第197話 青木颯太は決意を胸に

 ――やけに遅い。


 花音がお手洗いに行ってから、十五分は経っただろうか。

 遅すぎるというわけでもないが、少しばかり遅い気がする。そんな微妙な遅さだ。

 ここから近くのお手洗いまでは一、二分もかかるかどうかのため、どうも不可解に感じた。


 仮に道に迷っているというのであれば、連絡があってもいいはずだが、それもない。


「……念のためだ」


 お手洗いには時間がかかる場合もある。

 しかし、なんとなく悪い予感がした俺は、お土産屋を出て近場のお手洗いに向かう。


 ……すると、やはり予感は的中していた。


「なあ、いいじゃん?」


「……待たせている人がいるので」


「そう言わずにさ。旅行とかだろ? いい思い出作らせてやるから」


「結構です」


 断っていても、断り切れない。

 花音はこういう時に押しに弱いのだ。……もっとも、決して着いていくことはないが。


 強気で断ったとしても、男側も花音のような可愛い子を簡単には逃そうとせず、花音も花音で怯えてしまって男が去っていくのを待っている。

 いつものことだった。

 今までだって、花音がナンパされるのは何度も会ったこと。

 それでも俺の胸は痛んでいた。


「……お兄さん、俺の彼女に何か用?」


 怯えている花音の間に入るように体を滑りこませ、男から花音を遠ざける。

 睨みを聞かせながら割って入るが、どうも男はひるむ様子はなかった。


「は? 何お前?」


「何って、彼氏ですけど?」


「お前が彼氏? 馬鹿言ってんなよ。どうせ正義を気取った通りすがりのやつとかそんなんだろ?」


「違いますけど」


「あ、正義ぶってその子を狙ってるとか?」


 そう言いながら男は高笑いをする。

 どうも俺と花音が知り合いということを信じていないらしい。


 ただ、下手に名前を呼んで知り合いアピールもしたくない。もうこれから二度と会うことはないだろうが、こんなやからに名前を知られたくないのだ。


 男は諦める気配はなく笑っている。


「お前みたいなんが付き合えるなら、俺のが断然いいだろ」


 わかっている。……わかっているのだ。

 俺は花音と釣り合っているかと言われればそんなわけはない。

 今まさにそのことに悩んでいるのだ。


 しかしだ。


「俺とこの子の何を知っているんですかね? あなたには言われる筋合いはないですよ」


「調子乗ってんなよ?」


 男は不機嫌になっている。

 それでも手は出してこなかった。

 周りには人が多く、よくこんなところでナンパをしてきたなと思うような場所だ。むしろその勇気に感服するまである。


 下手に挑発をするつもりない。

 それでも俺は一歩も引かなかった。


「釣り合ってないことくらいわかってる。それはあなたの言う通りです。でも、俺はこの子の隣に立っていたい。……俺は少しずつでもこの子の隣に立てるようにになりたいんですよ。それに、見合う見合わないじゃなくて気持ちが大事なんじゃないですか?」


