第156話 青木颯太は理解する

「花音の母親……私の元妻は花音を残して出ていった」


 出ていった。

 それは可能性として考えていたが、実際に事実として突きつけられた。


 初めて聞く花音の母親の話に俺は緊張から、口の中が乾いていて声が出ない。

 唾液を飲み込んで潤す。


「それはなんでですか?」


「私が仕事ばかりで愛想を尽かした……と聞いている。確かに家事や花音のことは元妻に任せっぱなしだったからな」


 花音の母親は溜まっていたストレスが限界に達したということだ。


 それでも俺は疑問が残った。

 家のことや花音のことなど、負担が大きかったことはわかっている。しかし、『仕事ばかりで家族に干渉してこなかった幸成さんの元に花音を残していくことを何も思わなかったのか』と考えてしまう。

 花音を置いていくという不安はなかったのか、と。


 その疑問を口にする前に、幸成さんは口を開いた。


「元妻はすでに男を作っていたんだ。それで花音を連れていきたくなかったんだろう」


「それって……」


「言いたくはないが、花音のことが邪魔だったということだ。これは本人から聞かされたことだから概ね事実だろう」


 家庭環境が荒れているということは知っていた。

 しかし、想像以上だ。

 父親はろくに家に帰ってこなかったと言っていたが、家庭が破綻していたとはいえ母親も男を作って出ていったのだから。


「花音さんはそのことを知っているんですか?」


「知ってる。……と言うよりも隠せなかったな。大人になってから伝えるつもりだったが、花音は聡い子だ」


 子供は意外と大人の事情を察していたりする。

 俺の家ではそういった隠し事のようなことはなかったが、ちょっとしたことでも案外気付くことがあった。

 少し違うかもしれないが、いつの間にか子供はサンタがいないことに気付いているのように。


 父親からも母親からも十分な愛を受け取れず、花音は今の『本宮花音』になっている。

 だからこそ、中学時代のように他人からの愛情を欲していたのだ。


「……すいません。失礼かもしれないですが、お聞きしたいことがあります」


「構わない。私に答えられることなら答えよう」


「幸成さんは、何も思わなかったんですか? 花音さんの母親が出ていく前も、今もですでけど、仕事ばかりで花音さんを放置していることをです」


 失礼なことは承知だ。わかっていたから前置きをした。

 話を聞く限り、花音がいつも一人でいた原因を作ったのは、まぎれもなく幸成さんなのだ。


 幸成さんは難しい顔をし、答えた。


「何も思っていないわけではない。花音のことは大切な娘だと思っている」


「それならなんで……」


「一つずつ答えていこう。まず私は、元妻が出ていった理由が納得できない」


「家や花音さんのことを任せっぱなしだったからじゃないんですか?」


「それは元妻が望んだことだ」


「えっと……、どういうことですか?」


「家族を養うために私は働く。そして家や花音のことは元妻がやる。それは元妻が元々言い出したことだ」


 話が少しこんがらがってきた。

 ただ、幸成さんの言うことが本当なら、俺はとんでもない勘違いをしていたのかもしれない。


「私は別に仕事人間ではない。元妻のことは大切に思っていたし、花音のことは今も昔も大切だ。だから元妻は『家のことは全部任せて、生活のために稼いできて』と私に言ったんだ」


「……仕事のことはわからないですけど、それでも休日とかはどうだったんですか?」


「花音が幼い頃は普通に出かけたりもしたよ。ただ、幼稚園や小学校になる頃にはもっと金がいると言われた。もちろん十分な稼ぎはあったが、花音に良い教育をするためには必要だからとな。朝早く出てより遅くまで仕事、休日もだ。いつの日か私が家にいると露骨に嫌な顔をされたよ」


 俺はそんな話を聞き、幸成さんに同情してしまった。

 就職はまだ先ですべてがわかるわけがない。それでも同じ立場だったら耐えられないだろうと思ってしまい、実際に経験している幸成さんは俺の想像の何倍も精神的にきつかったはずだ。


「自分にはわからないですけど、お金ってそんなにいるんですね……」


「はっきり言って必要ない。少なくとも花音一人の教育では使えきれないほどは稼いでいた」


「えっ? それって……」


「……これ以上は私の口からは言えないな」


 花音の母親の話を聞くうえで、幸成さんは事実だけを言っているのだろう。ただ、すべて事実にしても花音の母親のことを悪く言っていることは変わらない。

 だからこそ、一歩踏み込めないところは言わなかったのだ。


 それでも、幸成さんを家から遠ざけておくための方便だとしたら……。

 いや、もしかしたら自由な時間やお金が欲しかったのかもしれない。

 出ていった時のことを考えると、そんな邪推をしてしまう。


「それで、元妻と別れてからのことだが、……今まで花音との時間がなかった私は、花音との接し方がわからなかった。せめて金銭的には不自由な思いをさせたくないと、仕事ばかりだったよ」


「でも、家に帰らないのはなんで……」


「年頃の女の子は、父親を嫌うという話を聞いたからな」


「は、はあ……」


「私がいない方が、花音も気が楽だろう?」


 確かにいつかはそういう面もあったかもしれない。本能的なもので、全員ではないが娘は父親を嫌う傾向にあるらしい。

 しかし昔の花音はその逆で、家にいてほしかったのだ。


 幸成さんは勘違いをしていた。


「私は花音のことを大切に思っている。……だから、家にいない方が気が楽だと思い、不自由をさせないために仕事をしているんだ」


「えっと、言っていいことかわからないんですけど……」


「なんだ?」


「多分、から回ってますね」


「何?」


 大切に思っているからこそ干渉しなかったのだと、幸成さんは主張している。

 しかし、花音にとっては逆効果だった。


「花音さんは一緒にいてほしかったと思います。俺から見ると、花音さんは幸成さんのことを嫌っているように見えませんから」


「そうか。……そうだったのか」


 花音はいつしか、幸成さんに感謝していると言っていた。

 その言葉に嘘偽りはなく、少なくとも嫌っていれば出ない言葉だ。


 少なくとも、花音は幸成さんから愛されていた。

 花音は甘えるのが下手で、幸成さんは愛情表現が下手なのだ。

 だからこそ、遠回しにでしか伝えられなかった。


 花音は愛を受け取れなかったわけではない。

 不器用な二人は、上手く想いを伝えられなかっただけだった。

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