第56話 祝福

「お先に失礼しまーす」

「お疲れ様でしたー」

 総務の部屋を出ると、ちょうど隣の営業の部屋から清水くんが出てきた。


「本当に定時で上がれたんだ?」

「今日は絶対に定時で帰るって宣言しておいたからね」

 へえ、営業で定時に帰れるなんて……恵利原部長もだいぶ変わったのかもしれない。


「婚姻届忘れてないよね?」

「あ。汚さないようにクリアファイルに入れて引き出しに入れておいたんだったわ」

「取って来て!」

「うん!」

 慌てて総務の部屋に戻り、引き出しを開ける。

 明日清水くんのご実家に行って清水くんの保証人になってもらうのに、これを忘れちゃダメだわ。


 水筒を手に、ちょうど帰るところの様子だったさくらが振り向いた。

「どうしたの? 茉悠ちゃん」

「婚姻届入れっぱなしにしちゃってて」

「え? 普通忘れる? しっかりしなよー、茉悠ちゃん~」

「そうよね」

「水城茉悠で会うのは今日が最後かー。なんか感慨深いわね」

「え? そう?」

「だって、清水茉悠になるんだよ!」


 キヨミズ、マユ?!

 聞き覚えはない名前だけど、不思議と違和感を感じない。いいんじゃないかしら。


 廊下で待ってた清水くんに婚姻届を渡し、清水くんがビジネスバッグに入れる。これで失くす心配はないわね。

 3人で階段を下りると、事務棟の入り口に片橋くんと高橋が入って来た。

「お疲れ様です」

「お疲れ。そっか、清水今日早帰りだって言ってたな」

「お先に失礼します」


 高橋なのに、並んで立つ私と清水くんを優しく微笑みながら見る。すごい違和感だわ。

「水城、清水、結婚おめでとう。って、朝言うの忘れてたな。あまりにもびっくりして。末永く、お幸せに」

 高橋……。

「ありがとうございます」

「ありがとう、高橋」

 高橋でもあんな穏やかな笑顔でこんな気の利いたことが言えるんだ。何を言うのかと思ったら……意外だったわ。


 高橋が片橋くんと共に階段を上がって行くと、さくらがサッと寄って来て小声で言った。

「高橋さんって、あんな笑顔するんだ?! すっごい優しい声だったし!」

「私も高橋のあんな顔初めて見たかも。ズキュンときたの? さくら」

「きた!」

 え? 本当に? 冗談で言ったんだけど。

 さくらはとことんギャップに弱いのかしら。


「じゃーね! 茉悠ちゃん、清水、結婚おめでとう!」

「ありがとう」

 ……おめでとう、と言われるごとに、結婚するんだなあって実感が湧く。突然のことだったから、現実味がなかったけど、本当に結婚するんだ、私。清水くんと家族になるんだ。


「今日はお祝いに外食する?」

「うーん。お祝いだから豪華に赤ワイン煮込みでも作ろうかしら」

 ワインは体質に合わないみたいで飲めないから、料理に使うためだけに買うのはもったいない。

「じゃあ、買い物して行こうか」

 最寄り駅で降りて、駅前のイオンに入る。マンション近くのスーパーはお酒の品ぞろえが良くない。


 野菜をカゴに入れお肉を選びお酒コーナーに行く。ワインの並ぶ棚からお安めで濃そうな気のする赤ワインに決めた。

 そのままお酒のビンが並んでいるのを見ていたら、カルーアコーヒーリキュールなるものが目に入った。


 カルーアコーヒー? カルーアミルクの仲間かしら。

 ビンを手に取りラベルを読む。

「清水くん! これカルーアミルクの素だって! 家でもカルーアミルク飲めるよ」

「え! マジで?!」

 清水くんもビンに貼り付けられているラベルを見る。


「えーこんなんあるんだ?! これ1本で何杯飲めるんだろ? 絶対居酒屋で飲むより割安だよね」

「お祝いに買っちゃう?」

「うん! 今日はお祝いに飲もう~」

 清水くんがカルーアコーヒーリキュールなるものをカゴに追加する。


 前は酔っ払った清水くんが見たかったけど、今はその必要もない。そう言えば、一緒に暮らし始めてからお酒を飲んだことってなかったな。


 家に帰り、調理に取りかかると清水くんが洗濯物をしまったりお風呂掃除をしたりと私が何も言わなくても動いてくれる。

 結婚しても続けてくれるのかしら。


 そんないぶかしんだ目で見ていたら、清水くんと目が合った。にっこり笑う顔を見て、この人ならきっと変わらないんだろうな、と思う。

 二面性をずっと隠してた清水くんに第三の顔なんてさすがにないだろう。清水くんの笑顔に浄化されて私も笑った。

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