第53話 帰ろう

 カラオケ屋さんなんてものすごく久しぶりだわ。ふたりだから狭い部屋だ。

 ニコニコと笑うジェントルマンがここでもドアを開けて私を先に入れてくれる。ソファに座ると、中條さんが体を密着させるようにすぐ隣に座った。

 え、こんなくっつかないといけないほどには狭くないのに、変わった人だわ。


 唐突に中條さんが両手で私の顔を挟んだと思ったら、キスしてきた。え? この人すぐキスするわね。何なのかしら。

 顔を挟んでいた手が背中に回って体を触る。店の階段下でのサラッとしたキスとは違って、なんだかねちっこい。

 何してるのこの人。歌唱指導は? これじゃ、ふたりっきりになるためにカラオケに来たとしか思えない。


「ねえ、22円しか持ってないんでしょ? どっか行くあてあるの?」

「え……」

 ない。行くあてなんてどこにもない。だから、やんちゃなタイガーに歩いてでも行ったんだもの。


「俺んちおいでよ。お互いひとりぼっちよりさ、暖め合える方がいいでしょ」

 ひとりぼっち……ひとりぼっちは、イヤだ。

 ずっとひとりで生きてきたのに、ふたりで暮らす生活を知ってしまったら、ひとりはイヤだ。


 でも、中條さん絶対何かする気よね。何もしないから、とかひと言も言わずに私の手に指を絡めて片手は私の肩を抱いて耳元で話しかけてきている。


 ……もう、いいか。何をされても。清水くんはもう、私のことなんて気にしてる場合じゃない。

 私は恥知らずにも生まれてしまった清水くんに対する希望を断ち切らないといけない。


「うん」

「決まり! 今から行こうよ。俺店に連絡だけ入れてくるね」

 今から? 本当にここに何しに来たのかしら。


 中條さんがテーブルに置いていたスマホを手に部屋を出て行った。

 あ、スマホ。

 美容院に行く時に電源を切ったっきり、すっかり忘れていた。


 バッグからスマホを出し、電源を入れたら着信音とメッセージの通知音が鳴った。

 うるさ!

 画面を見ると、メッセージのアプリに762と表示されている。見たことのない数字に驚いた。え、762件の未読があるの?


 開いてみると、「どこにいるの?」「電話して」「お願いだから話を聞いて」とズラーッとメッセージが並ぶ。

 何これ、怖い。呆然と眺めていたら、着信音が鳴った。清水くんからだ。


「はい」

「やっと既読になった! 茉悠さん、今どこにいるの?!」

「今? カラオケ屋さん」

「カラオケ? ひとり?」

「今はひとり」

「今は? ちょっと前までは誰がいたの?」

「やんちゃなタイガーのスタッフさん」

「あの店の?! その人今は?」

「店に連絡しに行ってる」

「連絡?! 今すぐ、その部屋出て! その人に見つからないようにカラオケ出て!」

「え?」

「いいから! 早く! すぐその部屋出て!」


 何なのかしら。とりあえず言われるままドアを開けて外に出た。すぐにスマホを見ながら歩いている中條さんの姿が見える。

 清水くんは見つからないようにって言ってた。右に曲がるとトイレがあったから、女子トイレに入って中條さんをやり過ごす。


 あ、急いで出ないと私がいないことに気付いた中條さんが探しに出てくるかもしれない。

 早歩きで店外に出る。

「出たよ」

 と言うと、電話口でふう、と清水くんが息をついた音がする。


「どこにいるか分かる?」

「分からないわ」

「何か周りに店とかない?」

「コンビニがある。せいてんざか五丁目店って書いてるわ」

「せいてんざか? 聖天坂ショウテンザカか! そのコンビニの奥に隠れてて! 俺今からすぐ迎えに行くから! 絶対に動かないでね! もう逃げないで!」


 返事も聞かず、電話が切れてしまった。

 でも、もう逃げたりなんてしない。清水くんは意志が強い。せっかく逃げても奏さんを置いて出てきてしまうなら、これ以上逃げたりしちゃあ、待ちくたびれた奏さんが愛想を尽かしてまた去って行ってしまうかもしれない。

 言われた通りコンビニに入り、奥へと進む。


 ドレッシングが並んでいる。コンビニって意外と品ぞろえがいいのね。フレンチ、ごま、イタリアン、シーザー、オリジナル。オリジナル?

 オリジナルのドレッシングって、他のと何が違うのかしら。創作居酒屋ひろしのオリジナルサラダの味の秘密のヒントでもあるかしら。本当においしかった。できることなら、あの味を自分でも再現したい。


 ドレッシングのビンを手に、熱心に原材料をチェックする。……素人にはよく分からないわね……。あ、もしかしたらこれが――


 かなり集中していたみたいで、人の気配にまるで気付かなかった。突然、後ろから抱きしめられて驚いた。危うく両手に持っていたドレッシングを落としそうになってしまった。


「もう会えないんじゃないかと思った。会社も辞めちゃうんじゃないかって思った。いくら探したってこんな街中でさえ見付けられない。どうしたらいいのか分からなくなった。店から電話かかってきて、またあの店で働くのかと思った。茉悠さんが逃げたって聞いて、もう俺の顔なんか見たくないのかと思った。茉悠さんは俺の言うことなんか何も聞いてくれない」


 私への恨み節がすごいわね。

 清水くんだ。怒ってるのかしら……。目線を動かして清水くんの顔を見ると、良かった、怒ってはなさそう。

 でも、良くない。ものすごく不安そうな目で、清水くんも私を見ている。心配かけてしまったんだわ……。


「ごめんなさい。美容院に行く時にスマホの電源切ってたのをすっかり忘れてて」

「え? そんな理由? なんだ……着拒じゃなかったのか……」

 清水くんが、はあ――と盛大なため息をつく。

 着拒? 私が着信拒否をしたと思ったのかしら。そんなこと、やり方が分からないわ。


「帰ろう、茉悠さん。とにかく帰ろう。今すぐ帰ろう」

 私の手からドレッシングを取って棚に戻す。

「帰るって……どこに?」

 清水くんが笑って私の手を握った。

「あのマンションだよ、もちろん。俺たちの家でしょ」

 私の手を引いてコンビニを出る。


 え……あのマンションに私も住み続けるの? 何考えてるのかしら、清水くん。あんな狭いワンルームでハーレムでも作るつもりかしら。

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