第168話 かのんちゃんは呼ばれない!?

「どうぞ」


「ありがとー!」


 花音が温かい飲み物を人数分入れると、若葉が笑顔で礼を返す。


 花音の家に来た俺たちは、リビングのテーブルで教科書を広げていた。

 若葉のテンションで勉強ができるのか不安もあったが、花音が飲み物を用意している間にすぐに勉強モードに切り替わっていて、その不安は杞憂きゆうに終わった。


 しかし、一つだけ食いついたことがある。


「あっ、かのんちゃんと颯太のマグカップお揃いだー」


 ――目ざとい。


 一緒に買いに行ってから何度も使っているが、それを若葉が知るのはこの時が初めてだ。

 使っているうちにあまり意識しなくなっていたため、気にしていなかった。

 俺は若葉に指摘されたことで少しだけ照れ臭くなる。


「……さて、勉強しよっか」


「えっと……、マグカップ……」


「勉強しよっか?」


「はい……」


 花音の圧によって、若葉は沈静化する。


 怒っているわけではない。

 ただ照れ臭いだけということに俺は気が付いていた。

 ……何故なら、耳が真っ赤になっているからだ。




 それからは静かなもので、俺たちは黙々と勉強を続けていた。


 人それぞれだが、環境によって勉強のしやすさは違う。

 一人の方が集中できる人もいれば、複数人で見られている……監視されている気分になった方が集中できる人もいる。

 俺たちは後者だったということだ。


「んー……、疲れた」


 花音は伸びをしながら胸を逸らす。

 俺の視線は釘付けになったが、そこは思春期男子……しかも彼女に対しての視線だから許してほしい。

 当の本人は気が付いていないようで、疲れた肩を揉み解していた。


「それなら、そろそろ休憩にしようか」


「そうだね」


 最初は勉強を急かしていた花音も流石に疲れたようだ。俺の提案に同意する。


 花音の言葉に続くようにして、若葉は「疲れたー!」とうなりながら机にもたれかかった。

 虎徹も相当疲れたようで大きなあくびをしながら伸びをする。


「あっ、飲み物なくなってるから淹れてくるね」


 そう言って花音はキッチンへと消えていく。


「……颯太さ、かのんちゃんって良い奥さんになるね」


「それは……、まあ」


 もし結婚したら……なんてことを想像してしまう。

 俺だって家事がまったくできないわけでもなく、するつもりだ。

 しかし男として憧れてはいる。


「そういう若葉の方はどうなんだ?」


「若葉は普通に家事できるぞ」


 俺の言葉に答えたのは意外にも虎徹だった。


「お、おう……」


「意外?」


「そういうわけじゃないけど、虎徹が食いついたのが意外で……」


「あー、それは確かに」


 普段はこういう話に素知らぬ顔をしている虎徹だ。

 たまに食いついてくる時はあるが、それでも珍しいことには変わりない。


 恥ずかしかったのか、虎徹はそっぽを向いている。


「これでも私、花嫁修行はしてたんだよ? それに初花もいるから、お母さんがいない時とかは私が家事したりするし」


「そういえばそうだな。俺も似たようなところあるし」


 両親が共働きということもあり、小さい頃は兄として妹のお世話をしたいと考えていた。

 今でこそしっかりしている凪沙だが、小さな頃は甘えん坊だったのだ。


「何の話してるの?」


 飲み物を淹れ終えた花音が戻ってくる。


「かのんちゃんが良い奥さんになるって話!」


「えっ? ……そ、そうかな?」


 すでに話は変わっているが、まあいい。

 花音は嬉しかったようで頬を赤らめている。


「気が利くし家事できるしで完璧だなって」


「そんな……、完璧じゃないよ。……それに、うちって特殊だったから不安はあるし」


「そっか……。でもかのんちゃんなら大丈夫そう」


「そうかな? だったらいいな」


 不安げな顔を見せていた花音だが、若葉の言葉で緩んでいた。


「あっ、これ冷めないうちにどうぞ。また飲み終わったらまた淹れるから」


 そう言って花音はティーカップを若葉に差し出した。

 先ほどはカフェオレだったが、今度は違うカップで紅茶が入っている。


「颯太くんと藤川くんも」


「ありがとう」


「……さんきゅ」


 紅茶のいい香りが漂ってくる。

 ……違いはわからないけど。



「……そういえばさ、かのんちゃんって何で虎徹のこと苗字で呼んでるの?」


「えっ? 何でって言われても……」


