進んで行く兎萌からはぐれないよう、子供のように歩幅の狭い小走りで追い縋った。


 仕切られたドアの先で、息を呑む。ここだけは、イメージ通りのジムだった。


 部屋の反面を占領したリング。吊るされたサンドバッグは、鏡張りの壁によって、武の幻想空間を拡げている。入口側の広いスペースでは、大人びたショートヘアの女性が、小学生たちに指導をしていた。



 女性はこちらに気付くと、子どもたちにキックの反復練習を支持して、やって来る。



「お帰りなさい、兎萌さん。具合はどう?」

「ただいまです。明日葉さん。まあ、こればっかりはボチボチですね」



 兎萌は額の前で小さく敬礼をしてみせた。



「紹介します。彼は川樋葵くん。ちょいとワケありで、私が預かることにしました。で、葵。こちらが明日葉さん。昨年までうちのキック部にいた先輩ね」

梨郷りんごう明日葉です。よろしくね」



 息が多めでありながら落ち着いた声色と、理知的な顔立ちから見せる優しい笑顔の色っぽさに、葵はしばらく言葉を失った。てっきりバリキャリ的なOLさんかと思いきや、自分と二つしか違わないとは予想だにしなかった。


 不意に脇腹へ差し込まれた肘鉄に現実へと引き戻され、悶える声で「川樋……葵、です」と告げる。くすくすとはにかむ明日葉の所作もまた品があった。



「それはそうと、兎萌さん。ちょっと前まで、釈迦堂くんが来てたよ?」

「知ってます。こっちには百目鬼の御曹司が迎えに来てたんで」



 困り果てた様子で肩を落とす兎萌の背後から、ぬっと大男が顔を出した。



「いっそ出禁にしようか?」



 印象的に大男と思ってしまったが、よく見ると、プロレスラーやボディビルダーのような、ゴリッゴリの体型というわけではない。しかし細マッチョというわけでもない。よく鍛え上げられた体と、風体の割に一本筋の通った姿勢も相まって、実際よりも大きく見える。


 子供の頃に見ていたヒーローたちのような、安心感さえおぼえる雰囲気だった。


 兎萌は「んー、別にいいや」と手を払う。



「個人の問題でジム間にカドが立っても悪いし、フッてりゃそのうち飽きるでしょ。それに、ひとまず葵――ああ、彼なんだけど。彼氏ってことにして追い払ったから」

「何っ、君が兎萌の彼氏だとぅ!?」

「違うってお兄ちゃん、彼氏のフーリー!」

「お兄ちゃん!?」



 聞き捨てならない情報に、葵は声を上げた。言われてみれば、目元が似ていなくもない。


 妹からの衝撃的告白を受けた兄は、すっかりラリ――もとい据わっている目で、こちらの胸倉に詰め寄って来る。葵は心中で納得した。この詰め寄り方は兄妹でそっくりである。



「はじめはみんなそう言うんだ!」

「んなわけないでしょうが! どいつもこいつもフリから恋愛始まると思うなよ!?」

「嘘を言え! 世の中では言いよる男たちを避けるためだとか、ストーカー野郎への対策のためだとか、親からの結婚の催促を躱すためだとかいう口実で始まるんだろう! 兎萌が読んでいるマンガ動画ではそうだったぞ!」



 がっくんがっくんと揺れる頭が落ち着いた後で、葵がちらっと視線を向けると、



「……………………」



 兎萌は無言で目を逸らした。



「お前が元凶かよぉ!?」

「ちがうの! その、事故った後、入院中にヒマだったし。慣れないベッドで寝られなかったし。スマホで動画サイト見てたら、ちょっと……その、成り行きなの! 信じて!」

「何ィ、『本当に愛してるのはあなただけなの』だとぅ!?」

「言ってねえよ!? おい兎萌、お前の兄ちゃんの耳どうなってんだよ!」

「貴様に『お義兄ちゃん』と呼ばれる筋合いはなァァァい!!」

「言ってねえよお!?」



 もうヤケクソである。勝手に高められたボルテージのまま、勢い任せに拳を繰り出す。


 しかし。


 ぺちん、と大胸筋の表面を打ち鳴らしただけで、羽付兄は微動だにしなかった。



「……悪い兎萌。やっぱ俺に格闘技とか無理だわ」

「いやいやいやいや! 待って、まだ早まらないで!」

「何ィ、『私も一緒に逝く』だと――」

「お兄ちゃんは、黙ってて!」



 兎萌が松葉杖をとんと打ち付けると、その体が浮き上がったかと思った瞬間に、雷のような右足が、羽付兄の腹部へと轟いた。



「えっ……?」



 二、三メートルもの距離を飛んでいく巨躯を、葵の目がスローモーションで追っていく。



 嘘だろう。素人とはいえ男の拳が動かせなかったものを、女子の細い足が、それも全力の出せない手負いの状態で放った攻撃で、これだ。


 冷や汗が伝う。女はか弱いなどと言ったのは、どこのどいつだ。

 興奮で汗が蒸く。彼女の選手生命が断たれたなどと断じたのは、どこのどいつだ。


 気が付けば、葵は笑っていた。


――私がキックを始めようとしたときには、『女の子が野蛮だ!』なんて騒いでさ。


 これほど美しく力強い武の芸術を、野蛮と蔑むなんて不届き者がいるからこそ、ソクラテスは無知の知と唱えたに違いない。しかし、その言葉が浸透している時代でなお、自分は無知であったことを、


――そのあだ名、あんまり好きじゃないのよね。かわいくないもん。


 彼女を『蹴り姫』などというあだ名で呼んでしまったことを、



「か、かっけえ……」



 涙を流すくらいに悔いていた。


 吹き飛んだことで冷静さを取り戻したのか、妹の剣幕に項垂れたか、別人のように大人しくなった羽付兄の土下座交じりの自己紹介を受け、彼の名前が勇魚いさなということを知った。



「普段テレビでしか見たこともないだろうし、最初はナマで空気、感じてみない?」



 そんな兎萌の提案で、勇魚と、ミット打ちをしていた男性会員とのスパーリングを間近で鑑賞させてもらうことになった。「初めてはナマだとぅ!?」と再び暴走しかけた首根っこを引きずる明日葉さんが非常にたくましく見えた。ここの女性陣には逆らわない方が賢明だろう。

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