第44話 魔法が解ける瞬間

 せっかくの休日だというのに、朝早くから私がひとり暮らしをしていた部屋の片付けに向かう。

「これは? いるの?」

「何それ?」

「何か分からない物はゴミだね。捨てるよ」


 清水くんが半透明なゴミ袋に何か分からない物を無造作に入れる。

「待って、でも取っておいた物なら必要な物なのかも」

「え? 今使ってない何か分からない物はゴミだよ」

「でも、思い出も思い入れも何もなくても長年を共にしてきたから愛着は湧いちゃって」

「思い出も思い入れもないのに長年を共にするからこの部屋ができあがったんでしょ。茉悠さん、この部屋の物を処分しに来たのを忘れないでね」


「忘れてはないんだけど……」

 何と言えば伝わるのかしら。

「なんでトイレットペーパーの芯とかティッシュの空き箱までこんなに取ってあるんだよ」

「それはゴミじゃないの!」

 それは、私の宝物! 貴重なケイ様の私物! 1万円で買ったトイレットペーパーの芯5個とティッシュの空き箱5個セット!


「後はゴミの日に捨てるだけのゴミでしょ、ゴミ袋に入ってんだし」

「え? ゴミ袋?」

 清水くんが手に持っているのは、聞いたこともない市の名前が書かれた指定ゴミ袋とティッシュの空き箱だ。袋自体にデカデカとゴミ袋と書かれている。

「あれ? ……ゴミだわ」

 宝物しか目に入ってなかったけど、たしかに清水くんが持っている物はゴミ袋とゴミだ。


 呆然としていたら、清水くんが笑って私の顔をのぞき込んできた。

「どうしたの? 魔法が解けた瞬間みたいな顔して」

「魔法?」


 本当に魔法みたいだわ……宝物だったはずなのに、一瞬にしてゴミに変わってしまった。


 どうして私は、1万円をゴミと引き換えて赤の他人の子供の養育費を払って喜んでいたのかしら……え?

 私、今ケイ様のことを赤の他人だなんて……?!

 愕然とする私を見て清水くんがまた笑った。


「本当にどうしたの? ゴミを大切に集める呪いでもかけられてたの?」

 ……もっとひどい。

 ゴミに大金を支払う呪いをかけられていたの。


 ケイ様と初めて出会ったあの頃は、彼氏だと思っていた岡崎くんと忘れるほど会ってないな、とふと思い出した頃だった。

 さくらの言う通り、岡崎くんに私からの愛情を感じられないと言われたのが別れ話なんだとしたら、1年近くも私はとっくに別れていたことに気付いていなかったのかもしれない。

 なのに、思い出したら私は今ひとりだなって急に寂しくなった。


 そんな時に、忘年会の帰りに歓楽街を歩いていたら、

「そんな顔してるなんてもったいないよー。若い今こそぶっちぎれるってもんだよー。今寂しくても上回る楽しいがあれば気持ちが360度変わるんだから」

 と、天神森のきらびやかなネオンを受けたケイ様が私の心を捕らえるには十分すぎる笑顔で話しかけてくれた。


「まぶしい……! 360度変わったら、どうなるの?」

 私の頭には分度器が思い浮かんでいた。

 何度三角定規の角度が変わろうとも、それを測る半分だけが丸い分度器の底辺はまっすぐなの。

 何も変わらない気がしていた。私はずっと、平坦な人生を生きてきた。


 清水くんの言うように、呪いが解けたのかしら。

 今の私は360度変わってしまったら一周して何も変わらないんじゃないかしら、としか思えない。

 でも、変わりたい。

 物が多くてごちゃごちゃでぐちゃぐちゃだった私の部屋が何もない空き部屋になったみたいに。


「なんでこんな狭い部屋で退去費用15万ー?! もー、マジで上回ってくるな、茉悠さん!」

「ごめんなさい、私もなんでか分からないんだけど」

 清水くんがゴミはゴミとして処分する姿勢を徹底して、時には衝突しながらも無事に目標としていた今月中の退去が成立した。

「ゴミは溜めない! 不必要な愛着は持たない! 持つべき愛情だけ持ってよ」

「いらない物なんてないつもりだったのになあ」


 物がない部屋は、まるで私の部屋じゃないみたいだわ。

 つい最近まで、この部屋にひとりで住んでいたのに。

「こうして見ると、案外広い」

「そうだね。今住んでる部屋より広いかもしれない。よくあそこまで散らかしたもんだよ」

 清水くんが隣に立って笑う。


 本当にそうね。

 物がなくなったら、壁のくすみや汚れが一際目立つ気がするわ。

 長年ありがとう。何もお手入れしなくてごめんなさい。ここに入居した時はまだ十代だったからこんなにしちゃったけど、今ならもっと大切にできるんじゃないかしら。たぶん。きっと。


 清水くんのスマホが鳴った。ポケットから出して画面を見た清水くんが、真顔のまま動かない。

「どうしたの? 出ないの?」

「いや……知らない番号だから」

 清水くんがスマホの画面をこちらに向ける。

 番号が表示されている。連絡先に登録されていない携帯からの着信みたいね。


 やがて、着信音は止まった。

「ねえ茉悠さん、もっと広い部屋を探そうか? あの部屋、ふたりで住むには狭いよね、やっぱり」

「え? また引っ越すの?」


 面倒だわ。

 部屋を処分するだけじゃなくて引っ越しとなると今回よりも手間がかかる。不動産屋さんを探して引っ越し屋さんを手配してガス電気水道の手続きをして……面倒だわ。

 でも、めんどくさいからイヤだ、では意志の強い清水くんには通じないだろう。


「私が清水くんへの借金を返済し終わってからの方がいいんじゃないかしら」

「何年かかるんだよ」

「だって、ただでさえ親御さんへの恩返し資金が200万も減ってるのよ。引っ越しとなるとお金もかかるし」

「あ……」


 どうしたのかしら。清水くんが申し訳なさそうに頭をかいた。

「あの……ごめん、茉悠さん、その話なんだけど」

「鍵OKでしたー! ありがとうございました! またご結婚、お子様の誕生などお引越しを検討される際は当店でー!」

 バターンと豪快にドアを開けて陽気な不動産屋さんが戻って来た。

 この人がもう少し落ち着いた人なら、清水くんが言うように引っ越しを考えるにしても不動産屋さんを探すところから始めなくて済むんだけれど。


 清水くん、ごめんって言った?

 ごめんっていうのは、悪いことをした時や言った時なんかに謝る言葉。親御さんへの恩返し資金なんて謝る要素のない話をしてたのに、どうして……。


 どうして清水くんが私に謝るの?

 私に何か悪いことをしたの?


 私、どうしたのかしら。清水くんを信用しきっていたのかしら。

 清水くんが私に謝らないといけないような事実があるのかと思ったら、胸がドキドキしてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る