「だってそれなりに仲良くなってるよね?」


 言われてみると少しだけ違和感があった。

 かれこれ一年が経っても呼び方は変わらない。……と言うよりも、呼び方が変わったのは俺が花音を呼び捨てで呼ぶようになったくらいだ。それも随分と最初の頃に。


「それなら虎徹の方こそ花音のことを本宮呼びだけど……、確か周りに流されたくないからだっけ?」


「そうだな」


 周りは花音のことを『かのんちゃん』と呼ぶ。例え花音にとって初対面の人でも、花音は有名なためそう呼ばれることがあった。

 ただ、虎徹は誰に対しても基本は苗字呼びで、名前で呼んでいるのは俺と若葉くらいだ。


「逆に颯太は最初は『かのんちゃん』って呼んでたな」


「まあ、周りに流されてっていうか……」


 特に理由はなくなんとなくだが、俺は花音のことを周りと同じように呼んでいた。

 少し違うかもしれないが、担任の後藤を心の中では呼び捨てで呼びながらも、他の人と話す時は『先生』をつけているといった感じだ。


 花音と仲良くなる前は周りに合わせてそう呼んでいたが、心の中では呼び方は適当だった。

 例えば『花音』や『花音さん』と呼んだり『本宮』や『本宮さん』と呼ぶこともある。なんなら『本宮花音』とフルネームの時もあった。


「……って、俺の話になってるな」


「そうだった。……私はそれなりに仲良くなったつもりだけど、確かに呼び方変わらないね」


 そう言いながら、花音はわざとらしくショックを受けた素振りをした。


「……もしかして私、嫌われてる?」


「……別にそういうわけじゃねえよ」


 そっぽを向きながら虎徹は答える。

 改まった話で恥ずかしいらしい。


「呼び方変えるなんて今さらだろ? それに、若葉だって呼び捨てで呼んでもいいんじゃないか?」


「……確かに」


 虎徹は自分から話題の矛先を変えようと、若葉に向ける。

 すると若葉は納得している様子だ。


「……花音」


「……わ、若葉」


 キメ顔で言う若葉に対し、花音は照れている。

 急に呼び方を変えるというのは、いくら慣れてる人でも気恥ずかしいものだ。


 しかし、若葉はしっくりこない様子で首を傾げている。


「うーん……、やっぱりなんか違うかな? かのんちゃんはかのんちゃんだよ!」


「う、うん……」


「でも、ちょっと変えるかな? かのんちゃんじゃなくて、花音ちゃん!」


「……どこか変わったか?」


「さあ……?」


 どこかしらよそよそしさが抜けた気がしなくもない。

 ただ、具体的には難しいが、声のトーンが少し変わっただろうか。


「あっ! それならちょっと変えてみてきゃのんちゃんとかくぁのんちゃんとかは?」


「言いづらいだろうし、普通に嫌」


「ご、ごめんなさい……」


 急に真顔になった花音に、若葉は怯えている。


「怒ってないけど、次言ったら若葉ちゃんがわかめちゃんになるから」


 そう言って花音は悪戯っぽく笑っている。

 花音自身はからかっているつもりなのだろうが、若葉には伝わっていなかったようで、まだ怯えていた。


「さて、お話もそろそろ終わりにして――」


 花音が空気を変えようとそう切り出したが、携帯のバイブレーションが鳴る。

 何故かこういう時は全員が自分の携帯を確認してしまう。


 ただ、その音は花音の携帯からのものだった。


「ごめん、ちょっと待って……って、お父さん!?」


 花音は「ちょっと電話出てくる!」と自室に向かっていった。


「……どうしたんだろ?」


「さあ?」


 若葉と虎徹は首を傾げている。


 花音と父親……幸成さんの関係は徐々に良好になりつつあるということは聞いている。

 ただ友達が来ている時に親から電話が来たから焦ったのだろう。


 そう思っていたが、自室の方から聞こえるほどの声で花音は謝り倒していた。


「ごめんなさい! 忘れてました! ……ちょっと友達が……え? 今から!? あっ! ちょっ……」


 焦っていることはわかった……が、内容自体はわからない。

 当然、幸成さんの声は聞こえてないのだから。


 そして花音は青い顔をして戻っていた。


「どうしよう……。お父さん来るって」


「……まじか」


 突然のことに、俺と虎徹、若葉は驚きを隠せない。


 しかし、一番ひどい表情をしていたのは花音だった。

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