第51話 秋の長すぎる散歩

 フラフラと来た道を戻る。駅まで帰って来た。でも、もう電車に乗るお金なんてない。だって財布の中身は22円。


 どうしよう……駅前のテナントビルを見上げる。まだ私が働いていたスナック・ホワイトタイガーの看板が残っている。

 ママ、元気かしら。


 あ、タイガー。

 幸い今日は土曜日だ。今からと明日一日風俗店やんちゃなタイガーで働けば、とりあえず所持金は増える。

 土曜の晩なら、ネカフェにでも寝泊まりして月曜日に会社に来ていく服を買うくらいは稼げるだろう。このワンピースで出勤するのはなんかがんばってる感がある。


 でも……せっかく清水くんが辞めさせてくれたのに……。

 ううん、清水くんはもう私の仕事になんか構っていられない。私は私で、清水くんにお金を返しながらひとりで生きていかなきゃならないんだ。手段を選んでる場合じゃない。


 お金がないから天神森を目指して歩いて行く。迷わないように、線路沿いを歩く。

 迷ったって、もう清水くんには頼れない。困ったら連絡してって言ってたけど、あの時と今では清水くんの状況が違う。


 ここで私が連絡したら、優しい清水くんは助けてくれるかもしれない。でも、清水くんが奏さんにまたフラれてしまう。誰にでも優しい彼氏は、彼女からすれば気分のいいものじゃないだろう。


 ……私は本当に性格が悪い。一瞬でも、奏さんがいなくなれば私があの部屋に帰れるかもしれないと思ってしまうなんて。

 奏さんがいなくなったら、また清水くんが泣いてしまう。それはイヤだわ。


 はじめは太陽に照らされて汗ばむくらいだったのに、日が傾いてくると途端に寒くなってきた。風が吹くたび汗に体温を奪われる。

 風がビュービュー吹いている。寒い……昼間は天気が良かっただけに、上着を家に置いてきてしまった。


 ゆうべは清水くんが抱きしめてくれてあんなに温かかったのに、翌日こんなに寒い思いをしているだなんて……。


 すっかり日が落ち体が冷え切った頃、やっと天神森に着いた。やんちゃなタイガーまであと少しだわ。


 でも、あんな辞め方をしておいてまた雇ってほしいだなんて、厚顔無恥なお願いよね。

 どうしよう、違うお店に飛び込んでみようかしら。でも私には自分から風俗店の門をたたく勇気はない。


 健太さんは、待ってるって言ってくれてた。フロントが健太さんだったら店に入ろうかしら。

 中條さんだったらどうしたらいいのかしら。


 やんちゃなタイガーの狭くて白い階段を上る。久しぶりだな……。真ん中辺りの踊り場から階段が方向を変える。見上げると、もうやんちゃなタイガーの自動ドアが見える。


 階段を上り切って店内を見ると、フロントは健太さんだ。……どうしよう……いざとなったら、やっぱり入りにくい。

 でも、風が強くてとても寒い。部屋が余っていたらとりあえず中に入れてもらうだけでもできないものかしら。


 一歩踏み込んで自動ドアを開ける勇気が出ない。うだうだしていたら、健太さんが私に気付いた。笑顔で手を振ってくれる。

 ああ、良かった、イヤそうな表情は微塵もなく笑ってくれてる。私も手を振り返す。

 首をかしげた健太さんが手招きに変わった。

 良かった。健太さんがまたこの店に招いてくれた。


 自動ドアを開けて、久しぶりに店内に入る。

「久しぶり、シュウちゃん! 髪切ったんだー、垢ぬけたじゃん~」

 健太さんの笑顔がいつも通りで、久しぶりなのを感じさせない。

「え! どうしたの、シュウちゃん? 鼻水すごいよ、こっち入って」

 カウンターに入って行くと、健太さんがティッシュで鼻水を拭ってくれる。


「え? 泣いてんの? えりがびっしょり濡れてるのって涙?」

 ああ、涙のせいで余計に秋風が寒かったのかもしれない。

 ティッシュで私の顔をゴシゴシと拭いてくれる。痛いけど、私に構ってくれることがうれしい。


「はい、キレイになったよ」

 笑った健太さんがカウンターの浅い引き出しから小さな紙を出す。

「まさか本当に電話することになるとは思ってなかったよー」

 と店の電話の子機を手に取った。紙を見ながら電話をかける。

「早! あー柊さん? 柊さん何したの? シュウちゃん超泣いてんだけど。ダックダクなんだけど。うん、そう、今店。うん、分かったー。はーい。柊さんすぐ来るってー。バックで待ってて」


 柊さん? え? 清水くんに電話してたの?

 清水くんが私を迎えに来るの? 奏さんを放って? なんで?


 ……あ……清水くんは優しい。分かってたのに。私なんかが考え及ばないほどに優しい。

 あんな家の出方をした上に連絡が来たものだから、優しい清水くんは迎えに行かなきゃと思ってしまったんだわ。

 私、邪魔者になってる……。


 自動ドアに向かって走る。なんとか通れそうなくらい開いたと共に外に飛び出した。

「シュウちゃん!」

 呼んでる健太さんを無視して階段を駆け下りる。これ以上、清水くんに迷惑をかけられない。逃げなきゃ。


 小さな踊り場を曲がったら、中條さんが上って来ていた。

「シュウちゃん?」

「見逃してください! お願い、通して!」

 せまい階段に体の大きな中條さんがいたんじゃ、通り抜けられない。


 自動ドアが開いた音がする。

「シュウちゃーん」

 と健太さんの声がする。見つかる!


「こっちこっち」

 階段を下りた中條さんが手招きしている。ついて行くと、階段下のスペースだ。ちょうど頭上に健太さんがいる。

「あ、柊さん? シュウちゃんが逃げたー。悪いけど俺、今店にひとりだから探しに行けないわ。ごめんねー」

 また清水くんに電話をかけながら店に戻って行ったようだ。


 はあ……。

 良かった、なんとかなったわね。


 ……ううん、なってない。全然なんとかなってない。所持金22円なのに、これじゃ店に戻ることもできなくなってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る