第52話 お姫様

 風俗店の階段下で絶望する私の隣で、中條さんはニコニコと笑っている。

「どうしたの? 白馬に乗った王子様が天神森から助け出してくれたって聞いてたけど。自分から戻って来ちゃったの? お姫様」


 ……お姫様……お姫様だなんて、私は……。

「清水くんのお姫様は私じゃないから。清水くんは優しいから、助けてくれただけだから」

 言いながら、頬に筋が通るのを感じる。また泣いてるのかしら。濡れた頬に風が一際冷たい。


 太い指が頬の涙を拭ったと思ったら、唇に温かい柔らかい感触がした。間近にある中條さんの顔にびっくりして涙が引っ込んだ。

「じゃあ、俺のお姫様になってよ」

「え?」

「店長が優しくて超料理のうまい、今のシュウちゃんにオススメしたい名店があるんだよ。ちょっと早いけど、メシ食いに行かない?」

 あ、そう言えばお昼ごはんも食べていない。おなかすいた。


「だいぶ髪切ったんだね。似合ってるよ。俺短い方が好き」

 さすが、中條さんは女の子たちを束ねる仕事をしてるだけあって、おしゃべり上手でもう20分以上歩いてるだろうけど話が途切れることもない。

 本当に今日はよく歩くわ。徒歩30分の美容院に行くからと歩きやすい靴を選んでたけど、まさかここまで歩くとは思ってなかった。


「ここ、ここ」

 と中條さんが指差したお店は、名店と言うにはとても素朴だ。体が大きくて派手な中條さんのイメージとは真逆の、小さくて質素な「創作居酒屋ひろし」と大きな看板を掲げた居酒屋だ。


 引き戸を開けた中條さんが

「どうぞ、お姫様」

 とレディーファーストにしてくれる。あら、ジェントルマン。


 店に入ると、「いらっしゃませー!」と威勢のいい声がする。中條さんも入って引き戸を閉め、慣れた様子ですぐ右側の長テーブルのあるお座敷に靴を脱いで座った。

「こっちこっち」

 手招かれるまま私も靴を脱いで隣に座る。


「いらっしゃいませ!」

 と若い男の子がお通しを持って来てくれる。

「俺ビール。シュウちゃんは?」

「あ、えっと、カルピスチューハイ」

 けっこうアルコールの種類は多いのにカルーアミルクはないのね。あっても飲む気持ちにはなれないけど。


「カンパーイ!」

 陽気な中條さんのグラスに私のグラスを合わせる。注文は中條さんに任せて、ひと口だけ飲んでお通しを食べよう。おなかすいた。

 ほうれん草のごま和えだわ。空っぽのおなかに優しそうでいいわね。え! 何この味。すごくおいしい!

 小さなお通しはすぐさま食べてしまった。

 中條さんが笑う。

「腹減ってんの? 俺のも食べていいよ」

「いただきます」

 遠慮なくもらう。本当においしい!


「いらっしゃい、准くん。准くんは本当に2回と同じ女の子連れて来ないねえ」

 メガネをかけた穏やかそうな笑顔の男性がカウンターから親し気に声をかけている。中條さん、かなりの常連なのかしら。

「いつもは仕事関係ばっかっすからー。今日はプライベートっすよ」

「准くんが仕事してんの見たことねえよー。店行っても毎回フロント立ってんのは健ちゃんじゃねえか」

 隣のテーブルに座るおじさんが中條さんの背中をバシッとたたく。

「いつもごひいきにありがとうございますー、田島さん。俺がフロントの時ならサービスしますからー」

「准くんより女の子にサービスしてもらいてーわ」

 あははははは、と笑っている。


 あのお店は、こういうおじさんたちで成り立っているんだわ。料金が高いから若いお客さんは少ない。


 お刺身盛り合わせとオリジナルサラダがやってきた。やっぱり冷メニューは早いわね。

 早速お刺身を食べると、普通のお刺身とは何かが違う。驚くほどにおいしい。しょうゆが違うのかしら。でも、お刺身本人も何か違う気がする。えー、何これ不思議な味。


 サラダを食べてみると、キャベツにレタスにむきエビにって食材はありきたりなのに食べたことのない味。これもものすごくおいしい!


「どうですか、お姫様? 見た目の割にオリジナリティあふれる味でしょ」

「すごい! すごくおいしい!」

「店長、ああ見えてすっごくこだわってるからね」

 中條さんがバクバク食べる私を見て笑っているメガネの人を指差す。あの人が店長さんなんだ。

 あんなごく普通の穏やかそうな人がこんな刺激的な味を創り出すだなんて、すごいわ。


 と思ったと同時に、全然関係ないことを思い出した。

「あ、ごめんなさい中條さん。私美容院に行ったりで22円しか持ってないのに食べちゃったんですけど」

「冗談でしょ、22円? いや、ここの支払いならいいよ。俺のおごりだから好きなだけ食べて」

「ありがとうございます」


 お言葉に甘えて好きなだけ食べた。本当にどれもおいしかった。

「ごちそうさまでした」

「満足した?」

「大満足です。本当においしかった」

「かなり気に入ったみたいだね。また連れて来てあげるよ」

「ぜひ、また来たい!」

「ねえ、お姫様。カラオケ行かない? 俺前はボイストレーナーやってたから、歌唱指導してあげる」

「歌唱指導?」


 そうだ、副業しないといけないんだった。なのに、今日のことで更にやんちゃなタイガーには戻りづらくなってしまった。

 それに清水くんがせっかく辞めさせてくれた風俗に戻るのはやっぱり気が引ける。高時給にこだわるのはやめて、またスナックで探そうかしら。

 スナック・ホワイトタイガーではカラオケを歌うこともよくあった。苦手だったけど、歌唱指導を受けられたらスキルアップになるかもしれないわ。


「はい。よろしくお願いします」

「よし! 行こ!」

 創作居酒屋ひろしを出て、夜道を歩く。


「シュウちゃんは好きなアーティストとかバンドとかあるの?」

 お酒が入ったせいもあるのかしら。中條さんがえらくごきげんだわ。私の手を取ってブンブン大きく振りながら歩いている。

 薄手のワンピースのままなのに、お酒を飲んだからか体がポカポカとしながら中條さんについて行った。


「こちらです、お姫様」

 カラオケ店の自動ドアを開けて腕を伸ばし、店内へと促す。

 ちょこちょこ挟んでくるお姫様っていうのは何なのかしら。なんだか気恥ずかしいけど、悪い気分にはならないものね。

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