第50話 逃走

 一番忙しい月初の締め作業を終えた私は、気分転換をしたくなった。美容院に行って、肩下の長い髪をあごくらいまで切って、色ももっと明るくしたい。


 昨日から一転、今日はよく晴れて暖かくなりそう。これなら、上着はいらないかな。置いて行こう。

 テレビの天気予報を見ていると、洗濯物を抱えた清水くんが

「何時頃帰って来るの?」

 と聞いてきた。


「えーと、予約が11時で2時間の予定だから……」

 その時点で1時。でも、帰り道も計算に入れると

「1時半くらいかな。2時にはならないと思うわ」

「じゃあ、昼食べずに待ってるよ。朝も遅かったし」

「分かった。行ってきます」

「いってらっしゃい」


 いつもは私が見送るけど、笑顔で見送られるのっていいものだわ。私ももっと笑うように心がけよう。


 日差しが強くて暖かい。ゆうべは暖房入れたくなるくらい寒かったのに。

 あ、スマホの電源を切っておこう。

 美容院は苦手。ロクに知らない人と話すには時間が長すぎる。スマホの通知音が鳴って、どうぞ確認してください、とか言われて確認してスマホを置いて会話に戻る瞬間が一番苦手。

 ワンピースのポケットからスマホを出し、電源を切ってバッグに入れる。


 意気揚々と歩いて行くと、片道30分はかかるかと思ったのに、全然早く着いた。

 あら、早く着きすぎちゃったわ。まあ、遅刻するよりいいか。



「キレイなお色に染まりましたねえ! 色持ちを良くするシャンプーとコンディショナーのセットがおすすめですよー」

 鏡で頭の後ろ側を見せてくれながら、美容師さんが売りつけてくる。こういうのも苦手。この店にはもう来ないわ。でも、本当にいい色。


「でも私、1万5000円しか持ってきてなくて」

「あら、ちょうど! セットで3000円なんですよー」

 あらら。1万2000円のメニューだから念のため多めに持って来たのがあだになったわね。

 まあ、いいか、本当に色持ちが良くなれば無駄にはならないわ。


 コンディショナーがビンに入っているせいか、袋が重い。やっぱり買わなきゃ良かった。

 バッグはななめ掛けしているから、右手、左手と交互に持つ。

 あ、1時半に帰るって言ったけど、早くに着いたのにすぐ施術してもらえたからまだ1時を過ぎたくらいだわ。いっか、遅れるなら連絡も必要だろうけど、早い分には構わないだろう。


 マンションに着いて、階段を上り2階の端の部屋のドアを開ける。

 目の前にはロンTにデニムのラフな格好の若い女性がいて、部屋の真ん中辺りに清水くんが大きめのダンボールを抱えて立っている。


「おかえり、茉悠さん。早かったね。お! だいぶ切ったんだね、似合ってるー」

「ただいま」

 知らない女性も笑顔で会釈してくれる。

 あら、髪を切ったばかりの私と同じくらいの長さ。背も同じくらいだけど、陰キャ女子高生だった私と違って健康的で運動のできそうながっしりとした体格をしてらっしゃるわ。

 ハッキリした顔立ちでかわいらしい女性に私も会釈を返す。


 知らない人だと思ったけど、どこかで見たことあるような……うーん、思い出せないわ。

「あ、その人は福多フクタ カナデさん。俺の高校の同級生で、引っ越すからって昔俺がいろいろ貸してた物とか返しに来てくれて」


 ――奏さんだ。

 そうだ、清水くんの卒アルで見たんだ。


 清水くんがフラれて泣いちゃうくらい、ヤケ酒あおっちゃうくらい好きな彼女。

 奏さんが、清水くんの元に戻って来た。


 手から力が抜けて、ガシャンと音がする。

 せっかく買ったのに、コンディショナーのビンが割れてしまったのかもしれない。


「茉悠さん? 聞いてる? 茉悠さん? 茉悠さん?!」

 はじめは笑っていた清水くんが、だんだん焦りだしたかのように名前を呼ぶ。

「茉悠さん! 待って、大事なことだからちゃんと聞いて!」

 とっさに割れたビンが入っている袋を拾って、ダンボールをローテーブルに置こうと腰を曲げる清水くんの足元目がけてぶん投げた。


「あっぶね! あ! 茉悠さん!」

 清水くんが何か言ってる声がするけど、無視して逃げる。一目散に必死に走る。


 恥ずかしい。

 私はきっと、またどこかで勘違いや思い違いをしてしまっていたんだ。

 清水くんは優しいから、風俗なんて仕事をやめてほしかっただけなのに。


 恥ずかしい。

 会社に副業のことや借金のことを言わずに済むように、優しい清水くんが気を利かせて表向きは付き合ってるって設定にしてくれただけなのに。

 恥ずかしい。

 清水くんの優しさをはき違えて、私はいつの間にか清水くんと付き合ってるような気になっていた。


 恥知らずな私が必死に走った先に、駅が見えた。

 あ……住む所を確保しなきゃ。

 奏さんが戻って来たあの部屋に、私の居場所なんてない。前に住んでいたマンションの解約を取り消しに行かないと。


 電車に乗って、前の部屋へ向かう。切符を買ったらお財布には22円しか残らなかった。

 車窓から流れる景色を眺め、イヤでも落ち着いてくる。

 何も持たずに飛び出してきてしまった。明日着る服すらない。食べるにも飲むにも22円で何ができるのかしら。


 ……こんな家の出方をして、優しい清水くんは気にしてしまうんじゃないかしら。

 良かったねって、おめでとうって、笑わないといけなかったんじゃないかしら。

 とっさにそんな判断なんて、できない。


 そうか、もしかしたら、最近毎日かかってきてた電話は奏さんからだったのかもしれない。奏さんだと分かっていて、清水くんは出なかったのかもしれない。

 どうして出なかったのかしら。こうして対面してしまうより、言ってくれた方がきっとずっとマシだったのに。


 前の部屋に行ってみると、業者さんらしき作業着の人たちが洗濯機を運び込んでいる。

 え……あ! もう新しい住人がいるの?!


 どうしよう。この部屋にももう戻れない。

 どうしたらいいんだろう、住む所がない。その上財布の中身は22円。

 ゆうべはあんなに幸せだったのに、これはもう……絶望するしかないんじゃないかしら。

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