 自分の中で出した答えはこれだった。

 落ち込んでいる暇はない。

 俺と花音が周りから見れば釣り合っていないことくらいわかっている。

 だからこそ、俺は何かを手に入れたかった。


 そしてそのは、大学で勉強をして、これから手に入れようとしているのだ。


「少なくとも俺とあなたで決定的に違うのは、この子のことを知っているかどうか。……俺が釣り合わないというのなら、あなたの方が釣り合いません」


「なっ、なんだと?」


「外見だけで判断する人に、この子を渡すわけないだろ」


 地雷はどこに埋まっているのかわからない。

 男は拳を握り、怒りをあらわにしていた。

 挑発をしたつもりはなかったが、言葉を間違ってしまっただろうか。


 しかし、俺にも譲れないところはあった。

 この男が、俺と花音の何を知っているのか。

 わかっているからこそ、特に知らない外野に触れられたくないも存在するのだ。


 周りはざわついている。

 もしかしたら通報をされているかもしれないが、時間は取られたくないため大ごとにはしたくない。

 俺と花音の貴重な時間なのだから。


 密かに後ろに回していた左手の感触を確かめ……俺たちは走り出した。


「あっ! ちょっ!」


 合図もなく走り出したことに、男は反応できなかったのだろう。


 俺たちを追いかけようとして一歩二歩と踏み出したが、無様にひっくり返っていた。

 これは織り込み済みだ。その男はチャラチャラとしているため、いきなり走り出せば転んでしまうような機能性のない靴を履いていることを確認していたのだ。


 しばらく俺たちは走る。雷門の入り口にまで行けば、警察がいるため追いかけてきたところでどうもされないだろうという考えだ。

 息を切らした俺たちは、通行の邪魔にならない端に寄って息を整える。


「颯太くん、ありがとう」


「いや、むしろ遅くなって申し訳ない」


「全然だよ。しつこくって連絡もできなかったし、気付いてもらえなかったらって考えるとちょっと怖かったから」


 そう言う花音は、体を震わせている。

 震える手を胸の前で必死に抑えていた。


 抱きしめたくなる衝動に駆られるが、いかんせんここは公共の場だ。

 俺は花音の手を自分の手で優しく包み込んだ。


「……大丈夫。側にいるから」


 花音は小さく頷いた。

 安心したのか、俯く花音の足元には小さな雫がポツポツと……無数に落ちてくる。


 誰にも見られないように壁になりながら、花音が落ち着くまで俺は手を離すことはしなかった。




「それにしても、颯太くんって機転が利くよね」


 落ち着いた花音は小さく笑顔を見せる。


「ああ……、ちょっとだけ待たせることになったけど、見かけた瞬間にそうするしかないと思ったんだ」


「なるほどね」


 ナンパされている花音を見つけた時、俺は無策に割って入ることはなかった。

 一分程度だが、下準備をしてから割って入ったのだ。

 それが功を奏したと言ってもいいだろう。


「来たと思ったらいきなり携帯見せられるんだもん。ちょっと驚いちゃった」


「さっきの人がいたから二人で話せないからな。意思疎通するなら文字しかないだろうなって」


 携帯には『左手を後ろに回したら握ってくれ。二回強く握ったら入り口まで走る』と書いておき、二人の間に割って入ると同時に右手に持っていた携帯を後ろに回して花音に見せていた。

 俺が話すのをやめなかったのは、男の視線を俺の顔に注目させたかったからだ。


 もし、いきなり腕を引っ張って走りだしたら花音が危ない。

 幸い動き回るために靴は動きやすいものだったため、多少なら走れると判断したのだ。

 そして、男の靴が走りづらいということも、事前に見て気付いていた。


 ……だいたい一度はあるような黒歴史的なことだが、花音がナンパされた時にどうやって対処するかという妄想が、まさにここで生きたというわけだ。


「颯太くんめちゃくちゃカッコ良かったよ。さらに好きになっちゃった」


 素直な言葉に素直な笑顔。

 日も落ち始め、夕日に照らされている花音の表情がパレードの時と重なった。


「……こんなところで言うのもなんだけど、俺はちょっと悩んでたんだ」


「どうして?」


「花音の隣にいていいのかって」


 若葉に吐露した心の中の悩み。

 場所は最適とは言えないが、タイミングは最適と思って口に出す。


「そんなこと――」


「――ないって花音なら言うのはわかってる」


 わかっているのだ。

 花音の否定の言葉を遮り、俺は自分の中の気持ちを吐き出した。


「わかっているから、さっきの人に言われたのが腹立たしかったんだ。わかってることを言われるのって嫌だから。……それにさっきも言ったように、俺は花音と釣り合わなかったとしても花音の隣にいたい。隣に立っていてもおかしくないって思われるような人間になりたいんだ」


 釣り合わないからといって、離れていくようなことはしない。

 俺はいつまでも花音の隣にいたかった。


 花音は俺の手を強く握る。


「……絶対だよ?」


「約束する」


 改めて気持ちを確認し合う。

 依然緊張はするものの、少し前まであった不安はいつの間にか綺麗さっぱりなくなっていた。


 最後は苦くもあったが、こうして俺たちの卒業旅行は終わる。

 集合場所で虎徹と若葉と合流し、俺たちは帰路に着いた。

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